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第6回講座 : 仏教の成立史と日本での信仰 [ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教、ヒンドゥー教]

第6回講座 仏教の興亡と日本での信仰
 
 

バラモン教下、実践的哲学者ゴータマ・シッダールタの誕生。

インド亜地域に紀元前2500年当時存在した宗教らしき宗教はバラモン教だけだった。
もっともバラモン教は支配層の宗教であり、支配層の人民を支配する為の論理であって、いつの時代も文盲の人々は土着信仰、地母信仰と共にある。原始的な神々、あらゆる自然の恵みと脅威をもたらす愛すべき神々、そして畏怖すべきというやつだ。
だが原始宗教には体系的な構造などないし、そんなもの求められてもいない。各地によって様々だ。
だが人民を支配するには、権威が必要だ。権威はどこから来る??
権威は武力や宗教、資産によって来る。。。単に人柄やリーダーシップによってくるというのは夢物語だ。

さて、誰でも知っているように、バラモン教最大の特徴はカースト制度というやつだ。
だが大半の人が勘違いしているが、カースト制度というのはそれほど単純な上意下達のピラミッド構造ではない。
カースト制度というのは、基本的にはそれぞれのカーストごとに分離した社会を構成すべく定められたもので、最上位カーストは最上位カーストのみで社会を構成し、下の上位、中位カーストの人々によってやんごとなきを支えられているという構造だ。
上位カーストの人々は上位カーストの人々だけで社会を構成し、彼らは中位カーストの人々の使役労働によって様々に支えられているという構造だ。
そういう分離した身分制度社会がトータルとして支配の道具として役立つのは、自分たちより下位のカーストが存在し、下位のカーストに対して絶対的にも近い権威と権限を持っているという自意識だ。
下位カーストでさえ、自分たちより貧しく、権利を持たない、権威なき人々の存在によって、自意識=社会を支えられていて、それが上位カーストというものの存在さえも認める根拠となる訳だ。
よく言う"自分たちよりもっと不幸な人たちがいるんだから我慢しなさい、幸せだと思いなさい"というアレとまったく同じ構造だと言えば、理解できるはずだ。
そしてもうひとつは輪廻転生だ。ただ今の我々の知っている輪廻転生感とは少し違う。。。
支配層は支配層に生まれ変わる。中間層は永遠に中間層であり、最下位層は永遠に最下位層として生まれつく。。。
それが支配論だ。お分かりか?
※教義的にはウパニシャッド哲学との関わりで、ブラフマン(宇宙我)とアートマン(個人我)が有名だがそれは本論では省略させてもらう。ペルシア、ゾロアスター教との共通点が多いことでも知られるが、成立時期の前後については明らかではない。

さて、だがもちろん、いつの世にも反逆の徒はいる。
だが間違ってはいけないが、いつだって奴隷たちは反逆を起こさない。
反逆を起こすのはより恵まれた者たちであって、大抵は支配層の中であったりさえする。

ゴータマ=シッダールタ(ブッダ)はそんなひとりだった。
だが彼はなにも社会に動乱を起こすような反逆をした訳ではない。
彼はただそれを否定しただけだ。
しかも別に大きな声で否定を叫んだ訳ではない。寧ろ誰に対しても叫んだりはしなかったというべきだろう。
彼はただバラモン教の教えを自ら否定しただけだ。
彼は思索の徒だった。彼は実践型哲学者と呼んでいいだろう。
彼は人間であり、伝説などどこにもない(あとから伝説を身に纏わされた訳だが)。
彼が拒否したのは輪廻転生だった。(だが輪廻転生のシステムを否定した訳ではない。)
きっと彼は嫌世家だったのだ。彼はもう二度とこんなバカげた(苦痛に満ちた)世の中に生まれつきたくなかったのだ。
そして"解脱"によって、輪廻転生の輪から逃れることができる。もう二度とこんな世界に生まれ変わらなくて済むという哲学を創り上げ、実践したのだ。
カーストの否定も後代の産物であって、彼自身はカースト制度からの脱却と輪廻転生の拒絶を重ねていたとみるべきだ。
同時期にはヴァルダマーナによって同じようにカースト制度に否定的なジャイナ教も創生をみている。ジャイナ教はより激越な修行と不殺生による解脱を説いた。

もちろん、ゴータマは裕福な子弟の出だったから、彼の説く哲学に耳を傾ける仲間には事欠かなかったようだ。
そして多くの弟子が彼と同じように"解脱"に励むこととなった。
それは人々の噂となり、より下位のカーストの中にある人々の中にも、輪廻転生から逃れたいと願う者たちが続出しても不思議ではなかったろう。
そもそも最上位カーストの支配層の人々は労働から完全に解放されていただろうから、修行することにどんな問題もなかったろう。
続く上位カーストの人々にしても、決して難しくはなかったと推測される。
だからそういう人々は知識人、上位カーストを中心にしつつ、少しずつ増えてゆき、結果的にかなりの数の信者というべきか、追随者たちを生み出したらしい。
ブッダの語る哲学はとても魅力的なものを持っていたが、その実践はやはりごく普通の人々にとっては苦痛というか、困難を伴っただったろう。
人々は最初は惹きつけられても、そのままではそう長続きはしなかったはずだ。
だから普通に考えるとインド各地に広まるに連れ、実践度は下がってゆき、思想だけがどんどんと広まったと考えられる。常人には不可能な解脱Mokshaを(ブッダその人さえ実践の徒であった訳で、ようやく死を以て解脱を果たしたと解されるべきものだ。伝説の中では生前に解脱しているが)、もっと安易な形で、すなわち"修行"や"滅私"、"私利私欲の断舎離"のようなものまで哲学的実践は形を変えて広まったとみるべきだ。
より厳格でストイックなジャイナ教が仏教のように巨大な存在にならなかったのをみるとそう考えるのにも一理ある。
或いは単にカーストを否定し、輪廻転生を否定するものとして民衆に受け入れられたということさえ考えられる。(ブッダその人はカーストも、輪廻転生もそれらの存在自体は否定していない。それらの意義・価値を否定したというに等しい。)
おそらくは、そういった変遷を経てブッダの教えを継ぐ者たちは、ブッダの死後も支配層の中に大勢残ったのだと想像する他ない。。。(とは言え、いったいどのくらいだったかはどんな資料も存在しない)
そもそも支配層(分かりやすく国王や地方豪族、領主)が、仏教徒であるならば、その地の被支配民族(領民)はほとんどの場合、仏教を押しつけられる訳で、仏教徒と呼ばれる。たとえば実際にアショカ王がそれだ。
だが一方で民衆の中に本当に根を下ろしたかと言うと...なにしろ、いつの世も、民衆は祈り、願いを聞き届けてくれる存在としての『神的存在=救済』を求めている訳だが、ブッダの教えの中にそういう絶対的創造神は存在しない。仏様(ほとけさま)の存在はブッダの教えの中には一切ない。それは民衆の間に広がりを見せる上では非常に弱かったろう。
だからブッダの生前に、その教えは少しずつ変質しつつ、各地へ広まっていたと考えられなくもない。

そういう変質、バラつきがあって、ブッダの死後の動きは、ブッダの弟子たちによる師の教えの確立から始まる。。。。
各地に広まり、伝言ゲームよろしく様々に解釈され、伝説を伴ってすっかり変質の危機に直面しただろうブッダの教えを、弟子たちが寄り集まって、正統派を確立しようという試みだ。(キリスト教でも繰り返されてきた歴史だ。)2回、3回と数年の間隔を空けて、ブッダの教えが確認される。(※当時は言行録の編纂ではなく、ただ会議として口頭で統一が進められたらしい。)
けれど、もう口伝えにインド各地に広まったブッダの教えは、その時点ですでに伝言ゲームさながら様々に姿を変えてしまっていたと想像する方が正しい。
そして諸派が生まれる。。。要は分裂だ。破門されるような諸派もたくさん出る。




仏教の衰退とヒンドゥー教の成立


分裂を経て、仏教は一旦、檜舞台から姿を消すかのように見えた。。。代わって台頭してきたのがヒンドゥー教だった。
実はヒンドゥー教の開祖が誰かはさっぱり分からない。そんなものはいないのだ。伝説的にも存在しない。
ヒンドゥー教の成立には少なくとも3つの要素が関わっている。

1.民間土着信仰・地母神伝承の説話集"リグ・ヴェーダ讃歌"の編纂成立。
2.バラモン教指導者による生活習慣・法体系の"マヌ法典"の成立。
3.ブッダ亡きあとの諸派分裂・破門された亜流の存在。

いずれにせよ、ヒンドゥー教という名称は最初からあった訳ではなく、後代になって、それなりの統一された形を持つようになってから名づけられたというのが正しい。(バラモン教という名はもっとさらに後代につけられたらしい。)
"リグ・ヴェーダ讃歌"そのものは未読なので内容については詳しくは触れられないけれど、数多の土着信仰、地母神に捧げられた讃歌に絡めて、人々の生活の中にある規律や戒律の成立について決して体系的にではなく、寄せ集め的に土着民間宗教の伝承として編纂されている。

 そんな中、ブッダらによる仏教の広がりに危惧を抱いただろうバラモン教は、自らの宗教体系と秩序維持の補強にでる。
それが"マヌ法典"の成立と呼ばれる。それはイスラームにも共通する"法概念"、社会構造の確立を目指したものだった。
その頃すでにローマ、キリスト教世界と接していたインド社会は仏教やさらに同時期に発生した"反カースト"宗教ジャイナ教などの影響も踏まえて、民衆の生活様式、生活習慣に則した統合的な法体系として"マヌ法典"を成立させた。カースト制度の正当性を確認する必要もあったろう。だからそれはあくまでもバラモン教の支配体制をより確実にし、全土の支配を固める為だったと言われているが、その過渡期の中で先に挙げた"リグ・ヴェーダ讃歌"が編纂され広まったことがヒンドゥー教の成立に深く関わっている。

 ひとつの見立てとして、この民間伝承説話である"リグ・ヴェーダ讃歌"が、先ず破門されたブッダの亜流と結びついて神仏宗教と化し、そこに法体系であるマヌ法典が為政者たちによって導入され、それらがミックスされてヒンドゥー教の母体が出来上がったと考えてもいいかもしれない。だからと言っていいと思うが、ヒンドゥー教は、ブッダの教え"解脱"を、死に至らずとも"修行=ヨガを通じて生きることにより"果たせるとより人々に受け入れられやすい形で流布させることになる。これをヒンドゥー教の新しいアイデアであるとみる必要はないだろう。ブッダの教えが各地へと広まる中で、そういう破門されたような諸派がヒンドゥー教を創り上げていったとみる方が現実的だと思われるからだ。(なにしろ開祖が存在しない訳で、すべてが曖昧に年月を掛けて取り込まれていったのだ。だからヒンドゥー教は宗教という以上にひとつの文化習慣でもある訳だ。)



仏教の巻き返しと変質。



さて、仏教に戻る。。。

 そんな訳で、民衆は祈り、願いを聞き届けてくれる存在としての『神=救済』を求めているにも拘わらず、それに応えられなかった仏教は一旦、インドではその勢力を失うかに見えた。仏教がその勢いを取り戻すには変革が必要だった。
まさにそのウィークポイントである"救済"を取り入れることでしか仏教に道は残されていなかった。
だが、もちろん、そんなことを考えてブッダの弟子たちが変革を成し遂げた訳ではあるまい。
まさに諸派分裂・破門の中からそれは生まれたのだ。

 最初は民衆に救いを差し伸べるものとして神に代わる"菩薩信仰"を掲げた分裂諸派が勢力を拡大してきたと考えられる。
"菩薩"とは、神仏ではなく、修行者のことだ。だがカトリックにおける聖者と同じように、修行者そのもの神格化する動きとして出てきた訳だ。そもそもブッダは人であって、人間であって、なんら神的な存在ではない。それを神的な存在にしようという試みでもあったろう。ブッダが修行者として神的な存在となり、人々に救済を齎す者となるならば、たちまちのようにそれらは偶像化される。偶像崇拝を禁じたはずの人間イエスがまさに偶像としての磔刑のイエスとして蘇り、人々に信仰されたように、ブッダもまた神格化と同時に仏=ブッダとして偶像化され信仰されることで、"ブッダ=救済する者"という構図が生まれた訳だ。
そうしてようやく仏教は大衆宗教としての性格を纏い始める。。。
さて、ここからは仏教史の時間だ。
わたしには手に負えない。。

 歴史的な事実だけを積み上げると、そんな訳で、アショカ王の時代に一度は王権の伸張に伴ってインド亜大陸を席巻するかに見えた仏教だったが、バラモン僧たちの巻き返し、ヒンドゥー教の創生と席捲によりインド亜大陸からはほぼ一掃されてしまう。
 その後の仏教の歴史を辿ると再び蘇えるのは発祥の地インドではなく、中国大陸においてであった。
 仏教の衰退と移動についてはイスラーム勢力の侵略・支配による寺院の破壊等も見逃せない主因と言われており、寺院に生活拠点を置いていた仏教指導者たちがチベットや中国を始めとする国外へ避難したことも確認されている。 

 中国で新しい変化は起き、ブッダの教えは、"大乗仏教"というまったく異質な伝説物語へと変質する。それが我々日本人が中国から輸入した"仏教"というやつだ。(※それに呼応して、ブッダのオリジナルな教えは"小乗仏教"と呼ばれるようになる。)
 そこには神的な存在としての仏(ほとけ=ブッダ)があり、カトリックやギリシア神話に端を発する地獄とその支配者、閻魔大王がいたり、異様の菩薩は観音菩薩、千手観音、不動明王から毘沙門天、阿修羅、金剛力士、大黒天までもはや原始宗教的な色合いの濃い偶像崇拝を基にした多神教、ゴータマ(ブッダ)が知ったら腰を抜かすような土着信仰や地母神と分かちがたく結びついたごった煮の様相を呈した新興宗教が出来上がった。。。

 だから仏教には2種類あるということ。ひとつはブッダが目指した解脱を目的とする実践的哲学、小乗仏教であり、現在は少数派であって、主にスリランカ、タイ、ミャンマー、カンボジア、ラオスなどで信仰されており、もうひとつは多数派で、大乗仏教と呼ばれ、ヒンドゥー教やカトリック、イスラームなど様々な影響を受けて出来上がった神話的仏教と言ってよく、中国、チベット、モンゴル、ベトナム、朝鮮、日本で信仰されているものだということ。但し、チベットやモンゴルのものはチベット仏教として区別されるが系統としては大乗仏教に属すると考えられている。また現在の中国では14%-20%以下の人々が信仰しているに過ぎないとされているし、より土着信仰と深く結びついた異質なものであるという。
※チベット仏教にはいくつかの大きな分派があるので注意。



日本における仏教信仰の実態。



そんな訳で、我々日本人が信仰している大乗仏教というのは、仏教神話であり、それが故に、大半の日本人において仏教信仰は、祖先崇拝を中心とする真の意味で信仰と呼ぶには相応しくない曖昧なものに留まっている。またキリスト教と異なり、洗礼の儀などが存在しない為、生まれた時から好むと好まざるとに関わらず、先祖の"家"の属性のひとつとして仏教徒であるとされる為、無自覚的であることも少なくない。また大乗仏教においては、カトリックと異なり、破門という概念が極めて希薄であり、僧身分以外の者が破門されることはまずない。師を抱く小乗仏教においては破門制度がある。

 おまけに日本における仏教の祈祷文の主文は、サンスクリット語の音写(韻を聞き写し)して漢字を当て嵌めたもの=南無阿弥陀仏や、サンスクリット語を中国語に漢訳されたものを日本式に読んだもの=般若心経、サンスクリット語の音写と漢訳の日本語読みを混ぜたもの=南無妙法蓮華経、等を使用しており、日本語としては意味をなさず、日本人には理解不可能な祈祷文をそのまま現在に至るまで使用している。
 それが故に、日本人は特別に仏教を受講しない限り、仏教の思想を理解することが不可能であるということ。(※これはどう考えても異常な信仰形態というしかないだろう。例えば古代ヘブライ語で書かれた聖書の文言をアルファベットに音写したものを現代米国人が意味も分からずにそのまま暗唱しているようなものだ。)
こういう祈祷文の難解さは、大半の日本人を自らの宗教であるはずの仏教を理解することから遠ざけてきた。
 また6世紀半ば交易を通じて中国から仏教を輸入した訳だが、それ以前、古代日本には土着信仰である多神教、神道と呼ばれるものがあった。神道もまた独自の開祖を持たず、『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』、『宣命』といった伝承を編纂した書物を神典として成立している。
 神道は仏教を広める為、わざと一部を除くすべての神社で長く仏教思想と混合され=神仏習合、その後19世紀半ば明治時代になって初めて、政治的な配慮から神仏分離が徹底された。その為、日本人の信仰の中では仏教と神道は綯い交ぜにされたままであり、仏教徒として規定されながらも、神道の神を崇めることを異としない。
 そういう難解さや曖昧さが積み重なって、日本人はキリスト教文化を受け入れることにも躊躇がなく、特に第二次世界大戦後の日本社会は欧米文化に感化される中で、キリスト教的価値観に重きを置く神仏混交のカオスとなっている。
 故に、我々日本人の大半は、新年には神社へ参拝し、カトリック教会で挙式し、仏教徒として仏閣にて葬儀を行うということが日常化している。
それは日本人の信仰の曖昧さ、希薄さを招く大きな要因となっている。
 
 
 
(※わたし個人としてはこれをナショナリズムの文脈に置き換えて捉えて欲しくはないとここに付記しておく。) 

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2006年度 読書記録と批評 [読書記録]





読後感想 2006年版 (当時のものをそのまま再録) ※日付は降順





日付 書名 著者 ジャンル お奨め度

5/7 モディリアニの生涯(廃刊) アンドレ・サルモン 伝記

 一昨年、ひろしま美術館で偶然モディリアーニに出逢うまで、彼の作品は大嫌いだったと言っていい。だがそこで「青いブラウスの婦人像」を観て「おお、モディリアーニにもいい絵があるじゃないかっ!?」と驚きを抱くと共にふつふつと興味が湧いてきた。そして昨年ちょうどA・ガルシアの映画『モディリアーニ -真実の愛-』が公開され、その内容のいい加減さに違う意味で驚きながらも少なくとも史実を知りたくなって、本書を購入した。(まあ、それ以来半年も本棚で眠っていたのだけれど。)
 さて、肝心の本書だが、モディリアーニと同時代人であり、多少なり親交のあったというアンドレ・サルモンという詩人、作家が1957年に書いたもの。作家としての技量は認めていいかも知れない。巧みに様々な風情を織り交ぜて描き出してゆく。だが所詮は小説だ。彼が知り得たはずのないシーンが次々に再現されてゆくのを読まされるのは奇妙な感覚だ。その瞬間モディリアーニがどのように感じ、どんな仕草でそれを表現し、彼と対峙する人物はとんな台詞を吐き、どう考えたのか。。。そんなことが判るはずもない。まあ、それはいい。だがもうひとつザンネンなことにここにはモディリアーニの生涯はスケッチされてゆくけれど、美術評伝としての作品解説がまったく欠け落ちてしまっている。具体的な作品名を上げての解説は皆無と言っていい。その辺の情報がまったくないのは如何なものか。彼の作風の変遷や彫刻との出逢いなどもかろうじて行間に読み取れるかどうかというところだ。
 ジャンヌという人物のおかげで彼の生涯はドラマチックなものになってはいるが、それも彼自身の生涯そのものとは言えない部分だ。
 幸いにして6月にはひろしま美術館で、『ピカソとモディリアーニの時代』展が開催されるようなので、まあ、丁度いいタイミングでの予備知識にはなったか?

5/3 1968-世界が揺れた年-(後編) マーク・カーランスキー ジャーナリズム

 前編の読後感で、『自らの活動を誇り、社会に対する感心と反抗の表明を思春期の伝統として育みつづけてきた欧米各国とは異なり、日本に於ける彼らは行動を開始し、後に自分たちの行動を否定することで、"反抗する青年"の伝統を培わず、むしろ蔑ろにしてしまった。』と書いたが、思えば米国社会もまた日本と同じように『伝統として育』むことはして来なかったと言っていいだろう。或る意味では米国は歴史を持たない社会だ。それは彼らの建国が200年余りだということではない。かの国は多民族国家であり、多層階級・多分裂社会であるが故に、社会全体としての歴史観=世代的記憶を共有しにくいばかりでなく、政府がそれら多元的大衆を率いる為に常に二者択一の単純化された政策を突きつけるが故に、また時の為政者の責任を問うことが比較的容易であるだけに、自らの国民の選択という責任を忘れがちであり、自分たちをいつも操られた被害者としてその責任の転嫁を成すことにより、国民自らが健忘症に陥ることを容易にしている。アフガニスタン、イラク空爆に諸手を上げて賛成した国民がその舌の根も乾かぬうちに自らが選択したはずの、為政者とその政策を否定することが罷り通る社会意識構造を持っているのだ。
 前置きが長くなったが、そういう意味では同時代人である本書の著者のスタンスが曖昧=中道であるのも、68年世代の多くを現実的変節漢として戴いてきた米国人ならではとも言える。彼の中の68年世代としての誇りは社会的成功者としてのそれに近く、したがって68年世代のみに留まる自負(特権意識)のようなものに突き当たるかのようだ。
 前編の感想にも書いたが、著者の筆致は決して明晰でもなく、活き活きとその時代の空気を伝えるものでもない。傍観者としての俯瞰的立場に立脚(←言葉はおかしいが。)している。(同時代人であるにも関わらず個人的活動史が一切触れられないのも現実的に彼が傍観者でしかなかったことによるのかも知れない。そしてにも関わらず、自身の世代的行為として彼は自らに自負心を抱いているようだ。わたしがこれまで知り合った多くの日本の68年世代もまた、自らはノンポリであったにも関わらず、そして68年運動を総体としては否定的観点から批評家ぶるにも関わらず、一方では自分たちの世代の内的モニュメントとして他の世代に対して理屈の通らない自負心を抱いていた。68年運動の独占意識でもある。)
 ダラダラと、もともと無いにも等しい結論部分を思わせぶりに後回しにして、読者を振り回し、最期にそれらを結びつけようとする(失敗に終わっているが)のは、ひと頃のタランティーノ映画の手法を模倣でもしたいのだろう。だがそもそもの結論が前述のような自負意識に留まるものでしかないし、それほどの一次資料に当った形跡もなく、どこまでが憶測、推論によるものなのかも不明瞭だ。68年以前の歴史的伏線についても不足がちだし、それ以降の展開については無きにも等しい。世界的事象となった68年運動の多面性を論考・論文ではなく年代記としてまとめようとした点にそもそものムリを感じた。年代記としてもここから何らかの共感や感動を汲みとるのは困難ではなかろうか。はっきり言って二流だ。

4/21 1968-世界が揺れた年-(前編) マーク・カー・ランスキー ジャーナリズム

 もうここを何度も訪れてくださっている方は、わたしの1968年世代に対する熱い思い入れは御存知のことと思う。1968年世代とは、もちろん1968年生まれの世代のことではない。1968年、世界中が学生運動に揺れ動いた年。その頃にあい前後して大学生だった1946年~1950年生まれの世代、わたし自身より10年程年上の世代ことだ。まさに今、定年を迎えようとし、違った意味で社会問題と化している「昭和22年から26年頃までに生まれた」(1947年から1951年ごろまで)"団塊の世代"のことだ。子供の頃のわたしにとっては憧れの"社会に反抗する大人たち"であり、社会人となってからは"幻滅"と"裏切り"の象徴となってしまった世代でもある。自らの活動を誇り、社会に対する感心と反抗の表明を思春期の伝統として育みつづけてきた欧米各国とは異なり、日本に於ける彼らは行動を開始し、後に自分たちの行動を否定することで、"反抗する青年"の伝統を培わず、むしろ蔑ろにしてしまった。最初<憧れ>であり、後に<幻滅>となってしまった1968年世代への感心はわたしの中で"謎"として残り、今日に至るまで深くわたしの興味を惹きつける対象であり続けている。
 1968年、ベトナムの反戦運動、公民権(黒人解放)運動~キング牧師暗殺、パリ五月革命、プラハの春、トラテルコの夜、アルジェリアから中南米に至る反植民地闘争、東大紛争、R・ケネディ暗殺、中国文化大革命。。。ムルソーの"太陽のせいだ"が叫ばれ、カミュの"反抗の論理"が持て囃された時代。。。当時7才のわたしにほとんど記憶されていないが、2年後(1970年)から始まる、鮮明に記憶に刻まれたハイジャック、シージャック、太陽の搭立て篭もり事件への感心の前景として連なる現在進行形の過去だった。
 さて、前置きが長くなったが、そんなわたしにとって本書に期待するところは否応なく大きいものとならざるを得ない。そして大方の予想通り、その期待は裏切られるしかない。。。本書は小説ではないが、歴史書でもなければ社会学・社会思想の書物でもない。著者はノンフィクション路線とは言え、どちらかと言えばコラムニストのような作家なのだろう。とにかくダラダラと時系列でもなく、国別でもなく、あっちフラフラこっちフラフラと枝葉末節にこだわりを見せながら描いている。同時多発的であり、世界的な連帯でもあった1968年という稀有な年を"生き生きと描き出す"ことに成功しているとは、とてもじゃないが言えない。当時20才だったという著者は、そこに社会的政治的な意義、歴史的な意義を解析したり、俯瞰したりすることよりも、むしろカルチャー的なムーブメントとして懐古的ドキュメントとして描いているように思えてくる。そこには確かに共感も見受けられるが、一方で今日的な観点からみた冷ややかな自嘲的精神すら感じさせる。彼の個人的な体験談でないのは助かるが、さりとてここから何かが明敏に浮び上がってくるとも思えない。最終的な感想は「後編」に譲るが、もはやそれほどの期待感は霧散してしまった。

4/1 火の記憶 1<誕生> エドゥアルド・ガレアーノ 詩・歴史 ★★★

 「学生時代、わたしは歴史が大の苦手だった。歴史の授業というと、蟻人形館や黄泉の国を訪ねるような気がしたものである。過去は身じろぎひとつせず、虚ろで、押し黙っていた。わたしたちが過去を学ぶのは、胸に痛みを覚えずに現在をもあきらめるため―歴史をつくるためではなく、既に出来上がったものとしてこれをただ受け容れるためであった。哀れな歴史はもはや息絶えていた学術書には裏切られ、教室ではごまかされ、記念日ごとの退屈な演説の裡に押し込められた挙句、博物館という名の獄に放り込まれ、そして埋葬されてしまった。その墓には花輪が飾られ、ブロンズの像や大理石の塔が建った。
 ああどうか、『火の記憶』が歴史というものに生気を、自由を、ことばを、取り戻してやることができたなら‥‥‥。数世紀の永きにわたってラテンアメリカが苦しんできたのは、何も金銀や硝石、ゴム、鋼や石油の収奪のみにとどまらない。ラテンアメリカはその記憶をも剥ぎとられてきた。早くから、記憶はその存在を喜ばぬ者たちによって行く手をさえぎられ、記憶喪失を言い渡された。洗濯屋から引き取ってきたばかりの軍服を着て名士さまたちがパレードをする、公に認められたラテンアメリカの歴史とは、言ってみればそんなものにすぎない。わたしは歴史家ではない。だがものを書く人間として、アメリカ全土の、とりわけ、蔑まれた最愛の地ラテンアメリカの、かどわかされた記憶を救い出すために、力を早くしたいと願う。」

 いきなり長く引用してしまったが、本書の前書きにはこうある通り、これは小説ではない。歴史そのものなのだ。十分に詩的ではあるが、余計な描写を省いた簡素な記述が年をたんたんと刻んでゆく。
 タイトルはまた別の意味に連なるようだが、ラテンアメリカ(彼らにとっては単に"America"。)の大地に眠る記憶でもある。
ここではコロンによるエスパニョーラ島の発見から、1700年までの大地の年代記が綴られてゆく。。。まさに余計な心理描写や説明の一切を排除して。。。
 だから正直、これまでラテンアメリカ史を随分学んできたつもりのわたしでもまったく預り知らない歴史上人物が次々に顔を出し、ラテン名を持つメスティソやムラーノなどが出てくると頭がこんがらがりそうになもなる。
 だが、まさに混乱の中で語られるに相応しい混沌たる歴史絵巻がここで連綿と続いてゆく。罪なまでの無知と無垢。。。そこに向けらける人間たちの欲望と渇望。残虐と裏切り、身勝手な正義と他者に寄与する悪。
 上にも書いたように正直、解説や説明的な記述が欲しいと願う部分もあるが、それは著者によって計算されたものなのだ。真実は大地のみが、いや、著者の題字を借りるならば火だけが知っているのだ。そこに歴史的な相対的判断を差し挟み、それを教条主義的に大上段に振りかざす訳にはいかない。ここに差し挟まれるべきは、まさに本書を書き上げた著者の個人的な判断であり、或いは読む者の個人的な判断がそこに差し挟まれるべきなのだろう。
 ガレアーノはこうも語る。
 「客観的な作品を書くつもりはなかった。そのつもりもなかったし、書けもしなかっただろうく ここに語る歴史は、いささかも中立ではない。距離を置くこと能わず、わたしは一方に与する―そう告白はするが、悔いはない。ただし、この果てないモザイクの一片一片は、どれも揺るぎのない文書に裏打ちされている。
 ここに語る限りのことは実際に起きたのだ。わたしはわたしなりに、それを伝えるまでである。」と。

 以前にも書いたが、この全3巻の著作。6年前に第1巻が翻訳出版されたまま頓挫している。。。
 仕方なく、無謀にもスペイン語原典を購入した。。。。
とうてい歯が立つようなものではないけれど。。。

2/26 インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述 -インディアス群書6- ラス・カサス 思想 ★★★

 実はこれまで何度か、本書の抄訳を読む機会が多かった所為で、これまで原典である本書にはきちんと手を出していなかった。
今回は前回『ラス・カサス伝』を読んだのを契機に、改めてきちんと通読することにした。
コロンによる米大陸の発見以降、≪インディアス≫と名付けられた黄金の都=新大陸は征服者コンキスタドールの意のままに蹂躙され、インディオたち先住民は虐待され、虐殺され、或いは奴隷として虫けら以下の扱いのうちに滅びていった。。。インディアスの地はわたしたちに容易に想像されるようなまばらな人口の先住民が住んでいた土地ではなく、極めて人口密度の高い、多くの先住民を養っていたことが近年の研究により証明されたと言う。
ラス・カサスの大虐殺説に対して、抗弁とされてきた「それほどの人口は新大陸には元々いなかった」というのは寧ろ、ラス・カサスの告発を受けて作り上げられた作為の偽証であった可能性が高いという。
ここに「簡略に」記述されるのはおぞましいばかりの虐殺の実態である。彼らはそれを異教徒への福音と、それに従わぬ者どもへの天罰として、自らの黄金や富に対する飽くなき欲望を覆い隠す詭弁とした。
ここにある大虐殺ぶりはまさに16世紀のホロコーストと言えよう。まさにホロコーストがそうであるように、スペイン史からこの虐殺は隠蔽され、否定される危険の中で激論を戦わされてきたという。
ガレアーノの『収奪された大地』の原点でもある本書はすべての≪インディアス≫市民と、すべての≪カソリック教徒≫及それと価値観を共有する現代社会の多くの国民の前に提示されるべきであろう。
 エンツェンスベルガーの解説は1967年、米国のヴェトナム戦争を背景にして、インディアス破壊を推し進めた植民地主義がいまだ何一つ変わらぬまま現代社会に息づいていることを告発したパンフである。  

2/19 ラス・カサス伝 染田秀藤 歴史伝記 ★★

 副題「-新世界征服の審問者-」。1492年コロンが米大陸を発見、翌年の第二次遠征にコロンと共に参加した父を持つラス・カサスは、その一攫千金の夢にほだされ、1502年、自身もエスパニョーラ島へ渡る。だがそこで金鉱漁りや植民遠征を続け、自身も何某かの領地を獲得するに及び、その途上で目撃したインディオ虐殺と奴隷虐待の実態に慄き、改悛の情を示した挙句、修道士となる。そしてインディオの擁護者として1566年に亡くなるまで、内外においてインディオの権利と奴隷解放について尽力し続けた。だが勿論、それは一直線に、或いは一機に転換される性質のものではあり得ない。彼もまた時代性に囚われ、幾度もの変節を繰り返しながらそこへ辿り着く。異教徒への布教、異教の撲滅を掲げた初期には虐殺や虐待が防げるならば、奴隷化は已む無しとする立場であったり、奴隷解放に立ち上がりつつも、改宗と国王・国庫への租税義務を条件としたり、インディオの代わりに黒人奴隷の導入を奨励したり・・・、忙しく新大陸と本国スペイン王室を往復して訴える彼は、結局のところ現地エスパニョーラ島ではその平和的改宗を成し遂げること叶わぬまま、本国に帰還、インディオ擁護のため国王と大司教座への訴えを続けることになる。現実的路線として、或いは彼の時代の避けられぬ時代性として、インディオと同時に国王の利益を擁護しつつ。。。だがやがて晩年に臨み、スペイン国庫の崩壊が差し迫り、国王がエンコミエンダ(大土地所有)制の世襲制を決定するに及んで、彼はいよいよ国王の贖罪をも追及するに至る。改宗を伴わないインディオの財産回復と人権擁護、租税の強制的履行義務の免除、インカ帝国の復権・財産と支配権の返還譲渡、国王の贖罪と遺憾の表明。。。それは同時に実現性を放棄して概念的正当性を追求した思念となるしかなかった。。。
 本書はその過程を現存する資料を拾い上げながら年代記として追ってゆく。伝記だからと言ってしまえば、それまでだか、やや概説に過ぎる。<何故>、<思惑>といったものにまでは迫れていない。したがって読み物としての面白さは浮び上がって来ない。ラス・カサスは十分に魅力的ではないし、彼の苦悩も浮かび上がっては来ない。ラス・カサスの物語は修道士としてのそれではなく、人間ラス・カサスのうちにこそある。いま一歩の視点を欠くのが残念だが、ラス・カサスについての資料としては有用でもあるだろう。

2/8 マラケシュの贋化石(下) スティーブン・J・グールド 自然科学エッセイ

 いったいどうしたことだろう。下巻に入るとその半分くらいは自然科学エッセイではなく、グールドの随筆のようになってくる。それも≪ナチュラル・ヒストリー≫以外の雑誌に寄稿したものが並べられているのだから然も有りなんといったところか。これは違反じゃないのか?(笑)おまけに面白くもなんともないときてるし。。。後半に入ってようやく、本来の調子と相成るが、やはり以前のような新鮮味と攻撃性は感じられない。解説の解説といった感が拭えないのはわたしだけか?科学を社会学に当て嵌めることの誤謬を嘆きつつも、世俗的社会学のそしりを免れないような切り口を散見する羽目になる。ただこのシリーズもあと2作。これまでのような面白さを取り戻すことはもはやないだろうが、それでもグールド氏の功績に敬意を払って、翻訳の機会があればぜひ最期まで付き合いたい。

1/30 マラケシュの贋化石(上) スティーブン・J・グールド 自然科学エッセイ

 グルードの進化論エッセイもこれが9作めとなる。2002年3月、癌のため亡くなったグールドだが、それとは無関係に、かねてからの予定通り、2001年を以って合計11作のエッセイを書き綴り終えて、本シリーズは完結している。
 さて、だがこのシリーズがここ数作、年々と言うべきか、新奇味をなくし、当初のような面白さを欠きつつあるのも万人が認めることだろう。自然科学全般をフィールドとするアシモフ氏と違って、進化生物学1本(ときどき脇道に逸れるが)のグールドにしてみれば語るべきことは語り尽くしてしまった感があるもの事実だったろう。そして自身の闘病生活によるプレッシャー。(グールド自身は癌であることを告知されていたが、手術は成功し、克服したと考えていたようだ。)
 その闘病生活が彼の人生観に微妙な綾を齎したのか、当初は言外にして触れなかった自身のユダヤ性とルーツ、或いはダウン症である我が子のことなど私的なことを折に触れと差し挟むように変化してきた。そして本作ではかつて完膚なきまでに扱き下ろした敵役のビュフォンやライエルといった反ダーウィン派閥を再び俎上に載せるかと思いきや、結局のところ迷走したとは言え、彼らの果たした科学の発展への貢献を評価してみせる。それは"科学は失敗の上に咲く華である"という銘文を刻んだ盾で擁護し、それぞれの功績を称えてさえみせる急展開ぶりだ。すっかり牙をそがれ、毒を吐くのをやめてしまったかのようであり、寂しくもあり、正直読む方はスカッとしないのも事実だろう。やや冗長な仕上がりも気になる。

1/27 フーコーの振り子 アミール・D・アクゼル 科学エッセイ ★★

 一般での著名さではミシェル・フーコーに譲るかも知れないが、こちらは19世紀の実験科学者レオン・フーコーの生涯を描いたドキュメント。ウンベルト・エーコにも同タイトルの小説『フーコーの振り子』があるが、あちらはミステリー・フィクション、こちらは前にも挙げたようにノンフィクションだ。内容的にはスティーブン・J・グールドのエッセイの一章を思わせるくらいでそれほど中身の濃いものではない。だがとにかくレオン・フーコーを始め、アラゴー、ルイ=ナポレオン(ナポレオン3世)といった登場人物たちの魅力的なことといったらこの上ない。紀元前4世紀から古代ギリシアの哲学者の一部は地球の自転を主張し続けた。だが当時からプラトンやアリストテレスによって否定されたその宇宙観は、ローマ時代のプトレマイオスとローマ教会によって保障された地球中心=不動説にとって変わられ、コペルニクスやガリレオを引き合いに出すまでもなく中世を経て19世紀に至るまで、まともな科学者たちは誰ひとり信じようとしなかったにも関わらず、教権によって否認され続けた。それは地球の自転を目に見える形で実証する術がなかったからだった。また数理科学者たちは机上論によってその限界に達してもいた。そこに登場したのが、大学を中退し、博士号を持たなかった技術職人であり、科学的探究者であったフーコーだった。彼の作り上げた振り子は地球の自転を目に見える形で実証し、それは教会の牙城をも突き崩すに至る。共和主義者と名乗りながらも封建的な学位主義者に過ぎないアカデミーのアラゴー、掴み処のない道化者でありながら、科学研究=技術革新に執心しつつ、時代に逆光する帝政を敷くに至るルイ=ナポレオン。振り子に留まらず、ジャイコスコープを始めとする数多くの発明品を生み出した天才フーコーの不運。さほど感銘を受けるほどのものはないが、すこぶる魅力的な人物たちとそれを描き出した著者の筆致によって面白いドキュメントとなっている。

1/23 ホセ・マルティ選集1 <交響する文学> ホセ・マルティ 文芸・思想 ★★★

 ホセ・マルティ。。。このキューバ独立革命に散った思想家は、スペインの圧政を告発し、キューバ独立に賭ける情熱を宣すると同時に、未来を託すべく、我が子のみに留まらず、独立キューバの礎となる子供たちへと自らの想いを謳い、物語った。もし時代が平和であるならば彼は詩人として、劇作家として禄を得ただろう。ここに収められているのは彼の残した詩や劇作、自ら執筆・編集した子供向けの小冊子『黄金時代』シリーズに、文藝時事評論、書簡の一部などだ。中でも特筆すべきは『黄金時代』だろう。ここでマルティは子供たちに自分の知っていることすべてを伝えようと務めている。言葉や表現は易しく、だが現実は現実としてたとえ政治的な動きであろうとも、たとえ残忍性が剥き出しであろうとも、真実を何ひとつ隠さず、子供たちが理解できるように伝えようという試みだ。長くなるがマルティ自身の言葉を引用したい。【自由はすべからく人が立派であるために、あるいはものを考えたり偽善なく話したりするために持っている権利です。アメリカでは人は立派であることも、考えることも、話すこともできませんでした。考えていることを隠し立てしたり、考えていることを勇気を出して口にすることができない人は立派な人ではありません。悪い政府に、その政府が良くなるよう働きかけることをせずに、従っている人は立派な人ではありません。不正な法律に従うことに安んじて、自分を手ひどく扱う連中に自分の生まれた国の土を踏むことを許す人は立派な人ではありません。子供は物心ついたら、見るものすべてについて考えなければいけません。名誉ある人生を送ることができないすべての人びとのために苦しまなければなりませんし、すべての人びとが名誉あるものとなるように努めなければいけません。そして自分もまた名誉ある立派な人とならなければなりません。自分の周囲で起こっていることについて考えない子供や、ただ生きることに満足して、立派に生きているかどうか考えない子供は、悪党の仕事に就いて生きている人のようなものですし、やがて悪党になるでしょう。獣にも劣る人間というのがいるものです。】【子供には本当のことしか言うべきではありませんし、本当に話しているとおりなのか知らないことは、誰にしても子供に言うべきではないのです。子供は本や先生の言うことを信じて生き、それが本当であるという前提のもとに、働いたり考えたりするのですから、もし言われたことが嘘だったなら、彼らの人生そのものが間違ったものになってしまいますし、本当はどうなのかを知ることもなく、もう一度子供に返って初めからすべてを学び直すこともできずに、間違って作られてしまった考え方のままでいたら、ひとは幸せにはなれないでしょうから。】と。
 そして死を覚悟したマルティは子供たちに宛てた最期の書簡で、学ぶこと、そして教えることの大切さと、何を如何にして教えるべきかという問題に心を砕いてみせる。数学であれ、歴史や地理であれ、科学や英語であれ、テキストに偏重してディーテールの暗記や演算の繰り返しに囚われるのではなく、【生き生きとした現実の話をしてやることだ。】と。子供たちに現実を隠すな、というマルティの主張を我々は、ことに日本の教育は(学校教育に限らず、家庭教育においても)自らの命題として掲げるべきだろう。

1/3 ホセ・マルティ選集3 <共生する革命> ホセ・マルティ 思想・歴史 ★★★★

 本書はホセ・マルティの書き残した膨大な文書の中から、第二次キューバ独立革命のスタートに向けて書かれた革命のための宣言に、1895.5.19日、死の直前まで書き綴った野戦日誌を附加したもの。ここでマルティは形ばかりに終わった1862.8.22日のリンカーンの奴隷解放宣言を遥かに凌ぎ、完全なるなる人種間平等の思想をはっきりと表明し、それこそがキューバ独立・革命の本質であり、「北の巨人」アメリカに対して範を垂れることになる世界の模範たる由縁だと高らかに宣言してみせる。(ご承知の通り、米国では1960年代に至るまで人種隔離政策が続けられた。)またマルキシズムによらず、すべての人々の平等と財産の保全を同時に掲げてみせる。民主主義的なシステムの完成形を夢見、革命に命を賭けた彼の願いは、蓋しまさしく彼の懸念通り、「北の巨人」アメリカの介入により、スペインからの独立=アメリカの植民地化という結末を迎えることになる。志し半ばで戦場に倒れた彼はその結末を見ることはなかったが、その後さらに約70年を経て果たされるカストロ=ゲバラによるキューバ革命を待たなければならなかった悲哀を考えるとマルティの無念に胸を打たれずにはいない。
 マルティは言う「行き過ぎた個人主義、富への崇拝、永劫に続く恐るべき勝利への渇望などからして、合衆国が典型的な自由の国に、すなわち、節度のない権力欲に根ざした意見や、善良さや正義とは裏腹の蓄財や出世などとは無縁の国になれるとは素直には信じられない」、「われわれはリンカーンの祖国を愛すると同時に(中略)恐れてもいる。」と。これが1889年にマルティによって発せられた警告であり、現在の世界を象徴する予言ともなっている。マルティは革命家として当然のように理想主義者であった。だが彼は革命家にありがちな楽天家ではなかった。常に人間のエゴや傲慢さに警告を発し、人間の弱さを熟知した上で、民主主義的な独立政府の確立に頭を巡らす。自らの革命党代表という地位についても1年という極めて稀な単位での辞任を表明し、死の予感の中で辞任を発表に向けて準備をする。
 「意見を言わんとする者は学べ。空想や願望ではなく、世界の困難なもの、不明瞭なものをつかもうとする力強く誠実な手で、熟知した現実を、たぎりたつ現実をつかみ、意見を言うのでなければならない。」

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2005年度 読書記録と批評 [読書記録]


読後感想 2005年版 (当時のものをそのまま再録) ※日付は降順




日付 書名 著者 ジャンル お奨め度

12/28 『ドイツの歴史教育』 川喜田敦子 歴史 ★★

 シリーズ・ドイツ現代史Ⅳ。ドイツにおける歴史教育=過去の克服という問題については、嘗て月刊誌『軍縮』に掲載された黒田多美子女史の論考に詳しいが、本書は<歴史教育>の中身に踏み込んだものではなく、<歴史教育の変遷と今日の課題>について書かれたものである。その意味では黒田女史の小論に軍配を挙げざるを得ないが、蓋し、本書も決して無意味な著作ではない。ドイツにおける負の遺産=ナチズムの過去の克服は東西分断によって新生民主主義国家<西ドイツ>の至上命題として架せられてきたという。だがその西ドイツでもホロコーストを歴史教育に取り入れ始めたのは60年代以降、現在にみるような形になったのは80年代半ばだという。だがそれでも尚、ドイツは果敢に自身の過去に対峙し続けてきた。我が国が南京大虐殺を始めとする過去の蛮行をいさぎよく認めようとしないのとは大きく異なる。(日本ではその試みは90年代に始まり、と同時に反動的な動きが強まった。)
 さらにドイツ統一によって今、ドイツの歴史教育は再び大きな岐路に立たされているという。本書の立脚点はそこにある。終戦直後ポーランドからのドイツ系国民の追放・略奪に伴う被害者としての歴史。。。だが巨視的にみて最大の加害者であるドイツが被害者として告発することは意図するしないは別としても<罪の相殺>を周辺諸国に意識させざるを得ず、近年に至るまで語られることのほとんどなかったタブーであった。ドイツは自らの罪を認め、さらに隣国と自国の歴史教科書内容の記述についてコンセンサスを得る長年の努力を通じて、自国の被害者としての立場をついに主張するに至った。また統一後の移民・難民の急増を受けて、ドイツの負の遺産を教育現場で訓戒とする中で、ホロコーストを知らない世代の移民系子弟たちとドイツ人子弟たちとの間に新たなしこりを生じつつある現実。。。
 もっと突っ込んだ<歴史教育の現場>を通じて浮かび上がってくる実態を期待したので、やや物足りなさは残るが、それでも本書の示唆するところは小さくない。本書を叩き台にしてさらに今後の研究が待たれる。前述した黒田女史の小論を読まれたい方は
≪ドイツの教科書と平和教育 -ドイツの教科書にみる「平和」への視点- 黒田 多美子 ドイツ第九・第十学年(15~16才)の教科書≫

12/24 『ドイツを変えた68年運動』 井関正久 歴史

 白水社の<シリーズ・現代ドイツ史>の第Ⅱ巻。61年生まれであるわたしは個人的にずっと68年闘争に憧れを抱き続けてきた。記憶にあるニュース映像の大半は69年~71年当時のものでしかないが、当時はまだ運動は終わっていないと感じる人々が少なからずいた。そして大人になるに連れ、日本に於いては68年世代こその後の日本をダメにした元凶だと考えるようになった。それは68年精神の否定に立つものではない。日本の68年運動は所詮、輸入されたものでしかなかった。本質的な問題意識を欠いていたのだと。。。そして68年世代こそが自らの68年運動を真っ先に否定したことが、その後の日本の教育と政治に何ひとつ活かされることなく、終わってしまった原因であるに違いないと思うからだ。フランスを始め、諸外国では68年以降も脈々と続く学生による抗議運動の系譜が現在も尚続いている。学費の値上げに際し、フランスの高校生たちが数万人規模のデモを組んだのは記憶に新しい。
 では何故、フランス、ドイツ、アメリカで68年運動が勝ち得たものを日本は失ったのか(いや、勝ち取り得なかったのか)。。。どの国でも運動としての68年闘争は政治的に敗北に終わったと言われることが多い。だが、わたしの観る限り、他国では彼らが勝ち取ったものも少なからずあるように思える。そして彼らがそれを学生たちの伝統として寧ろ誇りにし、継続してきた点が日本とは大いに異なるように思える。これまでにもその辺りの答えを求めて『パリ68年5月』なども読んでみたが未だ明確な解答を得るには至っていない。
 さて本書に戻るが、残念ながらその辺りの答えはない。わたしよりまだ8つ年下の69年生まれの著者にその辺りを疑義に持つことが可能なのかどうかは判らないが、68年運動の歴史を足早に追いながら90年代の緑の党に代表される68年運動世代のその後に焦点を当てた書き方と言えよう。<あとがき>にあるようにドイツ留学中に起こった68年運動の30周年ブームの立場から俯瞰したものでしかない。だから、まさに変節漢の集りとも言える現在の緑の党につなげてゆく視点は今一つ納得できない。むしろ60年代学生運動から70年代テロの時代へと流れてゆく中で、分裂し、人心を失い、社会的革命へと迷走した彼らが経済的繁栄と文化的享楽の中で忘れられ、消滅するしかなかった部分をもっと丁寧に追うべきではなかっただろうか。バーダー=マインホフらのRAF活動を今日の視点でテロリストだと断罪するのは容易い。そして彼らを敗北者だと片付けてしまうのも同じく容易いだろう。だがそれでは68年運動を本質的に見誤る怖れすらある。議会制民主主義の中に飛び込んだ68年世代の変節漢どものその後などどうでもいい。それは68年運動の成果でもなんでもない。極右に変節した輩とフィッシャーらは何ひとつ変わらないとさえ言える。第Ⅲ巻『戦後ドイツのユダヤ人』が優れていただけに本書にはがっかりした。

12/23 戦後ドイツのユダヤ人 武井彩佳 歴史 ★★★

 今年の9月に出た新刊。本書は白水社から出ている<シリーズ・ドイツ現代史 >の第Ⅲ巻にあたる。ホロコースト後、アウシュヴィッツから解放されたユダヤ人は何処へ向ったのか。ドイツ国内において隣人に裏切られ、家族を焼却炉へ投げ込まれた人々がその仇敵と一緒に住めるはずはないと思われた。事実、生き残った彼らの多くは帰る国をなくし、イスラエルへ、或いはアメリカへ移住した。だが、それでも厳然としてドイツに留まった人々がいる。彼らは何のため、どうしてドイツというユダヤ人が住めるはずのない国に永住する道を選んだのか。。 
何故彼らは、ドイツから去ることを決めたユダヤ人たちから拒否され、代表権を奪われなければならなかったのか、戦後の補償問題を絡めて、彼らの分裂と東西冷戦による分断。西ドイツにおける戦後の親ユダヤ教育(反・反ユダヤ教育)とその影に隠されてしまった反ユダヤ感情のうねり。。。東欧諸国からの移民の受け入れによるユダヤ・コミュニティの拡大と変容、さらに東西ドイツ統一による統合と補償問題の再燃。。。。続く旧共産圏からのユダヤ経済難民の受け入れとイスラエル問題。さらに<過去の克服>を巡るドイツ人vsユダヤ人の論争における内外ユダヤ人の相違点など、非情に興味深い問題をわかりやすく解説してくれている。 
ここで扱われるのはドイツとイスラエル、アメリカのユダヤ人が中心だが、プリーモ・レーヴィのように生き残った者たちが故国(イタリア)へ帰還を果たしたとき、多くの同様の問題が多かれ少なかれその前に姿を顕したはずだと思われる。プリーモ・レーヴィへの言及などはありませんが、『休戦』(『終戦』ではないタイトルに込められた意味を思う時、いつも重く圧し掛かるものがあるのですが。。。)によって帰国したレーヴィを待っていた当時の状況を把握するひとつの手助けにはなると思われます。イタリアではどうだったのか判りませんが、ユダヤ人としての民族意識を意否応なく植え付けられ、呪縛されてしまった彼らの語られることの少ない歴史の歩み。
ユダヤ人問題だけでなく、例外なく差別の歴史を抱えるすべての国々とそこに住む我々の中に眠る問題を提起していると云えよう。

9/25 ホセ・マルティ選集2 <飛翔する思想> ホセ・マルティ 思想 ★★★★

 16才でスペイン領キューバの政治犯収容所へ投獄され、拷問をうけたホセ・マルティはその生涯をラテンアメリカ(マルティの口からはただ"アメリカ"と呼ばれる)の真正な独立と団結に捧げたが、彼自身はいわゆる反動的活動家としてではなく、もっぱらジャーナリストとして、文人としてその知性を動員し続けた。
ここには追放直後のメッセージから、キューバ独立前夜に至るさまざまな折に書かれたテキストが集められている。彼はそのテキストの中で、憎しみを以ってではなく、憐れみを以って記述する。スペイン本国に対して、南米の新興国家を襲った統領(カウディーリョ)たちの専制政治に対しても、我らが英雄であるべきサン・マルティンやシモン・ボリーバルに対してさえも。
彼は警告する北の巨人、合衆国の企みについて、合衆国を賛美し、そこに全幅の信頼を寄せることを。寧ろ、中南米諸国が団結して北の進出に対抗すべきであるとはっきりと明言してみせる。スペインからの軛を嫌がるあまり北米の経済的従属を受け入れてはならないと。しかしここでもマルティは米国人に対する憎しみを顕わにすることなく、米国社会を支える"自由と権利"を確立した市民社会に対しては賛嘆の念を隠さない。だがそれが帝国国家としての相貌を中南米に対して向けるとき、彼は断固として反米の立場を貫くのだ。
そして征服民の末裔である自らも、インディオや黒人、メスティソたちと一緒になって新生"アメリカ人"となり、力強く"アメリカ文化"を紡ぎだすのだと。スペイン人の侵略と征服、虐殺と圧政によって一度は断ち切られてしまった感のあるラテンアメリカの歴史を今一度手繰り寄せ、先住民の伝統と遺産を踏まえつつ、そこに現として生み出されてきたヨーロッパ人とは異なるアイデンティティを持った新人類ラテンアメリカ人との平等な融合をもって、新たに歴史を繋ぎ合わせ、紡ぎ出してゆこうと語りかける。
あちこちに散見されるマルティの警句は今も尚、世界に同じ影を落とし、重要な意義を占めている。1871年から1891年にかけて書かれたこれらのテキストはそれから100年以上経った今でも十二分に読まれるべき書物としての意味をもっている。

8/25 南米個人旅行マニュアル 地球の歩き方シリーズ 旅行書 評価せず

 世界旅行の定番と言えばダイヤモンド社から出ている≪地球の歩き方≫シリーズ。
 次々と新しいものが出る一方で廃刊になってゆくものもある。(新装改訂版の準備もあるんかな?)まあ、ネット上で訂正を常時Upしたり、利用者からの情報を追加したりと、常に最新の情報を更新しようとするるその姿勢は特異とも言える。
 さて98年5月に発刊された『南米個人旅行マニュアル』は現在すでに絶版。本書もネット古書店で入手したもの。
 まあ、海外旅行の初心者に過ぎないわたしにはいろいろ不安な点が垣間見えるが、まあ、なんとかなるでしょ。なんとかならんでも別にかまへん訳やから。(爆)
しかし、やはり一番の大敵は、スリや強盗。。。
 バックパッカーとしてはわずかとは言え、全財産を持ち歩かざるを得ない訳で、いくらスリを警戒して数ヶ所に分けたとしても、強盗に身ぐるみ剥がれた日にゃ、お手上げでしょ。。。。
何が一番困るってパスポートだろなぁ。。。謄本のコピーなんかも一緒に持ってかれたりした日にゃどうしよもないかな?近頃は古きよき時代と違って、大使館もあまり面倒を見てくれないらしいしね。
 あとバイクでアンデスを越えるのはかなりのツワモノでないとムリらしい。。。てか、高山病の話。。。気候もすさまじいけど、やはりほとんどのヒトが必ずと言っていいほど罹らざるを得ない高山病をどう調整しつつ、宿も乏しい中、寒さと闘いつつアンデスを越えるかだ。。。登山経験者程度の実力がいる模様。。。マジっ!?
 まあ、バイクったって、盗まれりゃ、はい、それまでだし、悪路をいつまでモツかという耐久性の問題もある。。。ある程度の修理も覚えなきゃですな。。。
 ま、そんなこんなで課題山盛り、難題積載ですが、愉しく空想しとります。ふへへ。但し、例の時刻表を見て楽しめるような人間ほど想像力のないわたしには後半の観光案内編は読めませんが。。。(笑

8/15 現代ラテンアメリカ思想の先駆者たち レオポルド・セア編 思想 ★★★

 プラーダ、マルティ、ロドー、バスコンセーロス、カーソ、ウリーニャ、レージェス、エストラーダ、マリアテギ、マジェーアら10人―19世紀末から20世紀初頭にかけてラテンアメリカに生まれた思想家たちの膨大な論文の中から哲学者であるセア自身がセレクトした10編を集めたもの。勿論、前掲の中でわたしが聞き覚えのある名前はほんの数名に限られている。セア自身、長文の序文を寄せているが、その中で彼はラテンアメリカの若者にもっとも影響を与えたものとしてロドーの『アリエル』とバスコンセロースの『地球人』の2編を挙げているが、わたし的にはやはりマルティーやマリアテギに、つけ加えるならばカーソといったところが興味を惹いた。
 ヨーロッパvsアメリカ合衆国の大きな対立軸の中で(ソビエトはほとんど意識されていない)、ヨーロッパの中で凋落著しい旧宗主国スペインの封建制を押し付けられ、自ら征服民の子孫(=混血化していようとも意識的には決して先住民ではない)でありながらも、支配階級でもない敗残者であり、アメリカ大陸人でありながらも北の巨人アメリカ合衆国人からは蔑視される存在でしかない彼らは、また同時に独立後も独裁政権によって自らの国で見えざる者として蹂躙され続けてきた。無論、その中でも比較的恵まれた環境によってこそ彼ら自身は思想家たる位置に拠って立つのではあるが。。。
 合衆国の模倣により、合衆国人と同化しようと試みるも夢果たせず、むしろ合衆国の力の脅威を敏感に感じ取らずにいない彼らは、いずれからも拒否され、―征服民の子孫であり、マヤ・アステカ、インカといった文明の大地の上に立つキリスト者でありながらも、一方で先住民の持つ歴史とオリジナリティのうちにアイデンティティを求めようと足掻くしかない。いずれからも拒否され、自らのうちに分裂を孕んだ彼らは構造的不正に喘ぐラテンアメリカ社会に変革を齎すことで、自分たちの独自の社会を手に入れることで、アメリカ大陸に根を張ろうとさまざまに思索をめぐらせた。
 その彼らの姿は国際社会に翻弄され、自らのうちに分裂を抱え、米国の掲げる民主主義を模範として押しつけられ、変革を求めようとすればするほどアイデンティティを失わざるを得ない、今日のアラブ・イスラーム社会に重ね合わせることが十分に可能だ。
 マルティは自分たちの姿を(その時点で過去のものとして描いているが)、イギリス製の半ズボンをはき、パリ製のチョッキの上に米国製のコートを羽織り、頭にはスペイン製の帽子という出で立ちのおよそ奇態な人間であった。米国やヨーロッパを真似るのではなく、自らのラテンアメリカ人としてのアイデンティティを求めよと語り、マリアテギは、論争する自由主義派も保守主義派も(中央集権派も地方分権派も)、ともに双方がただひとつの(自分たちが属する)社会階級の利害と思惑に左右されているばかりで、先住民問題を(すなわち国民が抱える問題を)博愛あるいは人道上の問題に押し止めようとしてきた、と。また(もはや)我々が生きている現代は経済がすべてを支配し、政治とても経済に呑み込まれている、と若い世代に託して語った。
 それは同時に、クリスチャンでもないのに、十字架のアクセサリーを身に付け、量産される消費型アメリカ文化にどっぷり浸かる一方で、ヴィトンやエルメスといったヨーロッパの伝統文化を買い漁る我々日本人、国民そっちのけで自分たちが所属する社会階級(議員派閥)の利害と思惑に、片や郵政民営化反対、片や解散総選挙という争いに国民に審判を問うとのたまう政府官僚・議員たち、の姿でもある。自衛隊の派兵も政治や憲法上の問題ではなく、人道上の問題に摩り替えられてしまったままだ。世界は何ひとつ進歩などしていない。相変わらず社会は強き者と虐げられし者に区分けされ、後者の権利は前者の思惑(価値判断)に基づく押し着せによってのみ量られるしかない。
 逸脱したが、本書は勿論、彼らの思索のうちのほんの抜粋でしかないが、未だ出口なきラテンアメリカと世界全体の問題を改めて歴史的に俯瞰させてくれる貴重な書物でもある。これら、不名誉にも普遍的であり、恒久的な諸問題は、E・ガレアーノの秀逸なる『収奪された大地-ラテンアメリカ500年-』へと姿を変えて現代へ引き継がれる。
 こういった問題を紐解いてみたい向きには、まずはE・ガレアーノをお薦めしたい。

8/14 現代スペインの歴史 碇 順治 歴史 ★★★

副題「-激動の世紀から飛躍の世紀へ-」彩流社
 ここ暫く、読書から遠ざかっていた。活字中毒のわたしとしては在り得ないことのように思われる向きもあるだろうが、現実には"スペイン語学習書"に専念していただけのことだ。
さて、GWを期に3日間で読破した本書はまさしく現時点におけるスペインの国際的立場や政治的立脚点を明らかにした書物である。そういう意味では歴史的展開についてはおおざっぱな部分もない訳ではないが、昨年3.11のスペイン列車爆破テロ後までに及ぶ現在進行形の書物だ。
その所為か、まるで新聞を読むようにスラスラと完読してしまった。フランコ体制の終焉から齎された民主化過程(トランシション・デ・エスパニョール)における予測不能の面白さを結果から演繹してみせることでわかり易く解説してくれている。だが不断の改革は日本政治とは違って、クーデターがあろうとも、与野党政権が交代しようとも、テロがあろうとも、左右に振れようとも決して後戻りせずに続けられてゆく。国民生活を直撃する経済的困難を耐え忍んで乗り切り、EU加盟を果たしたその政治的決断と断行力の前に驚きを禁じ得ない。無論、その中でゼロからの急激な経済的発展は汚職や疑惑、そして先にも挙げたクーデターやテロを引き起こし、GAL事件[政府内務機関が対テロ組織撲滅を目的に非合法右派過激テロ集団を用いて暗殺を指示]に代表される暗闇を出現させてもきた。だがそれでも尚、結果としてスペイン政府、スペイン国民は変化を求め続けてきた。それは停滞という安定を拒否する姿勢の顕われではないだろうか?
我々日本人は停滞という名の安定を何よりも望んでいるというのに。。。

7/17 スペイン語の贈り物     福嶌教孝 語学エッセイ ★★

 懲りもせず?いや、より多くのスペイン語関係の本を探してみた。他に文法書を2冊同時購入。
さて、内容の方だが、文章は読みやすくタメにもなる優れもののようだが、如何せん対象とする読者がどうも初心者ではない。。。
どうやらすでにある程度スペイン語を習得したヒト向きの書物のようだ。或いは別に同種のテキストがあって、そのアンチョコ本というか、教師用のテキストといった感じでもある。
だから4月にスペイン語を始めたばかりの超初心者であるわたしにはかなりしんどい。。。(逐語訳説明がついてない)
だが決してそれは本書の欠点ではないだろう。かつてスペイン語を学んだ人々、或いはスペイン語圏で生活をしたことのある、また現に交流のある人々にとっては有益なものがあるに違いない。
前述と矛盾するようだが、教科書には載っていない動物やその他の擬音感覚の違いや、ものの譬え(慣用句的用法)を日本語vsスペイン語で対比させたコーナーなどは出色の出来映えではないだろうか?
生きたスペイン語を学ぼうとする者には必携でもあるかも。また来年くらいになったら読んでみようっと。。。

6/27 スペイン語とつきあう本 寿里順平 語学エッセイ

 下の『スペイン語のしくみ』で気をよくして第2弾のつもりで読んでみたが、まったくもって期待ハズレだった。「寿里順平の辛口語学エッセー」という副題をもつ本書は、早稲田教授の著者の公演録の寄せ集め。その内容も新人大学生相手のものや、大学教育による英仏独語学の寡占的状況と第二外国語の粗末な扱い・現況への辛口批判が大半であり、期待したスペイン語学知識については的外れもはなはだしいものだった。。。
 ま、著者が悪い訳ではないのかも知れない。選んだわたしが悪いのだろう。だが、どちらにせよ、大した身のある中身ではない。
 本書を読んで覚悟を決めたのはスペイン語のうざい動詞活用はただひたすら覚えるしかないということと、それを避けては絶対に前へ進めないという2点だ。
という訳で動詞活用表を購入しました。ノイローゼなりそ。。。

6/17 スペイン語のしくみ   岡本信照 語学エッセイ ★★

 本書は白水社からシリーズで出ている各国版「言葉のしくみシリーズ」のひとつ。スペイン語学習者のための読んで学ぶスペイン語文法書となっている。非常にわかりやすくまとめられており、わたしのようにまだ4月から始めたばかりという人間にも、予習・復習の意味で十分な価値を発揮するものだろう。特にネイティブ・スピーカーに学ぶ場合、日本語による補完や整理が不足する場合があるだろう。そんなとき本書は学習者をうまくサポートしてくれるに違いない。
 ネイティブ・スピーカーに学ぶ人が不足しがちな文法規則の概念を判りやすくきちんと整理してくれている。記憶するための語学書ではなく、理解するための語学書となっている。

6/8 海を飛ぶ夢 ラモン・サンペドロ 手記 ★★

 映画化され『海を飛ぶ夢』の基となったラモン・サンペドロ本人の手記。生前(1996)に出版された原題は『地獄からの手紙』。本書はそれに死に際して書いた最後の手紙が追加されて2004年に出版されたものの翻訳。したがって映画の原作でもなければ物語でもない。四肢麻痺の中で安楽死という死ぬ権利を求めて闘う中で著者が感じたことや、手紙への返信、公開書簡、あるいは詩や思索などを書き綴ったものだ。
 実を言うと映画を観る前に読もうかどうかと随分迷っていた。だが本物を先に読んでしまうと映画を愉しむことは不可能だろうと思い、本書を後回しにした。だが結果としてはこの場合は、どちらでもよかったろうと思う。当然のように上記のような内容であるだけに、なにしろ映画とはまた別の次元にあるドキュメントだからだ。そしてもうひとつ。。。映画の方は感動的だったが、寧ろ本書はさほどではない。何故なら当たり前のことしか書かれていないからだ。いや、これは内容が悪いとか、そういう意味ではない。ラモンの闘いとその主張は当然の権利であり、特別なことではないという意味だ。彼を取り囲む社会の方が明らかに欺瞞に満ちており、ラモンはそれを告発し、自らの権利を主張するのだが、対する社会の論理や応対の異常さに比してなんと彼の論理の当たり前であることか!彼は特別な考えを持った人間などでは決してない。特別なシチュエーションに陥った人間ではあるけれども、彼の主張はごく当然の自然なものだ。まさしく狂っているのは社会の方なのだ。勿論、その鋭い諧謔とポエジーに満ちた彼の文章は十分に力あるものだ。(詩作そのものは大したものではないが。笑)だが彼が何ら特別なことを要求している訳ではないというその事実が本書の最大の重みでもあるのだろう。評点は辛くなったが、本書の重みは十分に評価されよう。

5/22 ネルーダ 愛の手紙 パブロ・ネルーダ

 本書はネルーダの初期の作品であり、もっとも人口に膾炙している小詩篇『20の愛の詩と1つの絶望の歌』と、その霊感の基になったとも思われるアルベルティナ・ロサに宛てた約100通の手紙、それにS・F・ララインという評論家の手になる解題からなっている。
 恋愛詩についてわたしが感想を述べることは意味がないだろう。わたしにはそんな資格も、はっきり言ってしまえば何の興味もない。技巧と修辞に凝り過ぎない素直な作品群といっていいだろう。

5/21 ネルーダ詩集(廃刊) パブロ・ネルーダ ★★

 ネルーダ存命中の1971年に翻訳出版された"世界現代詩集 Ⅲ巻"で羽出庭梟の手になる翻訳。ここでもやはり政治的なメッセージが色を濃くするに従って、ネルーダのpoesyは成りを潜めがちな傾向がある。それが振り上げた拳である場合にはそれでもいい。だが冷戦のさなか、革命を信じ続けた彼はソヴェト礼賛を繰り広げもする。勿論、その後フルシチョフのスターリン批判を受けて、彼の幻影も突き崩されるのではあるが、それでも尚、彼は当時の多くの左翼系知識人同様スターリン批判をもってソヴェト革命のうちに正義を見出しさえする。。。
 ソ連へと度々足を運び、その社会に幻を見出だし、理想郷として描き出しつつも、自らはヨーロッパへ亡命するいう彼の選択のうちにある種の欺瞞を見出すことは難しくはない。
 さて、肝心の詩だが、こういったアンソロジーではなく、やはりきちんとした詩集の形で読んでみたいものだ。(日本では『20の愛の詩と1つの絶望の歌』と『最後の詩集』の2冊を除いては実現されていない。)37年の『心の中のスペイン』に至るまでのすべての作品や、50年の『大いなる歌』などがその筆頭候補だろう。スペイン語原典で読むしかないのが非常に残念だ。アンソロジーならもう一冊出ているようなのでそちらも読み比べてみたい。

5/18 ネルーダ回想録 パブロ・ネルーダ 散文 ★★

 本書はチリの詩人パブロ・ネルーダがまさにその死(1973)の直前に上梓した回想録となっている。幼少期の貧しいけれど大地に抱かれた生活を振り返る時、この詩人の筆致は冴え渡り、すべての文章が詩となって溢れ出る。。。溢れ返る物質主義的文化に囲まれてしか育たなかったわたしなんぞには、その力強さと苔生す匂いは眩いばかりの光と背景のうちにある。ただ次第に成長するに従って、このドン・ファンの血を引く詩人の回想録はフェミニストには受け入れ難いものとなってゆくだろう。身勝手で情熱的なドン・ファンが如何に修辞豊かにその心の痛みを吐露しようとも。
 彼は早くから政治的活動に身を投じる。共産党入党以降、彼の言動は時代とともに大きく揺さぶられる。それもまた詩人特有の思い入れが彼の政治参加を下支えしているからに他ならない。その辺りからこの回想録はその魅力をどんどんと失ってゆく。詩は姿を消し、彼の弁明と感覚的主張が主体となってゆく。想い出もそれらを紡ぐための素材でしかない。
 詩人としての彼の能力そのものは否定しようもないけれど、人間としての彼はごく普通の市井の人でしかない。無論、それが悪い訳ではない。作品は作品。詩は詩人の人生と切り離されて厳然とそこに存在する。そしてまたこの回想録は、寧ろ、彼が意識しなかった部分にまで生身の彼自身を垣間見せてくれる。ただ前半の素晴らしさが後半次第に薄れてゆくのが残念ではある。

5/8 ネルーダ最後の詩集-チリ革命への賛歌- パブロ・ネルーダ ★★★

 本書はチリ軍事クーデターのさなか(1973.9)、自宅監禁状態の中で逝った詩人ネルーダが、死の直前、同年1月に上梓したまさに「最後の詩集」となったもの。
 邦題には副題「チリ革命への賛歌」とあるが、そもそもの原題は「ニクソンサイド(ニクソンによる虐殺)の勧めとチリ革命への賛歌」であり、革命前後から書き留められた詩篇の中には、賛歌もあるが、むしろ大半は勝利直後から予想された困難やニクソン政権による謀略とテロを前に、人民に団結とあくなき闘いを推し進めるための呼びかけとなっている。まえがきでネルーダ自身が語っているように、ここには難解な比喩も、技巧凝らされた修辞も見当たらない。ここにあるのはスローガンとして人民の口々に謳われることを目的とした≪歌とパンフレット≫のためのペンによる武装闘争そのものである。
 拳を振り上げたそれぞれの詩句は力強く直接的だが、と同時にその後を予感させる不安や流される血の予感に満ち満ちてもいる。
 ↓でも述べたが、日本社会は叙情や情景を謳った詩には心寄せるものの、こういったメッセージ色の濃い詩を拒み、寄せつけようとはしない土壌がある。現在ではもはや詩と言えば愛を歌った≪歌詞≫のことをしか意味しない程に。人を甘やかすしかしない詞に溺れ、灰色の共感主義と寛容主義の柔らかなソファ・クッションの上にしか座り場所を見つけられず、不平をこぼし、他者に耳を傾けない漫画世代にはネルーダのみならず、ロルカも、ネルヴァルも、マラルメも理解し得ないだろう。 

5/7 マチュ・ピチュの高み パブロ・ネルーダ ★★★★

 アンデスの山奥に聳えるインカの遺跡に材をとったネルーダの傑作として名高い「マチュ・ピチュの高み」は1950年に初めて発表されたもので、これまでにも幾つかの翻訳の試みがなされている。今回、入手したのは1987年限定980部のうち374番の初版本(スペイン語原典とカセット2本付)。本版の特色はなんといっても翻訳をジャコメッティとの稀有なドキュマンで知られる哲学者、矢内原伊作が翻訳を試みているということ。勿論、矢内原はスペイン語の専門家ではない。本書のあとがきに詳しいが、本企画は挿画を寄せている画家竹久野生の個人的依頼と、努力によって初めて完成されたもの。また限定BOX本に限り、ネルーダ自身による本作の西語朗読、矢内原による本作の日本語朗読の2種のカセットが同梱されている。
 さて、ネルーダの詩もまた難解であることに相違はない。20世紀初頭以降の詩人たちの作品の多くは、先達たる耽美派マラルメにも似て或る種の難解さを身に纏っている。彼らにとってはシュルリアリスムの刻印だ。しかも語のsyllableやimageの刺激的な絡みを受容することを目的とした純粋な(または単純な)シュルレアリスムと異なり、彼らの作品の根底に横たわる確たる思想信条の論理が、シュルリアリスム的な語の煌めきの下に、読むものの理解と受容を求めている。ネルーダに限って言えば政治詩はいかにもストレイトに謳うことを目的としているが、本作では持てるその才能の限りを込めて、その技巧と思考の具現化に成功している。ネルーダは決してそのマチュ・ピチュの異形を誇る景観を謳ったりはしない。彼が謳い上げるのはそこで酷使され、貧困と軛のうちにマチュ・ピチュの建設と引き換えに死んでいった奴隷たちの声だ。言うまでもなく、その声は貧困と搾取に喘ぐ南米の底辺に巣食う人々の声なき声と重ねあわされている。
 晩年を政治活動と政治詩に捧げたネルーダはノーベル賞を含むその業績にも関わらず、日本ではほぼ圧殺されてしまっている。それは左翼思想をプロパガンダだとしてレッテルを貼り付け、共産主義を悪、反共主義・資本主義を善として刷り込んできた日本の戦後社会のもつ歪みでしかない。

5/5 カストロ       レイセスター・コルトマン 歴史伝記 ★★★

 これまで≪フィデル・カストロ≫について真摯な態度で書かれた著作はなかったと言っていい。彼について書かれたものの大半は、彼を独裁者、残虐な民主主義を踏み躙る悪の総裁として取り上げた無責任なジャーナリストの書くスキャンダル本だけだった。本書は元キューバ駐在英大使だったコルトマンによって2002年、上梓されたもので、よくバランスの採れた本格的な≪カストロ伝≫となっている。些か残念なことに彼は歴史家ではなく、本書も前述したようにタイトルに相応しく、≪キューバ近代史≫ではなく、≪カストロ伝≫となっている。本書を手掛かりに内外からの様々な検証が加えられ、キューバ近代史がより完成度の高いものとしてその姿を顕すことを期待したい。(残念なことにコルトマン自身は本書を書き上げてまもなく世を去った。)
 コルトマンはカストロを神話化もしないし、彼の過ちを見過ごしもしない。だが同時に彼は、米国政府の矛盾に満ちたキューバ敵対視政策について一貫して批判する立場に身を置いている。カストロ自身の言葉にもあるように、「いったい、どうして、キューバが合州国にとっての脅威となることができるのか?われわれには核兵器もなければ、戦略兵器もない。この考えは馬鹿げている。何千という核兵器で歯まで武装した強大な隣国があるために不安に駆られているのは、キューバ人の方だ。」という叫び自体は真摯で誠実なものだ。カストロを親ソへと、共産主義へと追いやったのは米政権だし、中南米・アフリカという第三世界の独裁政権転覆のための革命運動以外、彼の防衛的立場は明らかでキューバが他国へ侵略的戦争を仕掛けたという事実はどこにもない。そしてカストロが打倒しようとした独裁者たちは今や歴史的事実として弾劾されており、それを反共主義から支援した米国政策の過ちは米国自らが認めるところとなっている。にも拘わらず・・・、にも拘わらずだ、キューバという小国はいまだ米国の敵対政策により困窮し疲弊させられ続けている。米国を恐れる世界中の国々はキューバの窮状に同情しつつも、米国の制裁強迫の前に二の足を踏むしかない。
 確かにカストロも幾つかの、いや、幾つもの過ちを犯した。反米=親ソへと追いやられ、ソ連の空約束と口先だけの干渉にも振り回された。だが彼を固執させたのが米国の執拗な敵対政策であることだけは間違いない。
 だが一方で、≪革命≫が前進し続けなければならない、停滞してはならない、人民と共にあらねばならない。。。とするならば、前掲のような事情があったとは言え、確かにカストロは一時期頑迷にも、足を止め、変化を拒んだ責任がある。それはチェを失ったこと、チェに変わり彼と対峙できるような人材を育て得なかった、或いは受け入れなかった点に求められるだろう。独裁者という批難がここで再び持ち上がるのか。だがいったい本書を通じてキューバに襲い掛かる様々な困難の連続に彼以外の誰が拮抗し得ただろうか?彼なかりせば、キューバの独立を守り、資本主義の侵食から国民を守ることは不可能事でしかなかっただろう。キューバを反民主主義だと批難する米国の対外政策に民主主義などどこにもない。彼らの二重基準(ダブルスタンダード)は内政と外政で使い分けられ、対外政策には決して民主主義の擁護者などではなく、ただ≪資本主義の擁護者≫、≪国益の庇護者≫でしかない。カストロの直接民主主義と間接投票は確かにポピュリズム以外の何モノでもないだろう。だが、ポピュリズムは貪欲な私利私欲を持ち、不正義を顧みない支配者によれば最悪であろうとも、正義と公正を掲げる者の手によるならば、消費税の1%で支持政党を変えるような日和見で、利己的な愚衆による民主選挙ほどにも迷走せずに済む可能性を秘めていると言っていい。今やカストロは前進しようと、変化の道を探ろうとしている。だがまたしても米国の敵対政策が彼に変化することすら許そうとはしないのだということが本書から知れる。その彼に≪悪の枢軸国≫だとか≪狂気の独裁者≫というレッテルを貼って片付けようとする米国政府のヒステリックな対応こそが真に非難されるべきである。今やカストロはフロリダ州のキューバ亡命人社会の選挙票田獲得のためだけの天秤とされているに過ぎない。フロリダなくして大統領の座は掴めないほどに。
 カストロは歴史にその名を残すだろう。だが、チェとは異なり神話とはなり得ない。カストロとチェ。ふたりが一時期にせよ、寄り添ったのは奇跡としか言いようがない。もしチェがキューバに留まればふたりの個性はぶつかるしかなかったろう。その時果たしてカストロはチェを受け入れただろうか。。。チェはきっとそれを察していたに違いない。ふたりの傑出した人物はこの世でごく短期間寄り添い、力を合わせて歴史を切り拓いた。本書ではチェについての記述は簡略なものでしかないが、本書によって初めて、記録文書と悪意に満ちた告発以外の生身のカストロという人物の一端に触れることが出来たように思える。冒頭にも述べたように本書を礎として今後の研究が待たれる。

4/29 詩画集 声よ、消された声よ、チリに ネルーダ/ミストラル/富山妙子 詩画集

 本書はパブロ・ネルーダとガブリエラ・ミストラルという2人のノーベル文学賞受賞詩人たちの3編の作品に、富山妙子という画家がリトグラフをつけた16ページほどの小冊子で、自費出版物なのだろうか?ネットの古書検索で手に入れたが、本書のメインはどうやら富山のリトグラフにあるようだ。ルドンとマックス・エルンストの影響を色濃く受けたと思われる富山の作品にふたりの詩篇がそえられた形だ。
 だがそれはまだしも、とにかくも翻訳(木島 始)が酷い。素人のような逐語訳で文字通り序列を守って翻訳しているからだろう、矢内原などの翻訳と比べると如何にも稚拙である。これではチリのクーデターに対する想いを託したという富山のリトグラフも浮ばれぬ。
 ネルーダ、ミストラルの詩、また富山のリトグラフ、企画そのものを由としたところで本書を評価することは難しい。。。

4/22 ドーキンスvsグールド -適応へのサバイバル- キム・ステルレルニー 自然科学 評論 ★★

 2004年10月にこんな本が出ていたなんて知らなかった。現代進化論の立役者であり最高の論客でもあるリチャード・ドーキンスとスティーブン・J・グールドがそれぞれの構築した進化論を巡って激しく対立していることは知っていた。だがわたしはグールドのほとんどの作品を読んだにも関わらず、ドーキンスのものはただの一冊も読んだことがない。ひとつにはグールドが繰り広げていたドーキンス批判に十分な理由を見出したからでもあるが、それだけならばきっと1冊や2冊はドーキンスに手を伸ばしていたはずだ。だがもうひとつの理由が『利己的な遺伝子』『悪魔に仕える牧師』などというドーキンスの著作タイトルにある。いや、グールドの著作タイトルも『パンダの親指』だとか『がんばれカミナリ竜』だとか、とてもいい大人が電車の中で広げられるようなタイトルではない。(笑)だが、グールドのタイトルがあくまでも自然科学エッセイの王道であるのに対して、ドーキンスのそれは人為的な似非科学的な匂いすら感じさせたからだ。それは似非自然科学の王道(悪書)ライアル・ワトソンのタイトルにも似通っている。
 まあ、そんな先入観は別にして、それでも本書のタイトルは触手を誘うに不足はなかった。著者自らどちらかと言えばドーキンス派だというのだから寧ろ願ったり叶ったりだ。勿論、一方的な見解ではなく両者の論点を組み合わせたものには違いないが。。。まあ、正直そんな著者の折衷拝借論にはもともと興味もない。ふたりの主役の主張をややドーキンス派という第三者が比較してくれるだけで十分だ。(これが逆にグールド派の著者なら読む必要はなかったろう。)
 だが結論から言えば物足りない。ひとつには文庫版で167頁という薄さにもあるが、大きくはふたりの対立点がいまひとつ絡み合わないからだ。著者はドーキンスとグールドの意見は大半が一致しているのに、これだけ激しく両陣営が対立するのは奇妙だと言うが、実はふたりの見解は根本がまったくすれ違っているのだから両立もしないが比較のしようがない。
 ドーキンスは進化を齎す≪淘汰≫そのものを認めながらも、進化は遺伝子レベルの累積的な蓄積による漸進的変化(徐々に)だと主張し、おまけにわたしにはどうしても理解できないが、自らの生物学的進化論を人類文化の社会生態学にも応用して分析、混同してゆく。
 一方のグールドは進化を齎す≪変化≫はランダムなものでしかなく、しかもその≪変化≫は遺伝子によって子孫へ伝えられるにせよ、寧ろ蓄積よりは平均化されてしまうとさえ主張し、種の分岐をもたらすあらゆる進化は≪偶然の淘汰≫によってこそ培われ、それは断続的に稀有な状況下にあって起きたのであって、決して漸進的なものではないと主張する。
 このふたつは、ドーキンスが進化の推進力を生命そのものに内在する能力とみなし(現在進行形)、未来をも予測させんばかりに推し進める(そこで≪淘汰≫を持ち込み予測の可能性をかろうじて否定しているが)のに対して、グールドは生命の歴史を俯瞰して、そこに起きたと思われる≪偶然による淘汰≫を推進力としてあくまでも結果論としての進化論を組み立ててゆく。(過去形に立脚)
 ≪蓄積≫による能動的進化論を組み立てようとするドーキンスと、≪偶然≫による受動的進化論を導いたグールドでは細部の合致点など相同(別々に進化したものがたまたま似ていること。サメ≠イルカ、コウモリ≠鳥)でしかない。本質が一緒なのに細部で対立していると見るのはまったく間違っている。
 また両者は共に当然のように無神論者であることを告白しているが、著者は最終章でドーキンスは無神論者だとしながらも、グールドは半無神論者だと主張する。≪意志≫の介在や≪方向性≫を匂わせるドーキンスを科学的無神論とし、グールドの≪偶然≫の方にむしろ≪神≫をみようとするのだ。グールドは同じく徹底した無神論者であったフロイトと同じようにユダヤ人でもある。だがまさにフロイトと同じように民族としてのユダヤ文化を受容する。だがそれを以ってグールドを否定しようとする著者に反ユダヤ主義の影をみるのは行き過ぎだろうか?ドーキンスは確かに科学万能主義的思考のようだが、それは心理学や大脳生理学における局所論や、科学物質による薬物療法にも似ている。イレギュラーを事実として見つめるグールドやフロイトに対して、ドーキンスや著者は法則性にこだわり、それを見出そうとする。法則性を見出そうとする立場は時にそれを創り出そうとする危険をも孕んでいる。
グールドは進化論を通じて常に人類の思い上がりを正そうとしてきた。グールドがドーキンスと訣別する一点はドーキンスのそれがそこへと通じる道程にあるという懸念ではなかろうか。。。
 本書の評点は辛くなるが、グールドとドーキンスの両方、またはどちらかを読んだことのある方はぜひにも読まれるべきかも知れない。(その上で興味が湧けばもう一方を読むきっかけになるだろう。残念ながらわたしはドーキンスに触手をそそられなかったが、いずれ手にしようとは思う。。。)ただドーキンスもグールドも読んだことのない人が、本書だけを読んでふたりの主張をわかった気になるのだけはやめるべきだ。

4/9 ロルカ像の探求 ガルシア・ロルカ / 小海 永二 詩・散文 ★★★★

 著者名は小海永二となっているが、ロルカが書き残し、近年になって発見された拾遺文を取りまとめたものにロルカ研究の第一人者であり、翻訳家である小海氏が解題となる小文を寄せたものとなっている。本書に収められているのはロルカのもっとも初期の散文とされ、感動的なまでの自叙伝≪幼年時代≫の他、グラナダについて、カンテ・ホンドについて、美術や映画について語った公演録。そして白眉となるのがロルカがフランコ軍によって捕らえられ殺される寸前まで持ち歩いていたとされる11編からなる詩集≪暗い恋のソネット集≫だ。ここでは≪イグナシオ・サンチェス・メヒーアスの哀悼歌≫に勝るとも劣らない情念に駆られたロルカの力強い叫びが聴かれる。
 あとがきでも、ロルカのホモ説が取り沙汰されているが、そんなことはどうだっていいし、ロルカはどう考えたって精神的に傾いただけで肉体的なホモセクシャルに走ったとは思えない。しかもその根拠は若き日の失恋(女性)と以降のロルカに女性遍歴が見られないこと、そして最後の詩集に収められた恋の相手の人称が男性人称だという点でしかない。決してロルカを神話にしたいとは思わないが、逆にスキャンダラスなネタを逆手に詩人の真実に迫ったと声高に呼ばわるのも如何なものか。ロルカの憤怒の叫びが聞こえてくるようだ。事実がどうあれ、詩はあくまでもひとつひとつが作品なのだ。必要以上にプライベートが取り沙汰されるべきではない。

3/30 組曲集 ガルシア・ロルカ ★★★

 先週からスペイン語を習い始めた。
とは言え、モチロン本書は翻訳書だ。同時にロルカのスペイン語原書も購入したのでそちらもぼちぼち頑張りたい。(笑)
 さてロルカの比較的初期の拾遺詩集となる本書はすでに廃刊久しい青土社版『ロルカ全詩集(全2巻)』にも収録されていなかったもの。ロルカ生前には発表されず、原稿も雲散したかと思われていたものだが1983年になってようやく陽の目を見たもの。
 ひとつのテーマを巡る変奏曲のようにいくつかの小品が群れをなしている。シュルレアリスムの影響濃いものもあるが、ロルカのそれは映像的な次元での有機的繋がりのうちにあるとも言えるだろう。これらの作品もすべていずれスペイン語原典で再挑戦したい。

3/25 資本論(下)-マルクス・コレクションⅤ- カール・マルクス 思想 ★★★★

 忙しさにかまけて随分と手間取ってしまったが、ようやく『資本論』を読み終えた。読み始める前の『資本論』についての認知は「資本主義社会の発展は階級対立の激化を招かざるを得ず、搾取される労働者の叛乱を招くことで社会主義体制へと向うのが必定である。」という程度のものだった。だから当然のようにそういう内容が書かれてあるのを前提に読み進めた。
 だがついに最後まで社会主義についての考察はない。。。『資本論』はその名の通り、資本主義に至るまでの経済原論として、価値、交換価値、価値形態~貨幣、余剰労働価値~蓄積、資本~工業化、株式化~帝国主義的市場論に至るまでの論理とその過程を、経済史と労働者虐待・搾取の実態を軸にしながら展望したものであり、最終章では貪欲な資本主義(資本制生産と呼称されている)の凱歌と植民化される世界と労働者の敗北の現状を示唆して終わっていると言ってもいいほどだ。ここからマルクスはエンゲルスと共に、労働者階級に立ち上がることを求め(マルクス的にはそれは自然な流れとして発生すべき動きだった)、『共産党宣言』へと至る道程をさらに進めてゆくことになる。
 ヒューマニストとしてのマルクスの資本主義と政府に対する怒りが、彼に『資本論』を書かせたのは間違いない。この後の『共産党宣言』等を読まずに早計は出来ないが、上巻の批評にも書いたように読まれることなく、分析され、後の展開によって脚色され、読まれもせずに偏見に満ちた批難を浴び、誤解され続けている書物だろう。勿論、批難こそしなかったとは言え、この歳になるまで読まずにきたわたしも何ら変わるところはなく同列だ。
 バカげたソ連型社会主義実験の崩壊によって決して葬られることなく、偉大な社会思想家としてマルクスは今後も、いや、ソビエトの消失によってこそ却って、これまでにもいや増して、その業績を評価され、その業績を後継がれるべき存在であり続けるだろう。

2/18 資本論(上)-マルクス・コレクションⅣ- カール・マルクス 思想 ★★★★

 ようやくにしてマルクスの資本論を読む。本書は2005年1月に待望の新訳でもって出版された新刊マルクス・コレクションだ。これまでのマルクス翻訳は戦前・戦後のものばかりで教条主義的な部分を色濃く持つ可能性があったが、本書は最新の翻訳成果になるものであり、そういう意味でも待ち望まれた出版でもあった。冷戦崩壊後、社会主義論を葬ったとばかりの右翼人もいるが、資本主義と民主主義の相克に目を塞ぎ、自身が資本主義に押し潰される運命であることにも気づかずに、ソ連型社会主義実験の失敗を以って資本主義の勝利とする図式を我が意を得たりとばかりに声高に歓喜する痴愚の輩は置いといて(笑)、今まさに、これまで社会主義の対抗要件として寧ろ真に議論されることなく正当化され続けてきた資本主義のあり方が問われ、民主主義との共存の可能性が問われる中、遅まきに過ぎたとは言え、『資本論』を手に取った。
 だがおいそれとは進まない。いや、殊更難解である訳ではない。だが、商品とその価値・形態から貨幣に至る一つひとつを解体し、当たり前とも言える概念の再定義を進めてゆくため、ともかくもまどろっこしいというのが正直なところだ。だが、だからと言って流し読みしてしまうと後の論を追うのに誤謬の混じる可能性もあり、特に第一篇と第二編辺りは慎重に読み進める必要がある。丁寧に読めば決して難解ではないし、おもしろくない訳でもない。ただ大半の人はこの辺で挫けてしまうのかも知れないとは思う。
 商品それ自体の価値を使用価値からだけ求めたり、需要と供給の関係からだけ求めようとしていた当時の経済学に対して、商品価値という概念に人間労働の集約・表出という価値概念を持ち込み、交換価値をそれ自体価値と価値形態に分け、交換が可能であることの等質性を分離してみせる。やがて剰余価値生産へと論を進めてゆく中に、後の論点が垣間見えてくる。
 第三篇になると、それまでの論調とは一変して、19世紀の労働環境と争議を告発し、政府と結託した資本家による過酷な搾取の歴史を語り始める。その生命をも顧みない凄まじさは、まさに白人奴隷制と言うべきものであり、十歳未満の子供たちにも修学を許さない所か、食事や休憩も満足に与えず日に悪辣な環境の中で15時間労働を強いると言った今日の観点からは考えられないような資本家の行動とそれらを平気で擁護する政府と法の対応が綴られている。マルクスは前半で積み上げた再定義を駆使して、それらを経済論としてまとめ上げてゆくが、まさに人道主義者としてのマルクスのここに表出した怒りが『資本論』を、そして社会主義論を導いたのだということが顕現する。
 まだ『資本論』としての前半を読み終えたばかりなので結論めいたことは避けたいが、マルクスとフロイトほど読まれもせずに批難にさらされているものは他に見当たらないのではないだろうかという思いが込み上げてくる。

1/30 歴史の影 -恥辱と贖罪の場所で- アーナ・パリス 歴史 ★★★

 ただひとつの点を除いて、素晴らしい本だと言っていい。だがその一点は同時に致命的ですらあるのだが。。。(その点は最後に述べる。)
 本書はカナダ生まれのユダヤ人である女性ジャーナリストが、歴史=【過去】の克服、負の遺産との対峙について、それぞれの場所を旅してインタビューを行った記録である。これまでにも常々、ジャーナリストの書いたものに対して批判的なスタンスを表明し、出来るだけその手のモノを読まないように心掛けているわたしだが、本書を読むことにしたのにはそれなりの理由がある。本書の第3章では日本の過去が取り上げられている。外国人から見た日本の戦後記憶処理について。即ち、天皇の戦争責任と南京大虐殺、そして原爆の記憶。日本の戦後処理について、日本人と日本社会に向けて書かれたものなら他にもあるかも知れない。だが本書は日本人の読者を殊更想定して書かれた著作ではなく、ドイツやフランス、アメリカや南アフリカ、ユーゴスラヴィア・・・と並列した歴史認識問題としての視点で描かれている。その視点がジャーナリスティックなものに留まらず、本書に十分な読み応えを与えているのは、表面的な【現在】とそこに介在する問題を取り上げるのではなく、過去の深部へと下っているからだ。そういう意味では歴史書と言ってもいいだろう。
 戦後教育の中で自国の歴史と向き合い、自戒を込めてきたドイツにおける【過去】を巡る世代間の断罪と贖罪の意識。。。そこに見え隠れしながら立ち現れる集団の罪。。。
 対ナチス協力姿勢をとった占領下のヴィシー政権の記憶をレジスタンス神話に摩り替え、自国史から抹消してしまうことで、ユダヤ人被害者たちを【フランスの戦時犠牲者】に数え上げてきたフランスでは、その歴史暗部との対面はようやく90年代から始まったばかりだ。
 A級戦犯を一般戦没者と並べて奉じ、90年代になるまで南京大虐殺を隠蔽し続け、ただひたすら原爆の被害者として自国の罪を忘却の淵に沈めてきた日本では、ようやく過去への取り組みが始まったと思いきや、それに逆行する形で、時の為政者が靖国参拝を行い、教科書問題を主軸に事実の隠蔽から否定へと走り出す始末だ。
 奴隷解放から140年、黒人解放運動から40年を経て尚、解消の糸口を見出せない米国の黒人問題。持てる者と持たざる者のハンデキャップレースを、持てる者に有利な条件そのままにスタートした【平等】な社会は、その歪みを解消するどころか、教育格差や経済格差へと溝を広げてゆくばかりだ。一見均等化されたかに見える【機会】は、家庭環境、社会環境という個人ではどうにもならない壁に阻まれて手の届かないところに置かれる。せっかく開かれた教育も、環境が整わないばかりに劣悪なものとなり、片や白人は公立学校を捨てて、高額な費用を負担してでも私学へとその教育の場を再び分離させてゆく。奴隷根性は見えざる軛となって人々を支配し、諦めと忍従を蔓延させてゆく。
 南アフリカにおけるアパルトヘイトからの脱却はその和解を巡って、【真実と和解委員会】が組織運営される中で手探りで始められたが、その行く末は50年後、100年後にしか答えを見いだせない問題となるだろう。【告白と赦し】という不処罰の過程がうまくゆくかどうかという問題に加え、社会全体の荒廃を招いてしまった=社会の構成員の大半が暴力に手を染めてきた事の重大性は取り返しのつかない影を、再スタートの上に落としている。
 ホロコーストを扱うドイツ、米国、イスラエルの展示方法は、その意図と解決の方向を含めて様々な問題を複雑に孕み、問題そのものを表現している。ホロコーストの展示に救いはあるべきなのか、ホロコーストの出口はイスラエルに見出されるのか。自国を戦争被害者としてホロコーストの記憶を埋没させてしまうフランスやポーランドのあり方。記憶喪失という立場から、今度は歴史否認を貫く姿勢へと転化した日本。。。
 そして学ばれざる教訓として復活したジェノサイド。。。旧ユーゴスラヴィアとルワンダ。。。そしてハーグの国際戦犯法廷が抱え続ける課題。。。国際刑事裁判所の設立を拒否した大国アメリカの振りかざすエゴに満ちた正義。。。チリやアルゼンチンといった南米各国の過去の克服。。。
 歴史は克服され得るのか、赦しは何かを齎すのか、和解は正義に優先するのか、集団の責任はあくまでも不問のままなのか、歴史は新しい世代に何をどの程度まで担わせるべきなのか。。。
 本書で取り上げられた問題は未解決に終わるしかない。だがだからと言って忘却の淵に沈めてしまうのではなく、だからこそ剥き出しにされ、未解決の問題として提起され続けなければならない。それは上で述べた事柄が何のことだか判らない、知らないという世代を創り出さない為に、だ。
 
 ≪追記≫ だが、本書は著しい欠陥を秘めてもいる。カナダ系ユダヤ人である著者は、ホロコーストがイスラエルへと向ったことに、ホロコーストの犠牲者たちがパレスチナ人と迫害し、その占拠を正当化していることに触れようとはしない。ホロコーストの被害者とその結果としての国であるイスラエルの歴史認識と過去の克服を問いかけようとはしない。そこには問題など存在しないという立場が透けて見える。本書の主題を扱うに、最大の課題はそこにこそあるはずなのに。。。許されざる欺瞞でもある。

1/17 マラルメ詩集 -フランス詩人選-(廃刊) ステファヌ・マラルメ ★★

 本書における翻訳の是非はともかく、実に大胆な試みであるのは誰にも否定できないだろう。難解で知られるマラルメの詩は下でも述べたように様々な解釈が寄せられ、論議を呼び続けてきた。当然のように、そこに分かち難く結びついている翻訳作業を通して、マラルメほど様々な人々によって異なる翻訳を施されて来た詩人も稀有だろう。本書での試みはその中でも群を抜いて大胆な試みと言える。これはもはや翻訳ではなく、翻案、または脚色と呼ぶにも相応しい部分を兼ね備えている。あとがきで訳者が、『翻訳するとは不可避的に意味をとることである。だが、この意味本位の翻訳の結果、意味の母胎である原詩のリズム、その息遣い、その余白(休止)の生命が訳文からは失われる。(中略)どうせ翻訳とは意味によって原詩の構造を破壊することだとすれば、いっそ暴力を徹底的に加えて、意味の移し替えをよりマクロな、文節ないし詩編のレヴェルに定め、逐語レヴェルでの意味の詮索が日本語としての訳文全体の息に合わぬ場合には、それを一旦無視してかかること。(後略)』と語っている通り、ここでの翻訳は再解釈され、日本語によって再構築されたものとなっている。だがにも関わらず、ここでの詩は見事なまでに平易で且つ流麗なものとなっているのも事実だ。その平易さ故、本書に収められた詩句はマラルメらしくはない。マラルメの詩とは到底思えない。だが、それを別にすれば訳者の試みは十分に成功したと言えるのではないだろうか。評価は限りなく難しい。だが、余人を寄せつけぬほどに、峻厳と聳え立つマラルメの牙城を、これまでとは全く異なるスポットを当てることで、万人に開いて見せたのは事実だろうし、そこでマラルメの新しい魅力をまたひとつ発見できたことは嬉しい。
 但し、本書を読んでマラルメの詩がこういうものだと推計されるのは困る。ひとつの解釈であり、あくまでも逸脱した表現方法の試みであるのもまた事実なのだから。

1/15 マラルメ詩集 -全訳と解説-(廃刊) ステファヌ・マラルメ/加藤美雄訳 ★★★

 昭和37年に初版発行されたマラルメの詩と解説本。(入手したのは昭和42年の再版)全訳となっているが、『骨子一擲』、『イジチュールまたはエルベノンの狂気』といくつかの詩は収められていない。(散文集『ディヴァガシオン』は勿論、除外して。)本来、本書の著者にはマラルメの名が冠されるべきだろう。或いは加藤美雄による解説が加わるとすれば編著は同人の名前となるべきだろう。だがややこしいことに本書はマラルメ研究家であるマダム・ヌーレ、シャルル・モロン、テオドール・ド・ヴィゼヴァ、アルベール・チボーデなどの評論を抜粋しながらマラルメの難解な詩を加藤が解説してゆくスタイルとなっていて、底本となったのはプレイヤード版マラルメ詩集だが、参考書として挙げられている書物からの引用が大部を占めていると考えられるという代物。
 それはともかく、こういったマラルメの翻訳詩集が出版されていたとはまったく知らなかった。偶然にもネットで発見し、詳細も不確かなままに購入したが、惜しむらくはとうに廃刊となってしまっている事実だ。これまでマラルメの翻訳物は可能な限り入手してきたが、筑摩書房のマラルメ全集が未だ完結を見ていない状況では、こういった書物は貴重であり、有用でもある。
 マラルメの詩はとにかく難解で知られる。それはマラルメ自身の意図にも基づいている。彼は論理的叙述、叙描を否定し、暗喩や象徴性に基づいて詩作することを選んだ。しかも単語syllableと韻に徹底して拘った彼は、厳密な論理的展開を捨ててまでもそれらに拘り続けた。。。彼の好きな語彙を頻繁に出没させながら。。。また彼を取り巻いた同時代人の詩人や芸術家、彼の崇拝者たちが彼に詩の解釈を尋ねても、彼は決してそれらを解き明かすことはなかったと言っていい。爾来、人々はその研究と解釈に様々な意見を戦わせてきた。だからタイトルにあるように≪解説≫というのははっきり言っておこがましい。(笑)≪解釈≫とでもするべきだろう。ここでも各人の解釈は相対立する。加藤は中庸を以って重んずる日本人らしく(笑)それらを組み合わせて折衷し、更なる解釈を試みている。ただ翻訳家が独自見解をただひとつの正解とするのではなく、並列して幾つかの解釈を指し示したという点で本書は価値を持つ。一方で、マラルメに想いを寄せられつつ希いを叶えることなく、高名な医者に囲われ、数多くの芸術家たちと浮名を流したメリー・ローランという愛人稼業の女性が放ったひと言が輝くのも事実だ。曰く、『(マラルメの詩を)理解不能だとか言うよりも、なぜこの美しさがわからないのかしら。(引用不正確)』。

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2004年度 読書記録と批評 [読書記録]


読後感想 2004年版 (当時のものをそのまま再録) ※日付は降順

2004年度総括)

 今年は或る意味で変化とそのに追われる多忙の一年だった。昨年末に店舗の閉鎖を決め、3月末に閉店。最後の営業の日々を忙しく送ったかと思えば、間髪を置かず、大阪から広島へ転居、転職という展開。まったく新しい仕事と生活スケジュールの変化に適応しながら自分なりの生活ペースも創り上げてきた。
 そういう意味では最終的にそこそこ納得のいける質・量になったのではないか。
いくつかこれまでとは毛色の変わった児童書・児童文学の類も手に取ってみたし、世間ボケした頭を切り替えようと数学関係の書物や経済ジャーナリズムも読んでみた。また2005年に向けての読書指針も固まりつつある訳で、多忙さに引き摺られて終始するようなことがなかっただけでも由としよう。




日付 書名 著者 ジャンル お奨め度

12/24 アンネの日記<完全版> アンネ・フランク 日記 ★★★★

 『アンネの日記』。。。43歳にして初めて読んでみた。ユダヤ人を襲った運命について、旧約聖書から中世期ゲットー、20世紀に甦ったゲットーとアウシュヴィッツ、そしてイスエラルの血塗れの建国と現在について、昔から関心を寄せてきた私がこれまでこの日記を読もうともしなかった理由はなんだろう。それには幾つかの理由がある。まずひとつは本書がゲットーでの生活でもなければアウシュヴィッッの記録でもなく、隠れ家での世間から隔離された一家族の物語に過ぎない(敢えて"過ぎない"とここでは言って置く)からだ。俗っぽい表現をすれば、或るお金持ちの家庭が丸2年にも渡って蓄えを支えに屋根裏(正確ではないが)に隠れ潜んだ生活の記録でしかない。異常な状況ではあるが、或る意味、看守のいない刑務所生活の記録だ。直接的な迫害の記録としては極めて微妙な部分がある。しかも書いたのは十分に知的だとは言え13才の少女。ふたつめは、私がこの日記のことを知らされたのは幾つの頃だろう?正確な記憶にはないが教育事情を考えても12才から13才の同い年くらいに授業かなにかで紹介されたのだろう。もちろん、その前にも映画の話やなんかで知っていたはずだが、基本的には可哀想な女の子の話程度の認識だろう。果たして13才の男の子が同い年の女の子の書いたとされる日記に対して知的興味を抱くなんてことがあるだろうか?背伸びしたい盛りだった私はその頃、まったく理解も出来やしないマルクス=エンゲルスやソルジェニーツィンに手を伸ばしていたし、14才の時にはフロイトにのめり込んでいた。そんな"背伸び盛りの"私が同い年の少女の日記に手をつけるだろうか。。。性的好奇心が満たされるというならいざ知らず。。。答えは30年という歳月を要したのだ。せめて11才程度の子供の前に本書は提示されるべきだ。少し難しいかも知れないが、歴史状況さえ説明してやれば本文は理解できないことなんてない。もしも理解出来ないとすればそれは本書の所為ではなく、その子の能力だけの問題だ。むしろ、子供として大いに触発されるところは大いにあるだろう。子供には一歩か二歩先の読書をこそさせるべきだ。実生活以下の読書はただの物語(ドラマ)に終わってしまう。一歩か二歩先んずれば、そうすれば成長の中で何度も読み返す愛読書とする子も出てくるだろう。どんな授業よりも素晴らしいひとつの体験となる可能性すらあるだろう。。。
 だが、そんな訳でこれまで本書は私にとって児童文学の域を出るものとは思えなかった。。。そんな本書だが、1994~95年に駆けて、これまでとは異なる<完全版><研究版>が出た当時には再び、私の耳目を惹きつけたのも事実だ。これまで長い間割愛されてきた赤裸々な告白の全記録が初めて明らかにされたと。だがまだ私は躊躇した。たかが13才の、ゲットーでもアウシュヴィッツでもない隠遁生活の記録。。。そして更に10年近くを経て、私が本書を手に取ったのも、実は時間潰しに入った古書店でたったの500円で売りに出ていたからだ。500円なら買っておいてもいいか。。。そのうち読む本がなくなったり、専門書に疲れたら暇潰しに読んでもいいか。。。そんな想いだった。そして存外、その機会は早くにやってきた。入手して一ヶ月ほどしか経っていない。
 長くなったが、そろそろ本書について語り始めよう。
 上にも述べた通り、本書は正確には迫害の記録とは呼べない。迫害的状況の中で追い込まれ、隠れ家に潜まなければならなかったとは言え、隠れ家での他者との陰惨な生の剥き出しの生活が少女の目を通して描かれてゆく。その意味でアンネ・フランクは十分に知的だ。だが感情をコントロールできないアンネは、少女らしい思い入れで、激しい情動のうねりを展開させてゆく。その中で彼女は急速に成長を遂げてゆく。書き出しの頃はごく普通の13才の少女だが一年もすれば16~18才にも均しくなる。(現在の日本のオトナたちでも平均的にはそれ以下かも知れないが。)2年後には少女はもはや一人前の大人となっている。異常で過酷な生活が、大人たちの剥き出しのエゴと愚行が少女を2年で急速に成長させたのだ。本書の価値はそこにこそある。"可哀想な"物語だと勘違いしていた私は間違いだったのだ。これは子供たちが大人社会と向き合い、闘うための道標なのだ。
 さて<異常な時代、異常な環境>の監禁生活の中で、他者である3家族8人が2年間、文字通り24時間密着して過ごすというならば、想像しただけで陰惨な状況が浮び上がってくるだろう。そこには隠し通せるものは何ひとつない。排泄から喧嘩や性まで、すべての登場人物は両親や姉妹までもが徹底して他者として裸にされ(剥き出しの裸である以外に術はない)、エゴや欠点が鬱積した小さな空間で爆発する。平穏な平時なら多くの人々が精神に異常を来たしただろう。だが全世界的な危機的状況は精神を一時的に強くする。(震災や生命に関わる非常事態下では精神病の発現は抑えられ、危機的状況が回復されてから悪化・発現する)それでもアンネ自身を初めとして8人が8人ともに躁鬱状態にあるのは確かだ。アンネは日記を書くことで必死に自分自身にしがみつこうとする。だが急速な成長の基で、しがみつこうとする自分自身がいまだ確固としていない上に変化し続けることになる。そんな中、彼女は常に自己批判と自己分析を懸命に試み、昨日より今日の理論武装を試みる。子供を見下し、愚弄しつつ、自分たちで論理を簡単に捻じ曲げる都合勝手なオトナたちと闘うために。ときに感情のコントロールをうしなったアンネは支えを求め、幻影の恋愛を創り上げて逃避行したりもする。対象にされたペーターという少年には抵抗する術などなく、振り回される他ない。大人たちも姉も、アンネの中でさまざまにイメージされ、型に嵌められてゆく。(だからすべてをアンネの洞察した通りだとする必要など何処にもない。)異常なシチュエーションの中で、否応なく情動的に不安定な精神状況に追い込まれてゆく。。。だがアンネは日記を武器に自分自身を鍛え上げる。むしろ誰よりも死を受け入れる準備を14才の少女は獲得してゆく。勿論、希望を捨てた訳ではない。それは祈りとして、もしも生き残れるなら(神が救ってくださるなら)、私は必ずや世界のために、何者かになるだろうという願懸けとしての希望でしかないが。。。(蛇足かも知れないが、アンネの信仰は上に述べたように願懸けとしての祈りであって、神の実在へとは向っていない。)
 さてもうひとつの側面はアンネ自身が各所で述べているように、ここでの隠れ家生活は、物質的には戦時下のオランダの平均的な街中生活よりもむしろ恵まれていたということ。石炭のない時期に石炭があり、売るものや現金は最後手元に残っており、餓死者が出る中で不足とは言え、何某かの食糧はあり、偽名ではあるが有料の通信教育まで受けていたちという事実だ。だがこの異常な環境が苛酷であるのも事実だ。そして本書がゲットーの記録でもアウシュヴィッツの記録でもないのも事実だ。オランダ人の戦時下の生活を代表するものでもない。だが気が狂ってもおかしくないほどに異常なシチュエーションでの過酷な監禁生活の記録だ。そして少女が大人と闘いぬく中で急速に成長してゆく過程を記録した稀有な日記だ。43才の男性の私には、最初から最後まで、少女の日記を盗み見るような罪悪感が伴ったもの事実だ。最後にこの日記が十分にコメディになりうることも指摘しておく。それは諧謔に満ちた剥き出しの喜劇となるだろう。

12/18 メキシコ現代史 鈴木康久 歴史 ★★

 めまじるしく左右に振れるメキシコ政権を追う中で、一体メキシコ革命とはなんだったのかが判らなくなってゆく。社会主義革命政権を標榜しながらも、民主主義システムの導入を怠り、煽動可能なエネルギー総体としての大衆のみを視野に収めることでメキシコ政府は機能を果たしてきた。
19世紀末から20世紀の前半にかけてのクーデターの連続、またそれ以降も軍人出身の指名制大統領による独裁制の高い政権は、再選禁止条約と合わせて、まさにめまぐるしく変遷してゆく。またポピュリズムによる大衆煽動は労働運動を通じて極めて高度な組織的権力をも生み出すに至る。不正と賄賂の蔓延る社会。その中で今日最大の問題である麻薬組織は培われてきたと言える。全世界に先駆けて先住民の権利への配慮を謳いながらも、今日に至ってまだ尚、チアパス州周辺を紛争の火種とする不安定な社会構造は、真の民主主義システムによらず、常に都合よく大衆煽動型ポピュリズムを利用してきた不透明な政権の責任に他ならない。21世紀に入って、与党独裁体制から脱却したとはいうものの、NAFTAの発効以降の米国への擦り寄りはメキシコの独立性を危いものにしてゆくだろう。
 著者の記述も、そのめまぐるしい政権の変遷を追うばかりで国民の生活と姿が一向に見えて来ない。合わせて、後追い解説の構成であり、歴史のうねり、動因がややもすると見失われがちになる。なんだか密度の濃い記憶偏重型の歴史教科書のようでもあり、おもしろみを感じさせない。動乱と混乱のメキシコ現代史はもっとおもしろいはずだ。さまざまな意味でメキシコ政権の評価は難しい。その辺を整理しながら論述して欲しかった。時系列に政権を追うのに忙しく、概説に過ぎてしまった点が惜しまれる。

12/11 チェ・ゲバラの声-革命戦争の日々・ボリビア日記- チェ・ゲバラ 政治・日記 ★★★

 本書はキューバ革命に勝利した後、しばしキューバの要職にあったゲバラがキューバ革命の過程と実態を率直に語り記録に残すべく記したものであり、参加した同胞たちへの同趣旨の訴えを含んでいる。
ここでもゲバラの率直さを前に読む者は頭を垂れるしかないのか。長くなるが冒頭を引用しておく。「(前略)一人ひとりが、自分たちを歴史と一体化し、かつ美化しようとして、その思い出をどうしても確固不動のものとしがちである。わたしたちが語り手に望むただ一つのことは、厳格に真実であることだ。個人的な立場を解説したり、自画自賛したり、ある場所にいなかったのにいたふりをしたり、少しでも不正確に話したりなどは、絶対にして欲しくない。わたしたちが求めるのは、一人ひとりがその教育や能力に応じて各人のやり方で原稿用紙に書いたのちに、及ぶ限りの自己批判をすること、厳密に確実でなかったり、あるいはそこで筆者が確信をもてないような出来事については、言及するのを避けることである。」
 そう語ったゲバラの『革命の日々』には格好のいい武勇伝は確かに希薄だ。戦闘における混乱と、闘わずして敗走する兵士たち。戦闘の中でパニックに陥り、武器を投げ出して逃亡する者たちや、おかしな行動にでる者たち、双方のだらしなさに溢れている。攻撃計画はなにひとつ思い通りにはいかず、退却を余儀なくされたり、戦いに間に合わなかったり、戦闘の重荷になったりと、およそ勝利した革命の闘争過程には似つかわしくない場面が次々に描写される。そして後半部分の大半は、裏切りや、風紀の乱れから略奪や個人的争い、挙句は仲間内で殺人を冒すに至る革命ゲリラ兵の堕落ぶりと、それを律するために綱紀粛正、処刑の連続ぶりが描かれ、傍らでは戦闘による犠牲者を排出しつつ、さまざまな悲劇的出来事が率直に語られてゆく。こうした何事も包み隠さない告白のうちに、革命の道に倒れた者たちへの追悼と、それら払われた犠牲の上にあるキューバ革命政府を待ち受けるであろう困難な未来に対して遺志を引き継いで律してゆくことの必要性を訴えたものであるのだろう。
 『ボリビア日記』は、みすず書房から出版されている『ゲバラ日記』と同じ内容なので詳しくは割愛するが、キューバの要職を退きコンゴへ、そして惨めな退却の後、ボリビアへと革命に身を投じたゲバラの死の直前まで綴られていた日記。

12/5 チェ・ゲバラ 第2回AMERICA放浪日記 ふたたび旅へ エルネスト・チェ・ゲバラ 日記 ★★

 ゲバラの死から33年経った2000年になってようやく日の目をみた二度目の南米旅日記。ほとんど日付けのない日記は断続的に、そして断片的に書かれている。『チェ・ゲバラ AMERICA放浪書簡集 ふるさとへ 1953-56 』と合わせて読むと、当時の状況がより鮮明になるだろう。量としては短いもので、前述の書簡集から≪日記の終った時点以降の部分≫が引用されているので、両方を手に採った読者にはダブってしまうのが残念だが。(原著の構成通り)
 今回の旅日記で、ゲバラは前回のように旅そのものを愉しんではいない。無論、それは前にも述べたように今回の旅の目的が彼自身の使命を模索し、おぼろげながら感じとっていた闘争運動への参加を問い掛けるために組まれたものだからだ。政治的な状況を見極め、運動に中にある裏切りや日和見主義、ロマンチストたちの動向を注意深く検証しようと試みている。書簡では、ときに本音を隠しながらも相手に自分の見聞を伝えようとしているが、自分自身のためにメモした日記では葛藤のさなかにあって寧ろ、寡黙とも言えるほどだ。相棒カリーカのことについてはほとんど触れない。寧ろ前回の相棒グラナードの不在を嘆くことの方が多いかも知れない。孤独感を感じながら、一方でグァテマラやメキシコで、揺るぎない革命的意思を抱く者たちへの限りない畏敬の念に我が身を晒している。そしてゲバラはここからキューバへと立つ。。。最初はゲリラ兵のための随伴医師として。。。だが上陸後、すぐに彼は永遠の闘士へと変身する。

12/1 チェ・ゲバラ AMERICA放浪書簡集 ふるさとへ 1953-56 エルネスト・ゲバラ・リンチ編 書簡 ★★★

 本邦初訳となる本書はゲバラの父の手によって、1987年に始めてスペイン語で出版されたもの。『モーターサイクル南米旅行日記』からアルゼンチンへ帰国して1年後の1953年6月、ブエノスアイレス大学医学部を卒業したゲバラはふたたび、今度は宛てのない放浪の旅へ出る。一応、終着点は前回の供であったグラナードの待つベネズエラと決めてはいたが、それは名目に過ぎなかった。前回の旅行から帰国して以来、政治的意識を明確に持つようになったゲバラは、どうすれば自分が人々の役に立つのか、自分の与えられた使命とは何なのかを問い詰め、見い出そうとふたたび旅に出る決意を固めた。それは期限を持たない旅でもあった。もしも明確な答えが得られないならばベネズエラでグラナードと共に病院に勤務しよう。。。もしもそんな凡庸な人生しか見いだせないのなら。。。そんなスタートだった。
 結局のところ、彼はベネズエラには立ち寄りもしないでキューバー赴くことになる。途中グァテマラで革命の勃発と弾圧に遭遇し、メキシコで潜伏中のカストロ兄弟と出会う。そして「グランマ号」に乗り込み、キューバ革命を勝利へと導く。
 本書に収められた書簡はキューバへ向けて、メキシコを出国する直前で終っている。
 旅の途中、「自分の信じるものが最終的に勝利すると固く信じてはいますが、それでもそこで自分が主体となるのか、ただ動きに関心を寄せるのみの傍観者となるのかすら、分からないのです。」と母に宛てて書き送ったゲバラは、この旅程を通じて、確信を深めてゆく。。。主体として武力によらざるを得ないこの革命に殉ずるのだと。
 大学の友であり、旅行を通じての文通相手でもあったティタが、ゲバラの死の一年後に書いた回想で本書は締め括られる。感動的なまでの修辞でもって。。。
 曰く、「石に刻みつけるには温かみがありすぎる。身近な人として思い描くにはあまりにも偉大すぎる。エルネスト・ゲバラは、人並み程度にはアルゼンチン人でもあり、そしてたぶん、誰よりも本物の世界市民でした。」と。

11/26 ラテンアメリカ変革の歴史(廃刊) 巣山靖司 歴史 ★★★

 81年に出版された本書で筆者は、単にメキシコ、キューバ、チリのラテンアメリカの三大革命史を綴るのではなく、マルクス=レーニン論をも引きつつ、それぞれの時代の違いによる社会事情と各国の産業構造の差異に基づく経済情勢、そこで繰り広げられた革命思想とその後の展開などを比較しつつ分析してみせる。東西冷戦の雪解けを迎え、チリのクーデターから8年を経た時点で綴られたことからも判るように社会主義に捕われ過ぎない歴史学的史観によって描かれていると言えるだろう。冒頭から社会主義論が繰り広げられる所為で小難しいと感じる人もいるかも知れないが、本書の記述は努めて平易であり、読み進めてゆくにつれてそれは明らかになるだろう。革命を待たざるを得なかった当時のラテンアメリカの逼迫した情勢と共に、米国の経済植民地政策(裏庭政策)から逃れる術なく、米国の利権を侵害するいかなる革命も決して成功する見込みのない中で、それにも関わらず立ち上がった革命の行方を追いながら、その限界を浮き彫りにしてゆく。他方、キューバ、ベトナムの失敗を受け「進歩のための同盟」という懐柔策に出た米国を米国帝国主義の衰退と詠み違えたり、経済大国、世界の先進国として敗戦の中から立ち上がった日本という驕りが時折、筆者の視点の奥に垣間覗くのは残念ではあるが81年という時代背景の中でそういった見方があったのも事実なのだろう。

11/19 鏡の国のアリス ルイス・キャロル 童話

 前作『不思議の国のアリス』に続く第二弾。だが前作の評判に気をよくしたキャロルが数年後に執筆したこちらは、十分にオトナを意識した内容となっている。ここではシュールさが韻文的ダジャレとチェス・ゲームの間に撒き鏤められているが、チェスの譬えと言い、イギリスの古い民謡の書き換えなどと言い、浅学なわたしにはどれも判り難いものばかりだ。ナンセンスに意味を求めるなと言うところか。。。
 相変わらず、あらすじと呼べるようなものもない。正直言ってこの程度のものが何故、ヨーロッパ近代精神の発露として持て囃され、根を張り巡らせ続けているのか理解に苦しむ。さまざまなキャラクター(トィードルダムとトィードルディー、ハンプティダンプティ)なども決して魅力的とは思えないし。。。成立時代背景などを考えるとおもしろいが、さりとてナンセンス&シュール過ぎて、空想の拡がり羽ばたく余地も意外にないようにみえる。

11/17 トラベリング・ウィズ・ゲバラ アルベルト・グラナード 日記 ★★

 1952年、ゲバラ(23才)とグラナード(29才)はふたりで一台のバイクに跨り、南米横断の旅に出た。ゲバラの日記はその生前からある程度は知られていた(ゲバラ自身が公表を意図していたという)が、1967年ゲバラ死の直後から徐々に公開されて、最終的に今日の形となったのが1993年、グラナードの日記は遡ること1978年にそれぞれ出版された。同じ旅行がふたりの人物によって別々に日記として綴られたドキュメントとしても稀有のものだ。
 これほどまでに違うものか、と驚かされるほどに同じ旅が別々の口によって語られている。当然のようにそれぞれの綴る力点が異なっている所為もある。或いは翻訳というフィルターによって歪められている点もあるのかも知れない。だがグラナードの語り口は一人称でより感情的であるのに対し、ゲバラの記述は客体的なクールさを持ち味としている。またグラナードが要所要所で政治的見解を振りかざすのに比して、ゲバラは明確な政治的見解を極力控え、また距離を置きつつ、感じたことをそのままに書き留めている。
 ふたりにとって、また大袈裟でなく人類史にとって大きな意味を持つことになったこの旅路を羨望の思いで眺めるのはわたしだけではあるまい。ただ読むべき価値としてはどうしてもゲバラの『モーターサイクル南米旅行記』に軍配が上がるのはやむを得ない。

11/11 不思議の国のアリス ルイス・キャロル 童話 ★★★

 生まれて初めての童話ではないだろうか?子供の頃から読書好きだったとは言え、童話のようなものを読んだ記憶がない。では何故40を過ぎて、今更に童話なんぞを?ルイス・キャロル。。。ヨーロッパ近代精神のある意味根底にある発想の原典(空想の源)。。。それはイギリスに留まらず、フロイトなどありとあらゆるヨーロッパ近代精神の要であり続ける。その存在感は聖書と並びたつ程だろう。正直、『アリス・・・』なんぞにはなんの興味も持てない。だが、いずれにせよ避けて通れないのも事実だろう。思い切って手にとってみた。
 アリスについて言われることに「ナンセンス!」という言葉がある。読み始めてすぐ、その言葉の意味を実感する。これが童話なのか?という戸惑いすら沸き起こる。ナンセンスというよりはシュールだ!1860年代と言えば、いまだシュールレアリスムも生まれていない。フランスではロマン主義の跡をついだフロベールら写実主義全盛期であり、小ロマン主義ネルヴァルの縊死した少し後、ボードレールが没した頃(1966年)、デカダンスへと向かう道程の頃でしかない。そんな時代に少女偏愛趣味の数学者ルイス・キャロルが執筆した本書は、既成の童話というジャンルの枠をぶち壊してシュールな世界を描き出している。『不思議の国の・・・』というよりは、まさしく『シュールな世界の・・・』という言葉が似合う。オチは陳腐だが、童話だから仕方ないのか、いや、ここまで描いたのならいっそ大人向けに書き下ろして欲しかった程だ。(笑)
 飛び切り面白いとも思わないが、確かに不思議で奇妙な書物だ。

11/7 チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行記 エルネスト・チェ・ゲバラ 日記 ★★★

 映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」の基となった若きゲバラの南米旅行記だ。実はこれまでにも一度ならず、何度か本書を手に取ったことがある。だがいずれも、革命史に関わる本ではないということを理由に読むには至らなかった。いずれ読まなければと思ってはいたのだが、今回映画化をきっかけに読むことにした。
 神話以前の無名の若者ふたりの南米横断旅行記。だが、どこまでいってもゲバラは永遠の理想像であり続ける。それは理想化された虚像ではなく、ゲバラ自身が真実、理想を具現化した存在であったことによって、到底我々の手の届かない処にあり続ける、憧れであり続けるということだ。本書では、未だ社会主義革命に目覚める前の学生ゲバラが存在する。共産主義ドクトリンに対する辛らつな発言も健在だ。やんちゃな彼らは詐欺紛いの行為で旅の窮乏や飢えを凌いだり、寝床を確保したりする。ここではゲバラ自身、米大陸を征服したスペイン人の血を誇ったり、原住民に対する悪意なき差別意識が見受けられたりもする。だが、たとえそうであっても彼はそれを正直に書き綴る。ただただ虚飾なく、誇張なく、正直に。いくらでも書き直すことが可能であったにも関わらず、本書を発表する必要すらなかったにも関わらず、だ。
 取り立てて大きな事件も出来事もなく、ふたり(年長の友グラナード)の旅は半ば無計画に南米大陸を縦断してゆく。だが、その中で彼らは自分たちの中に巣食う違和感(何かが間違っているという)を確信へと変えてゆく。いや、それはまだ先のことだ。この旅では違和感を肌で感じ取ったに過ぎないのかも知れない。
 ゲバラに憧れた小学生(私)は、とっくに彼らが南米を旅行した年齢を超え、ゲバラが没した年齢をも超えてしまった。だが、わたしはまだ違和感の只中に留まり続けている。。。

11/6       数学するヒント ジョン・A・パウロス 数学 ★★

 数学者パウロスの91年の作品。副題に「コラムで読む数学事典」とある通り、アルファベット順に数学用語を並べて、解説を加えたコラム。正直なところ数学的素養のないわたしにとっては、パウロスの作品中でももっとも難解な部分が多かったのも事実。だがここでパウロスは何度も、現代の数学教育で失われてしまっている、或いは欠け落ちてしまっている部分について批判を繰り広げている。はっきり言って計算力にも事欠くわたしにそんな資格はないが、わたし自身が数学嫌いになってしまったのも、まさにそこに問題があると言ってていいだろう。論理学としての数学が理解できて初めて、きっと或る種の哲学書の理解も可能になるのだろう。少し長いが本書の最後を飾ったパウロス自身の言葉を引用して置こう。
 『(前略)エレアのゼノンが2500年前に出したパズルを解くのには、微積分と無限級数のもっとも微妙なテクニックが必要だった。(中略)これが数学が自然に発展した順序なのだが、しばしば、とくに教育の現場では、この順序が逆になっている。こうなると、数学は単なるテクニックの集合となり、その哲学、文学、歴史、科学、そして日常生活との密接な関係は失われてしまう。それを支える人間的な意味と物語という基盤がないと、数学は教養の一部としての地位を失い、単なる技術屋の道具になってしまう。私はこの傾向には抵抗するべきだと思うし、この本も私のささやかな抵抗なのである。』
 しかし、それにしてももう少し判りやすく説明しておくれ。。。パウロスさん。

10/18 数学とユーモア  ジョン・A・パウロス 数学 ★★★

 パウロスの1980年の著作であり、翻訳出版は1982年である本書は「数学のユーモア」ではなく、「ユーモアの数理学的構造解析」とも言われるべきものだ。よく言われるように、あらゆる障害を越えてコンピューターが人間に近づいたとしても、その完璧なロボットは決してユーモアを解することは在り得ないだろう。勿論、著者もそんなことは充分承知の上だ。パウロスは人間のユーモアという本質的に数学や科学を拒否する絶壁に別の視点から接近してみせる。最初のうちはどうにも合点がいかなかった。だがそれはユーモアが数理学的に解析される訳がないという読み手の抵抗心だろう。次第にパウロスの語る内容が説得力を持ち始めてくる。何もそれは前述のようにユーモアを解析してロボット工学に役立てようという野望ではない。そうではなくて、ユーモアという純粋に文学的(人間的)な事象を数学の概念を用いて説明しようとしているのだ。果たしてそれは成功したのか?著者の目論見、著者の試みたアプローチ方法からすれば成功したと言えるのではないだろうか。ユーモアやジョークの持つ≪両義性≫と≪意外性≫、それは≪想像力≫と≪情動性と解放≫に支えられている。それらは著者によって、公理や定理と反覆、自己参照や逆理、文法やカタストロフィーモデルとして説明されてゆく。原則的に復元性を拒否するそれは、一過性の一方通行による情動の異動(落差、パウロスによればJump Up)の力学構造を背景に持つという。
 薄い冊子だが、その内容は深い。当初、成功の見込みのない、途方もない試みと映ったアプローチはパウロスの巧みな語り口によって徐々に構築されてゆく。ここに描かれたモデルが正しいか否かは別の問題として、充分に知的なアプローチは読む者を愉しませてくれるだろう。つけ加えておくが、数学的素養はほとんどいらない。

10/17 アントナン・アルトー論 スーザン・ソンタグ  文藝評論 ★★

 現在、みすず書房から出ている『アルトーへのアプローチ』と同内容らしいが、こちらは77年に限定1500部でコーベブックスが出版した初版本。古書店でたったの1000円で購入できたのは幸運としか言いようがない。
 さて、内容の方だか、精神病院の一室でスリッパを握って死んだ詩人アルトーについては、さまざまな人々がその理解不能性を巡って多くの論考を発表している。それは彼自身の残した作品群を上回る量といっていいだろう。だが多くは哲学的アプローチか、伝記的要素を加味したものが目立つばかりだ。そんな中ではアルトーという理解を峻厳と拒否しつつ、その理解不能性や制御不能性といった絶望的な闘いを挑み、敗れるしかなかった狂気のシュルリアリストの詩人・劇作家・映画俳優・パーフォーマーの本質に迫ろうとしたユニークなアルトー論だ。その考察は意外にも鋭く深い。。。グノーシス派に見立てたところが強調されるきらいがあるが、さりとてそれもなるほどと思わせるだけの説得力を持ってある。「・・・ある種の明敏さを失うよりは、あるいは自分の確信を提示するさいの極端な熱烈さを失うよりはむしろ狂気に陥ることを選」んだアルトーは、凝縮された一己の叫びとして具現化することに全身全霊をあげて取り組む中で摩滅して逝くしかなかったのだろう。観客に擦り寄る行為としての≪理解≫を、厳然と拒否し、≪理解≫と訣別してみせることで、彼は異なる次元での観客の理解を要求する。汗やさまざまな匂い、空気の振動や空間の圧力という苦痛さえもが、彼の存在そのものを押しつける道具となる。見せつけられた観客は吐き気を催してその場から逃げ出すか、圧倒的なその呪縛に囚われて激しい痛みを覚えるか、どちらかを選択せざるを得ないのだ。その凝縮された耳を覆いたくなるような叫びのフレーズが、セシル・テイラーの紡ぐ音群とわたしには重なって聞こえる。

10/13 フロイトとプルースト ジャック・リヴィエール 文藝評論

 ≪フランス新批評≫誌の編集長ジャック・リヴィエール。。。わたしにとってこの名前はアントナン・アルトーと不可分に結びつき、それだけの為に何気なく入った古本屋で、本書に目を留めたと言っていい。しかもタイトルは『フロイトとプルースト』。いったいどんな関係があるのかと疑いつつも、フロイト・マニアのわたしは密かに期待を寄せた。だが、1927年プルーストの逝去に接して行われた3回の追悼公演をまとめた本書はリヴィエールによるプルースト礼賛となっている。彼はフロイトを叩き台にしてプルーストの『失われた時を求めて』を称えようとする。だがあとがきで翻訳者も認めているようにリヴィエールのフロイト解釈は誤解に満ちている。彼が散りばめ、操る≪無意識≫という言葉は、表層的なものに留まる。フロイトのいう≪無意識≫は記憶の抽斗ではない。しかも彼はフロイトを批判的に引用しさえする。わたしはそもそもプルーストが好きにはなれない。もし『失われた時を求めて』が『スワンの恋』だけで完結したならば、それでもかなりの線好きになれたかも知れない。だが、冗長過ぎる時代掛かった恋物語は、≪芸術作品のように見事なまでにメレンゲや生クームで繊細な細工を施されたケーキのお城≫としか思えない。所詮は甘いだけのお菓子でしかない。。。そしてリヴィエールの精神も新ロマン主義(?)にどっぷりと溺れているようだ。そう考えてくるとリヴィエールがアルトーを見出し、アルトーの作品ではなく、自分との往復書簡を出版した事情が見えてきた。彼にとっては自分自身をリルケに譬えて『若き詩人への手紙』を実現したかっただけではなかったのか、との構図だ。だからアルトーは無名のままで終ってよかった訳だ。だが皮肉にも彼は今日、彼自身の作品によるのでもなく、アルトーとの往復書簡によって、アルトーを見いだしたとされる慧眼によって生延びている。あとがきにもあるように、本公演が行われたとき、フロイトはまだ健在であったし、『失われた・・・』は最終巻『見いだされた時』は発表されていなかった。38歳で早逝した彼をあしざまに批判したくはないが、本書を高く評価するのは難しい。プルースト好きならば、という但し書きがいるだろう。

10/11 フロイト 2 ピーター・ゲ 評伝 ★★★

 7年の歳月を経て、ようやくフロイト伝の決定版と呼ばれているP・ゲイの『フロイト』下巻が翻訳出版された。言うまでもなく上下巻を一時に読破したかったが、残念だがこういう形になってしまったのもやむを得ない。≪闘将≫と呼ぶにまさに相応しい20世紀最大の思想家フロイトの生涯が綴られた本書は、著者による冷徹な視点から人間フロイトを赤裸に晒している。もしもフロイト自身がこれを読んだなら激昂して憤死したかも知れないが。。。(蛇足だが、書簡を公表されたり、性癖などプライバシーを侵害されたりといったことが有名税であるとするならば絶対にお断りだ。)
 反フロイトイズムは根深い。だがそれらがやっきになって何度もフロイトを焚書にしようと、フロイトイズムはまさに不死鳥のように永遠に生き続けるだろう。反フロイトの急先鋒は、ほとんどフロイト自身の著作を読んだことのない人々だ。或いはほんの一冊か、二冊だけを読んだ人々だろう。少なくともフロイトの著作に或る種の感銘を受けないなどということなど考えられない。科学信奉者たちは自分たちが現在準拠する足場が過去の何度も失敗した実験や、精度など、さまざまな時代性の要因で誤らざるを得なかった論理の上にあるのだということを忘れているか、傲慢にも科学の進歩という歴史的過程を≪否認≫しているかのどちらかだ。そんなことは十二分に承知しているはずなのに、にも関わらず彼等が、一部が符合しないからと言って、そのすべてを無価値だと攻撃するのはいったい何故だろう。なぜフロイトはそこまで徹底的に叩かれ、否定されなければならないのだろう。それはフロイトの齎したものが今もまだその歩みを進める余地を十二分に持っているからだ。フロイトは抵抗と反逆のシンボルであり続ける。そしてフロイトは彼の存命中から、精神分析をもて遊んだ似非分析派によって貶められてきた。しかも敵(反フロイト)はそこを攻撃してフロイトに転化しさえする。わたしに言わしむれば、精神分析をもっとも貶めたのは、――精神分析を変質させ、誤解を広めたのは、ユングに他ならない。彼が精神分析を慣れ親しんだ占いの一種にまで戯画化したのだ。
 それはさて置き、フロイト自身は何度も自分自身の仮説に疑義を呈している。勿論、論客と戦うときには、いつでも自身の論理(彼は科学と認められることを望んだが)に対して当然のように自信を持ち、頑迷なまでにそれに固執した。だが、それでも彼は自らを顧みることを止めたことはない。他人に対しては居丈に主張を繰り広げようとも、自身の内部では常にそれを検証し、疑義を差し挟み、全体を省みることを止めなかった。(彼はその著作の中でも、はっきりと精神分析は神経症にしか効かず、分裂病には無力だと主張し、また後には精神分析は神経症の症状を緩和させはしても根本的に治癒しない、と述べているし、将来の薬物療法に対する展望すら述べている。他にも枚挙がないくらいに彼は自己否定的な部分を有している。)それは決して批難されるように事柄ではなく、寧ろ賞讃を受けていい態度なはずだ。だからこそ、彼の論理はその死の寸前に至るまで前進を止めなかったし、現在に至って尚、これだけ医学界と薬物科学療法の総攻撃を受けながらも、決して崩折れることのない金字塔として立ちはだかり続けているのだ。
 フロイトは抵抗と反逆のシンボルであり続ける。。。彼の生みだした精神分析と同じように。
そしてここには老いと病と闘い、頑迷なまでに自己を貫き通したひとりの人間の、それ自体感動的な物語がある。フロイトを一切拒み続ける人物は自分自身を覗き込もうとしない人々だ。フロイトを拒否する者は同時に自己を拒否する者でもある。
 フロイトを読んだことのない人が本書を読んでも特に意味はないかも知れないが、一度でもフロイトを読んだことのある人は再びフロイトを読み始める為にも本書を読んでみることに価値を見出せるのではないだろうか。

9/26 科学の終焉 ジョン・ホーガ 科学評論

 常々言っているようにわたしはジャーナリストの書いたものを読まないようにしている。モチロン、政治紛争やなんかで専門家(中にはジャーナリストと変わらん連中や、名前だけの専門家、政治的立場に捕われた連中も混じっているが)の資料が入手できないときは已むなく手に採ることもあるが、ほとんど参考にもならないし、しないようにしている。
 さて、本書はジャーナリズムの中でももっとも危険な科学ジャーナリズムであり、ライアル・ワトソンやジョン・ハンコックに代表されるような、自分のアイデアに都合のいい理論だけを継ぎ接ぎして組み立てた似非科学(空想科学)を生み出し続けている。だから97年に本書が出版され、話題に上った時も読んでみようとは思わなかった。だが、本書が出版されて7年。いまだに評価が高いのが不思議でついに読んでみることにした。
 ところが本書は科学書ではない。科学書とその著者である科学者自身をインタビューを交えて、文芸批評のように解体しようとした著作だ。したがって科学理論の名前は次々に揚げられ、論われてゆくが、そもそもの科学理論を素人に判るようには解説しない。。。したがってその部分に関して言えば正直チンプンカンプンだ。いったい誰が理解できるのだろう。オタッキーな科学マニアか、ともかくも大学で修士を修めたヒトくらいか。。。(笑)さまざまな科学者たちへ向けられるテーマはタイトル通り「科学の終焉」。果たして現代科学はもはやいきつくところまで行ってしまったのか?あとは細部のパズルを完成させてゆくだけで、もはや革命的科学理論が発見される可能性はないのでは?或いは、もはや検証の不能性に陥ってしまったそれは、確証しようのない空理空論の哲学的様相に終始してしまうのか?という問題を数十人の高名な科学者に直接インタビューしてゆくのだ。
 ここで明かされるのは、科学者たちが根本的にロマンチストであるということ。わたしのように文系の人間からすると、ロマンチストである科学者が「絶対的真理」を探求するというのは、どこか不可思議な矛盾点すら感じさせもするのだが、彼らは紛れもなく一様にロマンチストである。夢見がちな真理の探究者。。。シュールな風景だ。(笑)
 人間としての科学者たちは、よく言えば可愛い。。。悪く言えば愚かですらある。勿論、著者が皮肉たっぷりに描写するから余計にその度合いが高まっているのだろうが。彼らは神秘に魅せられた人々だ。だから彼等がどんなに懸命に否定しようとも、彼らは絶対的無神論者ではあり得ない。絶対的還元論者と評されるクリックでさえもだ。彼らの辿り着く先は奇妙なほどに似通っている。彼らは神秘に見せられ、神秘の謎を探求し、その論理を明かすことで、神に近づきたい、神に成り代わりたいと希うかのようでもある。楽観主義だとか、悲観主義だとか、無神論者だとか、有神論者だとか、さまざまに文中で評されているが、ロマンチストはすべからく夢を見るものだ。
十全に理解できもしないものを評価するのは難しい。。。

9/18 変容する民主主義 A・マッグルー編著 政治 ★★

 副題を「-グローバル化のなかで-」とする本書だが、本書はマッグルーをはじめ9名の専門家の手になるが、寧ろ内容的にはグローバリズムに直面した民主主義の試練とでも言うべきか、グローバリゼーションの中で否応なく変容を迫られつつある民主主義の行方を探ったものではなく、グローバリズムの中でリベラル・デモクラシーを如何にして守るかという論旨に支えられているようだ。
 そういう意味ではポスト冷戦後、社会主義という対抗要件を失った民主主義がどこにその支えを見出すのか、そもそも民主主義とは如何なるものか、グローバリゼーションの荒波の中で民主主義はどう変容してゆくのかという考察を期待したわたしは少し裏切られた感じだ。
 環境問題や、人権問題、そして女性運動や、多国籍企業MNC、欧州連合EUモデル、国連システムの限界、世界政府とグローバル・ガバナンス、といった様々な観点から民主主義を擁護しつつ、論考を展開している。ようやく最後になって著者自らがリアリストを標的に本論考全体を解体してみせるが、著者自ら認めるように本書はリベラリスト米国人によるシステム理論に終始した感がない訳ではない。そもそも資本主義型経済は民主主義的ではあり得ないし、資本主義の拡大・寡占状態は民主主義自体によって、社会主義的運動を招くことが必須であるし、どう足掻いても企業が民主主義と対立的に運営されるしかないことを考えるとき、グローバリゼーションの中で、理論的リベラル・デモクラシーを守ろうとするよりは、資本主義と民主主義の根幹を問い直し、どう変容してゆくのか、変容してゆかざるを得ないのか、また果たしてグローバリゼーションは民主主義的システムの上に構築され得るのか、対立の構図に基づいて民主主義は資本主義の権化とも呼べるグローバリズムと対決しなければならないのではないか、という地点へと論考を進めて欲しかった。民主主義を政治的善と規定したところからスタートするしかない論陣(米国イズムか?)に不満が残る。グローバリゼーションを語るのにこの程度の米国人論客だけで充分とするならばそれこそが皮肉だと言える。

9/10 東アジアの歴史教科書はどう書かれているか 中村哲 編 歴史教育 ★★★★

 「日・中・韓・台の歴史教科書の比較から」という副題にある通り、言うまでもなく本書で言う東アジアには日本も含まれている。そして各国の高校で使用されている歴史教科書の比較に留まらず、それぞれの時代別歴史教科書の変遷をも追ったものであり、先日、東京都立白鴎中学・高校で扶桑社版「新しい歴史教科書」の採択が決定したこと等がいまだ懸念される現在、再びこの問題を多角的に捉えてみるに充分な材料を提供してくれる。
 さて、結論から言えば、善し悪しは別にして、日本を除く各国の歴史教科書が、色濃く現在の政治体制に結びつけられていることだ。そうだ、歴史は現在へと繋がらねばならないのに、日本の歴史教育は過去の出来事を時系列に並べてゆくだけだ。そして現代史はきわめて曖昧に処理され、日本の教育現場では政治思想はタブーとされたままだ。その隙を埋めるかのように歴史は文化史であったりする。
 また、他の東アジア各国の歴史教科書が、多分に自国主観主義的に記述されている一方で、日本の教科書があまりに客観主義的に、歴史的評価と共に歴史的主観・動因を無視して、事件や年号を羅列したものでしかないことが顕わになっている。さらに歴史教科書の頁数の薄さも群を抜いているのが異様だ。しかも近年、この動きはさらに加速されたものだと言う。最新の改訂版はそれまでのものに比べて内容的にはまさに2/3から1/2と評してもいい程にその中身を減らしている。したがって日本の教科書は薄い割りには事件や固有名詞、それに年号ばかりが、まさに羅列された無味乾燥なものに仕上がっている。それは歴史の主体を明らかにしないことで、歴史の責任をも明らかにしない。そこでは何かしら歴史上の必然によって≪戦争が起きた≫のであって、≪どのような理由によって、誰が戦争を起したのか≫を明示しない。近年ではその動因を経済史、あるいは社会史とも呼べるようなものによって説明することで誤魔化している。
 わたしのような年代(昭和30年代)の時から比して、現在の高校における歴史教科書は、冷戦構造の崩壊、対外的な国際協調路線に従って、それでも幾分は日本の戦争責任を明確にし、現代史の部分を増やしてきたようだ。だがまさにそれに反発する動きとして、極端なナショナリズムに基づく≪教科書を作る会≫のような新自由主義史観が生まれてきたことが伺える。
 本書はやや他国の歴史教科書を取り上げた点からも、やや専門的ではあるが、より平易な形で記述されれば、より多くの一般の人々によって確認されるべき貴重な著書だと言えよう。少なくとも教育現場に携わる人々は本書を深く受け止め、教育現場に活かしてゆくのがせめてもの責任であろう。

8/23 ユダヤ人問題の原型・ゲットー ルイス・ワース 歴史 ★★★

 まず最初に断って置くが、本書が執筆されたのは1925年であるということだ。(出版は1928年)まだヒトラーの鼓動は世界へと響いておらず、寧ろ当時はいまだ仏のドレフュス事件の余波に包まれていた。その時点で著者はユダヤ人問題の原型として、強制されたものとしてではなく、ヨーロッパからの移住によってユダヤ人自身が持ち込んだとも言える米国のユダヤ人集住区≪ゲットー≫についての論考をまとめているのが、実に興味深くもある。
 前半は離散後の中世におけるユダヤ人自治、集住の過程を追う中で、それがユダヤ人と非ユダヤ人である外部世界の住民にとって、双方の利便性や移住者コロニーの持つ必然性によって生み出された経過を辿る。やがてそこで、キリスト教会と王権との軋轢、王権と市民社会との軋轢のうちに翻弄され、強制された≪ゲットー≫へと転じてゆくのをみる。だがその時点でもまだそこには両者のうちにある文化的・宗教的嗜好・差異によって、合意された側面のあったことが強調される。そして人権宣言に伴う変革の波が≪ゲットー≫を解放し、ユダヤ人を外世界へと放逐したことが、むしろ≪ユダヤ性≫というものを文化的・宗教的なものから≪民族的なもの≫へと変貌させたのだと指摘している。ゲットーからの解放は、そこから飛び出して社会に溶け込みつつあったユダヤ人自身によって、ゲットーにしがみつこうとする同胞を否定させたし、ユダヤ性を回顧させたりもした。(この辺りの考察はE・トラベルソもきっと参考にしたはずだ。)そんな中、新大陸への移動の波が世界を覆い、ユダヤ人たちもそれぞれに米国へと道を歩みはじめる。
 後半はその米国におけるユダヤ人貧民コロニー(移住者はユダヤ人に関わらず貧困層であった)としての≪ニューアムステルダム・ゲットー≫から工業労働地帯としての≪シカゴ・ゲットー≫の成立の過程をつぶさに見てゆく。それは強制されたものではなかった。移住者が言葉の通じる者同士、見知らぬ大陸で肩を寄せ合うのは必然であったし、それは他の諸国から来た人々も同様であった。だがやはり厳然として存在した反ユダヤ主義やその貧困生活そのものも、彼らをより一層団結させたし、文化的・宗教的規範を引き継ごうとする意味でも必然そのものであったのだ。
 だがユダヤ人たちとて、常に分裂の中にある。政治的分裂、経済的分裂、宗教的分裂、言語文化的分裂、移民時期や段階による分裂。。。だが彼等自身がいくらそのユダヤ性を忘れようとしても、世界は彼らに再び、ユダヤの刻印を押しつける。分裂し、分断された新しい世代もまた、そこで再びユダヤ性へと回帰する他ない。外部社会に対して、少数者であり続ける彼らは時に団結し、お互いに扶助し合いながら、外部へと向かい、さまざまに分裂してゆくのだが、よそ者として拒絶されることによって再び、内面へと回帰する。
 著者は≪ゲットー≫を否定も肯定もしない。ただ『ふたつの世界の地図の上に立っているユダヤ人の自我は、ユダヤ人が見捨ててしまった世界と、一人のユダヤ人も受け入れまいとする世界とに分離されている。ユダヤ人はそのいずれにも我が家をもたない』以上、≪ゲットー≫は必然であり、宿命であつ続けるだろうと語っているようだ。
 そして世界はこの後、著者の予想もしない急展開を迎える。ヒトラーの台頭と、世界の無関心、そして縮図としての≪アウシュヴィッツ≫が誕生する。さらにはシオニズムが、≪世界の弁明≫としてパレスチナの地を与えられ、新たな勢力図による≪ゲットー国家≫の建設をも導くことになったのだ。
 ヒトラー以前のユダヤ問題を当時の視点から捉えた作品として、本書は貴重かつ読まれるべき書物だろう。

8/11 アメリカ市民の法律入門 ジェイ・M・ファインマン 法学 ★★★★

 本書は米国の大学における第一学年で学ぶべき法学概論として執筆されている。従って、著者ファインマンはかの高名な物理学博士と同一人物ではないが、こちらも歴とした法学博士である。法学入門書として、米国憲法について、連邦法について、州法について、そして民事訴訟法から刑法に至るさまざまな法理念について具体例を掲げながら解説を試みている。ひと口に米国法はあくまでも米国一国の法概念・制度でしかないと片付けることも可能だが、戦後GHQによって齎された試験的法概念を押しつけられ我がモノとしてきた日本にとっては、その源泉を探るような概念でもあるし、また陪審制導入が確定となった今日、米国法の概念を理解することは必須でもあろう。また国際社会を牽引する超大国の法概念は、それ自体国際社会における1つのヘゲモニーというべきものである。
 だがまず本書に苦言を呈して置こう。それは本書のみならず、昨今の専門書・学術書全体に関わる大きな問題でもある。本書の翻訳者もそうであるが、専門書の翻訳は一般の文人(翻訳小説家など)の手になることがなくなってしまった。それは売れない専門書をわざわざ翻訳するか否かという経済的観点からも容易に理解されることだろうし、大学教授の或る種の成果や、講義テキストとして利用されるべく翻訳されることからも充分に理解できるだろう。しかも近年は英語に関する語学力は必須のものであることからして、学者先生自らが翻訳作業に関しては素人であるにも関わらず、多くの翻訳出版に携わるケースが増えてきた。となると、原著の内容にも況して、翻訳作業について表現の稚拙・完成度が問われることにも繋がるのもやむを得ない。本書に関しても逐語訳による弊害(日本語と英語の文法上の差異)や、日本人向け、或いは一般人向けに用意されるべき脚注(訳注)が一切ないなども手伝って、翻訳物のスムーズさを大幅に欠いてしまっている。中には明らかに誤訳(文脈の取り違え)であろうと推される箇所も見出される。専門知識があること、英文が理解できること、と翻訳出版を担う能力とはあくまでも別物でしかないということを実感せざるを得ない。

 さて、本書に戻るが、上記のようなこともあって、肝心の第2章≪憲法学と憲法上の政策≫が非常にわかり辛い。他の章でも同様の傾向はあるが、具体例を以って述べられる次章以降については読み手の判断や推測もやや容易となるが、ただでさえ複雑で抽象的な憲法学・憲法制度・連邦法・州法についてのくだりは中々に読み取れない。かえすがえすも残念だ。
 ただ本書を読み通して浮び上がってくるのは、米国憲法の中に脈々と流れる民衆の力だ。それによってこそ米国憲法は≪生き物≫としての実態を持っていると言っていい。時代と要求と現状に合わせて、変化し、対応する≪生ける法概念≫であるという実態だ。もちろん、訴訟社会の米国においても、その変容は遅々として進まず、一進一退を続けたり、跳ね返されたりしている。見方を変えれば、それは建国200年というタイムラグの中でかろうじて認められる程度でしかないのかも知れない。しかも訴訟社会米国と雖も、法律を変容させてきたのは大衆の声などではなく、一部の執着心旺盛な野心家であったり、強欲な変人、臆面もない犯罪者自身の権利要求であったりするのだろう。だが日本の法律などというものが所詮、上から下された規範であり、時代と共にある変容すら、市民の声や活動によってではなく、時の為政者らの共感的協調性によって遅ればせながら、或いは選挙戦略・政治戦略として齎されたものでしかなく、≪憲法≫に歯向かって立ち上がった一人の市民の奮闘によって勝ち取られたものではあり得ない。
 根源的な差異は次のような冒頭に掲げられた文章に端的に表されている。『私たちが望むことをさせ、私たちが望まないことをさせないようにするためには、どのように政府に権限を持たせ、またその権限を制限すればよいのか、』それが憲法に関する基本的な問題なのだ、と。そこには憲法を創り、そしてそれを利用しているのは自分たち市民なのだという強い意志を感じることが出来るだろう。
 顧みて我々日本人の意識の中には≪我々の権利は憲法によって護られ、我々の義務は憲法によって規定されている≫というような意識しか見いだせないのではないだろうか?この溝を埋めない限り、日本の陪審制度は何ものをも齎さず、儀式として形骸化してしまう他ないと思われる。

7/31 確率で言えば ジョン・A・パウロス 数学 ★★

 評価は低くなってしまったが、決して面白くない訳ではない。ただパウロスの著作も4冊めになると同じ話の繰り返しが多くなってしまうので、どうしても高い評価はしにくい。繰り返しでない部分は話がうまく練れていないのか、わたしの知性がついていかないのか、さほど面白味を欠くように思える。
 だが、評価とは別に、わたしのように一行一行を確実に理解しようとはせずに、パウロスの翻訳されている著作をすべて読み漁る(流し読み)ことで全体像を把握しようと試みるタイプの人間には、4冊めくらいでようやく他人に対してもそこそこ咀嚼することが出来るようになる。あと2冊パウロスの翻訳著作が手元にある。現時点で日本に紹介されている全6冊を読み終えたとき、わたしが何処まで理解を深めているかが問われるしかない。そしてそれがわたしの理解の限界点でもあるのだろうけれど。。。

7/18 アラブ・イスラエル和平交渉 I.Z.アイゼンバーグ、N.キャプラン 政治・歴史 ★★

 「キャンプデービッド以後の成功と失敗」という副題を持つ本書が出版されたのが98年。僅かに希望の見えた?瞬間だったのか。著者たちはマドリード、オスロと引き継がれた流れをひとつの成功とみなしており、予断は許さないと認めながらも希望を託している。訳者によるあとがき補遺によるまでもなく、その希望は打ち砕かれた。。。
 単に交渉史ならもうとうに予備知識はある。だが本書はそれらを俯瞰して失敗のパターンを見い出そうという試みであるように見えたので購入した。だが実際には仮説としてのパターンに捕われ過ぎて、それ以外のものを見ようとはしないきらいがある。
 パレスチナとイスラエル。。。互いにZero-Someを求めるしか知らない対立は和平交渉の根底すらなさない。しかも互いの代表者自身が自らの陣営の分裂の只中に引き裂かれている。和平交渉は仮初めの一時休戦でしかなく、袋小路に陥った臨戦体制と作戦の建て直しにしか用をなさない。妥協と見せかけた和平案はすべて敵をあざむく為の謀略に過ぎない。
 PLOアラファトがテーブルに着くことにより事態は改善したのか?否、交渉の常態化はアラファトの地位(権威)保持のための道具でしかない。アラファトの個人的野心の前にイスラエルは3歩進んで2歩下がることで常にパレスチナに譲歩を強いている。自身の地位にしがみつくアラファトはそれでも国際社会の承認を盾に、代表権を手離そうとはしない。イスラエルによるアラファトの監禁封鎖もヤラセ的な部分がある。アラファトが不人気になるとイスラエルが彼を攻撃し、パレスチナ市民がイスラエルの不当行為とアラファトの窮状にシンパライズして、彼の地位を安定させているのが事実だ。
 本書の感想に戻るが、その辺の根幹に関わる問題がパターン化の中に薄められ、楽観的(カナダ人らしいが、かなり米国贔屓でもある)な側面もあって、本書を物足らないものにしている。それと翻訳者の力量不足が本書の文章を読みづらいものにしている。逐語訳でしかないのだろう。

7/12 ジャコメッティの肖像 ジェイムズ・ロード 美術評論 ★★★

 本書はジャコメッテイの晩年にあたり、モデルを務めたロードの手になる彼自身の肖像画の制作風景を追ったもの。同じような著作にはすでに日本人哲学者矢内原伊作の手になる優れたドキュメントが過去に発表されているが、こちらは少し趣きが違う。矢内原は哲学者として真摯にジャコメッテイの前に立ち、ジャコメッティ創造の瞬間における彼の深淵を哲学しようとしてのに対して、米国の美術評論家であるロードは、同じジャコメッティのアトリエに立ちつつも、ジャコメッティの創造の秘密と創造の過程を探ろうとするかのようだ。それが決して悪い訳ではない。むしろ、俗物としてはそこにも非常に興味をそそられるのを抑える訳にはいかない。18日間に及ぶジャコメッティの闘いぶりを、デッサンの毎日の進展ぶりをカメラに収めることによってあますところなく暴き出したところに本書の価値はある。矢内原の場合のように深遠な感動は覚えないが、ドキュメントとしては非常に興味深くもある。
 20世紀最後の芸術家であった彼の、むしろ私生活を覗き見た感覚だ。商業主義塗れ、溺れたピカソと対立し、遊び=gameとして芸術を扱おうとしたシュルレアリスムと縁を断って、ジャコメッティは独り、出口のない終わりなき闘争に没頭した。ロードの俗物性が本書の特色をなしているのがおもしろい。

7/5 人間・この信じやすきもの T・ギロビッチ 心理学 ★★★★

 ≪人間はなぜ間違った信念をもってしまうのか―日常生活における人間の推論の欠陥≫という原題を持つ本書は、スタンフォード大学の心理学教授であるギロビッチ(東欧・ロシア系なんでしょうね)の手になる。本書のことはパウロスの著書の中で知ったのだが、パウロスが言わば数字や統計の中に潜むさまざまなエクリチュールを警告したのに対して、本書ではパウロス自身が述べていたように「数学と非数学的選択のせめぎ合い」の後者について心理学的立場から探りを入れたもの。言わば、外的因子である数字が如何にして内的因子である選択行為の結果として、自分自身を騙し、誤魔化すことに加担されているかを分析したものでもある。我々ひとりひとりが客観的であると信じる自己分析の中にどれだけの自己欺瞞(=自己の正当化)が含まれていることか!他人や社会に騙されるのではなく、自分自身でその中に飛び込んでしまう不用意さ、それは我々の不完全さであり、裏を返せば我々のひとつの能力の証左でもある。先入観や固定観念が我々にあらゆるデータや客観的事実を見誤らせ、決して意識されないその積み重ねが我々を間違った信念へと導いてゆく。
 しりぞけられたデータや仮説、考慮されなかったデータや仮設、一方の選択によって、検証不可能に陥ってしまったもう一方の選択結果は過小評価されるか、或いはまったく考慮されることもないままに生きるための慰めとして破棄される。悪意のない潜在意識的なデータの選択的利用や、伝聞に紛れ込む簡略化と強調による歪曲の積み重ね。。。めったにない、とされることの真の確率とは?めったにないはずのことが続けて起こるのは奇跡(運命的出来事)なのか、それともただの確率的偶然に過ぎないのか?
 それほど突飛な概念が繰り広げられる訳ではない。むしろ知っているようで非常に曖昧な捉え方をしている(心理学的には敢えて曖昧な状態に放置しているというべきか)問題に対して、充分に説得力のある論理を明かしてくれる。充分に懐疑主義者でない人々にとっては是非にも読まれるべき書物だろう。モチロン、わたしのように懐疑論者を自認する人間にとっても同じ罠は手足に絡みついて離れようとはしないのだけれど。(笑)

6/26 泥棒国家の完成 ベンジャミン・フルフォード 経済ジャーナリズム ★★★

 フルフォードの第三作。ここでも彼は饒舌に、これまで以上に快調に飛ばしてみせる。非常に明確であり、経済にまったく感心のない者でも面白く読み進めることができるだろう。だが、その快調さの裏でめたらやったら攻撃してみせる彼にもほころびが見える。いや、彼の指摘はいちいち正しい。ただ彼自身が多面攻撃を仕掛ける所為で、論理的には一貫性を欠く部分があるだけだ。特に自衛隊についての彼の見解は破綻しているとしか言いようがない。「自衛隊は明らかに軍隊だ。日本人の大半がそれをオモチャの軍隊としか見なさないのはオカシイ。」と指摘した後、「あんな脆弱なものは軍隊ではあり得ない。恥を知れ!」と言い、「自衛隊があんな風にだらしなくしか行動できないのは政府の所為だ。」と後を続けてゆく。半世紀以上、一度も実務経験のない装備だけ立派な自衛隊はオモチャの兵隊だし、戦争放棄の立場からすればそれも致し方ないとも言えるし、問題はそんなものに半世紀以上かけて膨大な国家予算をつぎ込んで役立たずの組織を作りあげてきたことのうちにある。だらしなく堡塁を守るしかできないのは政府の所為でもあるが、それ以上に自衛隊自身と、それを支える平和ボケした国民性の故でもある。(私自身の見解は別のところにある。)
 だがそれを別にすると「もはや日本がアジアの盟主の座をとうに下ろされているにも関わらず、政府も国民もそれに気づかない。」、メディアの非独立性を指摘したのち「メディアがオフィシャルな見解に従うのを公正だと勘違いしている。」、等など非常に心地よく(?)日本政府とそこに住まう我々国民を糾弾してくれる。高額の税金と、崩壊するしかない年金制度のマルチ商法まがいの先延ばし、さらには同じくマルチ商法としか言いようのない国債発行によって、在り金をむしり取られる国民の無能性を指摘した彼は、この国に対して絶対的に欠けているものは≪勇気≫だと何度も声高に叫ぶ。耳が痛くなるがそれこそが必要な痛みなのだ。ヘドの出るような現在の政府と、それを選出した国民自らが、その痛みを受け入れて自らを恥じ、そして勇気を以って立ち上がるのか、それとも先見の明ある者たちだけが絶望してこの国から逃げ出すに留まるのか。。。突きつけられた刃は鋭いが、それは我々を傷つける為ではなく、我々に立ち上がることを求めた教えなのだと気づくべきなのだが。。。

6/20 数学者が新聞を読むと ジョン・A・パウロス 数学 ★★

 パウロスの95年の著作。選挙予測記事の分析、湾岸戦争の死者の計測、株ディーラーの予測、料理レシピのカロリー計算、広告にしようされるさまざまなデータ、etc。。。新聞上やメディアに現れるさまざまな、ときに矛盾する数字の裏にある恣意性とそれによる誘導性。新聞の読者が騙されないために、そして自分自身が知らず知らずのうちにそのデータを使って他人を騙してしまわないように。。。
 いい加減な数字を提示されて尚、それが数字だからといって盲信しないように、我々にそんな数字の背後に隠された意味を解き明かしてくれる。ただ著者のように実際にさまざまなデータを拾い集めて検証する独自の能力を有さない我々一般人にとっては数字への不信感がますばかりだ。だが、それでは数字オンチのままに終ってしまう。それでは著者の思惑とは反対の方向だ。
 与えられた数字のその奥に存在する更なる真実を探りだすには、どうやら我々自身があらゆることに精通しなくてはならないようでもある。数学と非数学的な選択行為の出会いにこそすべての鍵がある。
 メディアで働く人々、そしてメディアを利用する人々にとっては知って置かなければならない接点の科学であろう。

6/12 数字オンチの諸君! ジョン・A・パウロス 数学 ★★★

 数学教授パウルスによるエッセイ(88年刊)。ここで問われる"数字オンチ"とは、算数のできない"無教養な"ヒトのことではない。抽象的な概念や文化芸術に関わることに関しては論理的に語ることができるヒトなのに、数字のこととなるとトントいい加減な話題を平気でしたり、或いは受け入れたりしてしまう人々(まさにワタシ)のことだ。
"数字オンチ"とは、まず数字の大きさを実体として把握できないヒトのことであり、6ケタ以上になるとパッと見て読めないヒトのことであり、すなわち10mX23が想像できないヒトのことだ。当然のように"東京ドームの大きさ"が把握できないヒトであり、"惑星間の距離"、"ダンボール箱に入るミカンの数"が想定できないヒトでもある。それは数字だけの問題に留まらないと著者は主張する。そんな連中の掲げる論理はどこかしらオカシイ、と。間違ってるという意味ではない、だが少なくとも常に怪しい部分が紛れ込む可能性を秘めていると。。。
 著作でいうと最新刊『天才数学者、株にハマる』の方が断然おもしろい。おなじ逸話もいくつか取り上げられてさえいる。だが、こちらが基礎篇なのはいうまでもない。423x28と聞かれて、2秒以内に答えることを要求されたら、正答できないのは言うまでもなく、パニックにさえ陥ってしまうアナタ・・・、ケタ数を間違えてしまうアナタ・・・、そんな人々には必読の書かも知れません。
(とっさに概算で大体の"解"がわかるヒトは読まなくていいでしょう。笑)

6/6 歴史のための弁明 マルク・ブロック 歴史学 ★★

 「パパ、歴史は何の役に立つのか教えてよ」、そう息子に問い掛けられた歴史学者ブロックが、歴史家の作業を見つめ直し、歴史とそれらを繋ぎ留めて来つづけた自らを弁明した書物。歴史を学ぶ者、また教え伝えようとする者、否応なしに歴史との関わりの中で生きている我々すべての人々が素直に耳を傾けて然るべき書物。どれだけ厳正を心掛け努力したところで、そもそもの資料に否応なく紛れ込む偽証や虚飾、誤謬。。。それらは意図されたものか否かは別として、偏見や政治的立場や時代性に捕われ、また研究する者自体をも捉えて離さない。公正さという天秤は可動式の支点によって支えられるしかなく、語られたもの、記述されたもの、如かして体験されたものすべての根底に不正確さが潜んでいることを受け入れて尚、それらと闘い、そこに可能な限りの真実を探し出そうとする歴史家たちの決意をブロックは謙虚に語っている。大上段に振りかざしたりしないその謙虚さが読む者の理解を深めてくれるだろう。深い愛情に満ちたそれは、歴史学そのものに対するささやかな擁護へと繋がってゆく。。。

5/18 嘘つき大統領のデタラメ経済 ポール・クルーグマン 経済学 ★★

 経済学者というものは皆、夢想家らしい。或いは理想主義とでも言うべきか。。。無論、彼らは当然のこととして例外なく理論家である。にも関わらず、夢想家であるように見える。
 本書は高名な経済学者であるクルーグマンが書いた経済コラム集である。(タイトルから容易に想像できるように十二分に政治的でもあるが。)ブッシュ政権を徹底的にこき下ろし、ごまかしのヴェールを次々に剥ぎ取ってゆく。。。まさに小泉首相が、小型ブッシュでしかないことがハッキリと判ろうというものだ。公約を忘れ、問題をまったく別の政策に摩り替え、本来の目的をひた隠しにして具にもつかない大義名分を掲げたと思えば、次の瞬間には言い逃れ、懐疑の質問をそらし、作り笑顔でナショナリズムに訴え、国民の団結や感情に微妙に(笑)ひっかかりさえすれば論理の矛盾などお構いなし。。。要領の得ないキャッチコピー戦略をもっとも高度な戦略だと自負している。。。
 まったく以って、胸のすく鋭いツッコミがあちこちに散見される。。。が、しかし、総じておもしろくないのだ。ひとつには聞きなれない人名やなんかが溢れていて、わかり辛い部分が多いのもある。(注釈がほとんどない上、時事的なエッセイが多少とも古くなると如何に判り難いかということでもある。)彼の譬え方がジョン・アレン・パウロスに比するとジョークの域を越えないというのもあるかも知れない。
 さて、さらに彼は最終章でグローバリゼーション信奉者であることを躊躇わず告白する。現実の政治に対して、これだけの幻滅を抱えつつ、である。よりよい政治家が現れ、よりよい取り巻きがそのシンクタンクを形成すれば、世界はよくなるはずだという・・・それは信念なのか?それとも経済理論の帰結なのか?
 いくつか興味深い示唆もないではないが、かなり辛抱のいる本でもある。

4/25 旧約聖書 ⅩⅡ 《ヨブ記・箴言》 旧約聖書翻訳委員会 聖書 評価せず

 旧約聖書翻訳委員会による出版の最終巻。出来る限り、教条主義的翻訳に陥らないように歴史学的聖書研究の立場から翻訳・注釈された本書の価値は高いものとなったと言える。
 《ヨブ記》は高潔なヨブに対する、不条理で過酷な神の試練と、その中で惑い、嘆きつつ己が信仰と真正面から向き合おうとする彼の姿がドラマティックに描かれる。度重なる試練の中でいつしか神への疑念を抱き始めたヨブを負い打つかのように、ラビたちが代わる代わる彼の罪を啓発しようとする対話は聖書中でも稀有な劇性をもって読む者を引き込む。だが、三幕モノの悲劇は、神の登場とその開示によって意外にもややカタルシスを殺がれてしまう。それはギリシア悲劇作家エウリピデスの得意としたデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)の登場にも似ている。
 《箴言》は翻訳された日本語的語幹では、アフォリズムのようなものを思い浮かべがちだが、実際にはそうではなくて、警句というよりは規範(道徳的規範)を示したものとなっている。今日的モラルと比較する訳にはいかないが、日常における道徳的規範を詞に表したもの。

4/18 天才数学者、株にハマる ジョン・A・パウロス 数学 ★★★

 「数字オンチのための投資の考え方」を副題とするこの本。とにかく面白い!内容的には副題にも表れているが≪投資と欲望の心理学≫と言ってもいいだろう。投資を勧める本でもなく、そのテクニカル分析論や、ファンダメンタルに構図を解説したものでもない。エッセイのようでもあり、それでいてキチンとした株式投機の全体像を可能な限りハッキリと(笑)提示してくれる。著者は数学者としてさまざまな著書をすでに公表しているが、専門的な知識などいらないのは、副題の通りだ。モチロン、まったく数式や専門用語が出て来ない訳ではない。或る部分は理解できないまま流し読みしたと言えないこともない。だが、そんなことは本書の本論ではない。この面白みはそんなことでは失われないだろう。詳しくは本書を直接読んで貰うのが一番いい。さまざまな例え話(小噺のようでもある)を引っ張り出してし数学的概念を素人にも判りやすく解説してくれる。わたしの個人的な引越しやなんかでブツ切りにしか読めなかったが、機会を見つけてもう一度、ノート片手に読み直してみたい。それほどまでに株式投資だけに関わらず、人生の様々なシチュエーションに有用な機知がちりばめられている。それは今日の不確定要素の多いビジネス構造と、何よりも複雑系と表現されていい人生の構図をも垣間見せてくれることだろう。他のパウロスの著書もぜひ挑戦してみたい。

3/20 スペイン・ユダヤ民族史 近藤仁史 歴史 マイナス評価

 副題は「寛容から不寛容へいたる道」。日本人でありながら、現在スペインの大学で教鞭をとる社会経済学者の手になるものだが、結論から言えば、実にお粗末な著書でしかなく、おもしろくもなんともない。経済学者の著述した歴史学書はこれまでにもいくつか読んだことがあるが、勿論そのすべてが悪い訳ではないとは言え、ある種の偏向が見られるのも事実だ。まずは細かな数字の分析に主眼を置くあまり、歴史の大局を見失いがちであるという点、第二に歴史の動因を経済的観点から捉えるのもいいが、問題は歴史を動かしてゆく、もうひとつのパースペクティブである《個人》や《偶発性》が軽んじられる傾向にあるということだ。《顔のない歴史》が著述されやすいと言っていい。しかも本書は、大抵の場合、スペインのユダヤ民族史と言えば《レコンキスタ》を始点に《異端審問》を終点に描き出されてきたものを、古代に遡ってユダヤ人が最初にイベリア半島に上陸した時点から書き起こそうという壮大な主題を持っている。だからこそわたしは本書を読もうと思ったのだが、如何せん、まったく《ユダヤ》という亜流の少数民族に関する歴史的資料がイベリア半島にほとんどなく、すべてが推測と憶測の積み重ねでしかない。しかも本書は講義・講座を目的に書かれたのだろうか、非常に回りくどい(流麗な?)口述を感じさせられもする。そして更に具合の悪いことに著者はスペイン経済学者と言っても、どうやらイスラームにも、肝心のユダヤ問題についても決っして明るくないようだ。そうなると資料もない《資料》に基づき、凡庸な想像力と凡庸な経済力学を用いて解析される《スペイン・ユダヤ民族史》しか出て来ないことになる。ということで本書の評価はとびきり辛くならざるを得ない。金返せ。。。。(笑)

3/1 原始キリスト教 マルセル・シモン 宗教史 ★★★

 文庫クセジュ・シリーズの一冊。イエスの死と復活の直後からいわゆる十二使徒たちの活動、パウロのローマ宣教へと至る道程の検証を試みたもの。だが、歴史的資料が一切ない現実を前に、著者は「使徒行伝」と「パウロ書簡」を批判的に読み解く中で、歴史を再構成してゆく。悪くはないが、山川出版社の『キリスト教史 Ⅰ』の方がやや上か。
 ユダヤ人であり、ユダヤ教徒であったイエスの"終末思想"と彼を取り巻く"メシア思想"は、決して特別なものではなく、当時のユダヤ教内部にあった、≪サドカイ派≫≪パリサイ派≫や≪エッセネ派≫に、加えて新たな分派≪ユダヤ教ナザレ派(=キリスト派)≫として出発した筈であったものが、異邦人への宣教過程を通じて、急速に分裂、対立する中で、ユダヤ教からの独立したキリスト教となる過程を描く。ユダヤ教とユダヤ民族の中に留まろうとするヘブリスト(ヘブライ人)キリスト派と、異邦人への積極的宣教を通じて、民族宗教から脱却しようとするヘレニスト(ギリシア文化に感化された人々)との対立は、だが当初からその差を明確にしていた訳ではない。ユダヤ民族への同化主義を前提として改宗を認めようとするヘブリストと、割礼やモーセ律法の遵守といった規制を外して、広く世界を統べる一神教として宣教活動を続けようとするヘレニストの対立の構図でもある。
 だが、ローマ教会設立と今日のキリスト教を導き、新約聖書にその名を馳せるパウロ(ヘレニスト=ユダヤ人)ですら、あくまでもイェルサレム派(ヘブリスト)との分裂を望まず、どうにかして"キリスト教"の統一を守ろうと足掻いたことが見えてくる。もしもそのまま歴史が平穏に推移していたなら、或いは≪ユダヤ教キリスト派≫と≪キリスト教≫は東西ローマ教皇のように分裂を迎えていたかも知れない。だが、本書の特徴は武装闘争の道を選んだイェルサレムのユダヤ民族(各派)が紀元70年、ローマ帝国軍によって殲滅させられたことによってこそ、本来の主流派≪ユダヤ教キリスト派≫は壊滅し、寧ろ位階的にはイェルサレムに対して下位にあった筈の≪ヘレニスト=キリスト教ローマ支部≫のみが生延びることに繋がったのだと指摘する点にある。確かに、イェルサレム陥落により、ユダヤ教自体も≪離散=ディアスポラ派=バビロニアのユダヤ教会≫によって、壊滅を免れ得たことを考え合わせる時、その指摘の確かさを充分に理解することが出来よう。
 だとすれば、ユダヤ教キリスト派が壊滅してしまったが故にこそ、次代ラテン化する中で、原始キリスト教と訣別し、独自の宗教として変容を遂げた≪ローマ=キリスト教≫が≪ユダヤ教≫迫害をなし得たという事実もまた導かれ得るであろうことを考えるとき、近親憎悪の凄まじさにふと思い至るのはわたしだけであろうか?

2/25 カリブからの問い ≪世界歴史選書≫ 浜忠雄 歴史

 2004年2月現在、ハイチはアリスティッド大統領の退陣を要求する野党ら反政府勢力と大統領派、そしてそれぞれの武装民兵組織が乱立して内戦状況下にある。それは本書が出版された昨年11月の時点でも、拠点制圧という事態を除けばそう変わらなかったし、予想可能な事態であった。
 然るに≪ハイチ革命と近代世界≫という副題を持つ本書タイトル『カリブからの問い』は、現下の情勢に対して何ら答えようとも、問いかけようともしない。。。
 寧ろ、タイトルとは正反対に『カリブから・・・』ではなく、『フランス本国から・・・』見た≪人権宣言≫から≪ハイチ革命≫を俯瞰したに過ぎない。特に前半は一昨年前、平野千果子が『フランス植民地主義の歴史』で明確に辿ってみせたものをなぞるにしか過ぎない。そして後半になってハイチの歴史を辿ってゆくかと思いきや、概略にも当らない便覧をつけてみせるだけだ。しかも分断された東半分を占めるドミニカ共和国の歴史を完全に無視して、対米関係について少し触れる程度でしかない。
 また著者はよほど芸術に造詣のあるフランス史研究家だと見えて、あちらこちらでハイチ絵画を引き合いに出して、歴史的出来事に関する解説を披露してくれるが、それも人々の記憶を問題とするのか、史的現実を問題とするのかによって評価が別れるしかないだろう。 ハイチに関する資料が圧倒的に欠けている現況ではこんなものに頼るしかないのか?!
 どんな問いかけも発せられることもなく、況してや、現在へと繋がらない歴史学などというものに意味はない。今が見えて来ない、今を垣間見せない本書に対するわたしの評価は限りなく低い。黒人初の独立国家であり、奴隷制廃止を以ってその独立を勝ち取った栄光のハイチは、その革新性の故に、白人諸外国から封鎖され、放置されるがままに置かれて貧困に喘いでいる。勝ち取った筈の独立を宗主国フランスへの賠償金支払いという立場で逆転させてしまった時点から、ハイチの貧困は運命づけられてしまった。それは自給制を完全に無視した植民地経済基盤のモノカルチャーによる国家破綻であり、経済的封鎖が開かれた社会と文化を導かないことの証左でもある。今尚、国際社会は貧困と暴徒の国ハイチを出来る限り遠ざけ、口先の介入と支持を繰り返すばかりで、真に彼らの中に身を置いてみようとはしない。自分たちの定規を押し当てるだけではなく、彼らの歴史と文化への深い理解と共感、そして広く彼ら国民全体との対話をなくして、国際社会の高圧的介入は何ら事態を好転させはしないだろう。

2/22 ユダヤ教史 石田友雄 宗教史 ★★★

 山川出版社の世界宗教史叢書シリーズの一冊。
 否応なく我々が捉われてしまっているキリスト教的史観と偏見から自由な視点で、世界最古の一神教であり(アメン・ラーを除く)、その後にイエス・キリストやムハンマドを導くもとになったユダヤ教の歴史を通して、世界史をなぞり直したもの。ユダヤ人が何故かくも差別と迫害を受けつつ、世界中に拡散(離散)し、且つ今日、国際社会に対して、強大なその影響力を持つに至ったかをユダヤ教の歴史に焦点を絞り込んで著述した価値ある一冊。
 見過ごされがちな歴史としては、ローマ帝国が迫害を加えたのは決してキリスト教徒だけではなく、ユダヤ教徒に対してもより強硬なものであったということ。その中でキリスト教会が寧ろローマへの擦り寄りと浸透を目指したのに対して、彼らがユダヤ王国の再生と独立を目指して武力闘争を繰り返したこと、その報復としてのイェルサレム壊滅とディアスポラを招いたことはまさに見過ごされがちだろう。ローマの国教となったキリスト教会はさらにユダヤ敵視を募らせ、それが近代史におけるポグロムとアウシュヴィッツへと繋がってゆく過程を説明してた地点を以って本書は終わる。
 これまでに読んだユダヤ人史家(アブラム・レオン、シーセル・ロス、マックス・ディモンド、ハイコ・ハウマン)によるユダヤの歴史とは当然のように異なり、聖書の記述に対する批判的歴史学の立場から観たユダヤ教史として充分におもしろい。

2/12 ナグ・ハマディ文書 Ⅱ 福音書 聖書 聖書 評価せず

 ナグ・ハマディ文書とは1945年、エジプトのナグ・ハマディという町で発見されたパピルスのことである。その文書は、それまでに知られていなかった新約聖書の外典(教会によって異端と指定されたもの)と、原始キリスト教最大の異端派グノーシス派の教義を記したものであった。中でも世界中を賑わしたのは≪トマスによる福音書≫で、四大福音書のどれにも含まれていないイエス自身の言葉があるという触れ込みだった。実際には或る種のバリエーションの範囲に収まるものが大半で殊更、特質性のある言葉は含まれていなかったし、その成立年代も明らかに四大福音書より後代のものであった。その辺の事情とほぼ同時期に発見された死海文書もよく似ている。
 それはともかく様々に名付けられた他の文書はそのテキストの不完全さや欠落から多くは意味不明もものが多い。昔この手の『ヘルメス文書』を読んだことがあるが、グノーシス主義と呼ばれる新プラトン主義に大きく影響された哲学的体系書であると言えば判り易いか。ただ内容的にはほとんど興味をそそられることはない。全4巻の書物であるが、ちょっと他には触手が伸びない感じだ。それでもという向きには前掲の『ヘルメス文書』荒井献・柴田有訳の方をお薦めする。(廃刊かも)

1/31 『キリスト教史 Ⅰ』 半田元夫・今野國雄 宗教 ★★★★★

 とにかくもおろしろい。まず断って置くが、本書はキリスト教徒の為の本ではない。寧ろ、一般のキリスト教徒には読むに耐えない代物ではないだろうか?歴史学的検証の立場から書かれた本書はイエスの存在自体に纏わる疑義なども取り上げ、原始キリスト教の発生、ローマ帝国による迫害の実体まで、キリスト教会側の資料によらず、また懐疑的・批判的に多くの資料を読み解く作業を通じて、キリスト教史を三巻に分けて記述したものの第一巻である。また本シリーズが、ユダヤ教史やイスラーム、ヒンズー、小乗仏教、大乗仏教、など各宗教史を収めた≪世界宗教史叢書 全12巻≫中のものであることからもその歴史学的立場は明らかとも言えよう。
 もっともまったく不満がない訳ではない。五賢帝のマルクス=アウレリウス帝については、そのキリスト教迫害は、彼の真面目な性格上、ローマと伝統を重視した結果であり、あくまでも部分的な突出した出来事に過ぎないと庇う姿勢をみせる一方、軍人上がりのデキウス帝はローマの団結と統一を護る為に立ち上がったのだと考察してみせる。それらを否定する根拠もないけれど、アウレリウスについてはキリスト教徒に寛容な皇帝が4代も続き、自由な活動が許されてきたが故に、それこそ教会指導者の方が思い上がり、帝国とその守護神に対して、対決の姿勢を構えたが為の社会不安・動乱に対する当然の弾圧とみることも出来ようし、クーデターによる言わば成り上がりのデキウスについては、自身が正統なローマの継承者であることを誇示する為の、ローマ守護神への忠誠を通しての王権の正統性誇示の為に、決してキリスト教徒への憎しみからではなく、迫害に至ったとみることも出来るだろう。当然、その辺りの解釈・見解については著者の自由だろうが、どうもせっかく様々な資料を開示してみせるのにも拘わらず、結局のところは大胆な考察を退け、まさに日本人的な中庸の推論ばかり選択してみせる傾向に時として不満を感ずるのは否めない。
 ユダヤ教との兄弟対立の構図から、さまざまに迫害を受けながらもローマ帝国への擦り寄りにより、その庇護を受けようと目論んできた教会(主に司教座高僧たち)が、その過程で否応なく≪世俗権力化≫してゆくのと、その緩やかな放任主義の中で、次第にローマから遠く離れた辺境地への布教が広まるうち、税制や国家による収奪を契機として、帝国に対する反旗としての新しい宗教=≪抵抗の為のキリスト教≫が貧困層の信者拡大と原理主義化を招き、教会指導者間の神学的分裂や、司教座の上位争い的分裂とは別に、いわゆる教会運営サイドと民衆信者の間に大きな溝が生まれてゆく過程をみてとることが出来る。その対立の奔流が数世紀後にプロテスタンティズムを生み出すのだという大局的な史観を明らかであるのに、それに対する言及がないのも、踏み込みの浅さを忍ばせる観がある。無論、プロテスタントの展開については本巻ではなく、第二巻に譲られるのだが、この教会初期の時点からその萌芽をすでに宿していたのだと結論すべきだろう。
 また帝国の分裂後、西ローマ帝国の滅亡(皇帝の廃位)によってこそ、ローマ教皇は帝国権威の真の継承者として、寧ろ勢力拡大の契機と、権威の確立を果たし得た、というのは、かつて学んだ世界史では指摘されなかった観点であろう。またその後の布教活動の拡大と、血で血を洗う中世教会史の暗部は言うまでもなく、目まぐるしいばかりだ。教義問答などと言いつつ、その実、神学的対立なども教会上層部による既得権保持のための道具でしかなく、数多くの偽書まで生み出すに至る。そんな状況下に次々と断罪されてゆく異端派は、原点回帰を目指すキリスト教原理主義運動や反教会主義運動であると言える。目をえぐり出して死に至らしめる刑罰や火炙りの磔刑など、弾圧の凄まじさは筆致に尽くしがたいものがある。
 我々日本人は否応なく、欧米的な文化・価値観の中で生きている、それは即ち、キリスト教的価値観そのものの踏襲に他ならない。果たして仏教的価値観とは、と問われた時、その答えに窮するほどに。。。だからこそ、我々はそれがいつ、どこから、誰によって齎されたのか、その源泉を探る、或いは知っておくべきではなかろうか?決してキリスト教に学ぶというような姿勢ではなく、キリスト教とその価値観を検証し、それらを外側から原寸大で把握するためにこそ。。。

1/18 『新約聖書 Ⅴ <パウロの名による書簡・公同書簡・ヨハネ黙示録>』 新約聖書翻訳委員会 聖書 評価せず

 <パウロの名による書簡>では、パウロの権威の下に、まさにパウロ的なロジックを展開して著者の考えるキリスト者的生き方を開示し、訓戒と励ましを与えているが、そこには詭弁や誤謬すら入り混じっているのを見て取ることができるだろう。そして割礼とユダヤ全体に対するはっきりとした敵意を読み取ることができる。
 <公同書簡>にはパウロのものとされてきた二つの書簡に加え、ヤコブ、ペトロ、ユダ(イスカリオテのユダとは別人)それぞれの名による書簡が収められている。その中でも本来もっとも読む者の興味を惹くのが、イエスの使徒であったペトロの書簡であるはずなのだが、残念ながら、そこでは原始キリスト教の非パウロ的な側面を露わにするような教義が語られることはなく、ごく一般的な迫害に対する受態と激励の言葉が連ねられているに過ぎない。
 勿論、本巻の白眉は<ヨハネ黙示録>にある。だが、この書の非論理的構造には驚かされる他ない。序盤はごく通常の、ヨハネから七つの教会に宛てた戒めと激励の書簡に過ぎない。だが突如として終末論の預言書として立ち顕れ、ヨハネが幻視を語ってゆく。しかも黙示録的終末の様相は何故か七つの喇叭と、同じく七つ平鉢によって二度繰り返され、しかも脈絡を乱すかのように千年王国と最終的終末論が再び預言される段になると何かなんだか判らなくなってくる。翻訳委員会によってもその矛盾や乱脈ぶりは都度指摘されるが、それにしてもまさに異端の書とでも呼ぶべき本書が、外典とはされずに新約聖書中に収められていること自体に不可思議を感じずにはいられない。数字へのこだわりや、暗喩的な表現など、少なくとも筆致的には異端の宗派グノーシス派の影響下にあるのではないかとさえ推測せざるを得ない。そのおどろおどろしい終末論は、容易にギリシア神話の冥府を想わせる地獄絵図を背景としながらも大天使と主による裁き(厳罰)の形を取って、読む者を脅しかける構成となっている。またイエスの名は数箇所で言及されるものの、無個性というか、没個性であって、慈愛に満ちた仲介者としての立場にはなく、寧ろ無機質な傍観者ですらある。惨憺たる壊滅を蒙ったはずの不敬の徒が悪魔と共に再び立ち上がったかと思うと、異民族へも復活の扉は開かれていた筈であるにも関わらず、新しきイェルサレムの門にはユダヤ十二民族の名が刻まれているなどとも語ってゆく。壊滅の後、この世の終末はさらに千年先延ばしされ、何故か千年後に再び悪魔が解き放たれ、最終的には未来永劫に地獄へと突き落とされることになる、と預言するのだ。 しかもこれだけ矛盾だらけの書物であるにも関わらず、著者はこれを一言一句加筆したり、削除したりしてはならない(そうした者には天罰が下される)と警告して締め括っている。新約聖書の成立に関わる混乱と作為の秘められた歴史がきっとその底に蠢いているに違いないのだが、それを知ることは現在では不可能に近い。いずれ原始キリスト教の成立史というようなものにも当たってみたい。

1/14 『新約聖書 Ⅳ <パウロ書簡>』 新約聖書翻訳委員会 聖書 評価せず

 一巻本の新約聖書の構成から言えば、本書簡集は四つの福音書の後に続いているが、実際にはもっとも初期のキリスト教文書であると言われている。その時代は紀元55-56年頃ではないかと推測されている。(福音書は紀元68~70年以降、それらに遡るイエスの刑死は紀元32年頃と推測される)
 キリスト自身が選んだという十二使徒の中では、ペトロと呼ばれるシモンがその後継指名を受けて、イエス復活後のキリスト教の布教活動を繰り広げてゆくことになるが、それはユダヤ人社会の中に限定されていたと言っていい。(離散した各地のユダヤ人寄留地への布教はあったようだ。)そんな中、当時ユダヤ教原理主義者としてキリスト教徒を摘発・迫害していたパウロが、ある日キリスト教へ劇的な改心をみせ、その彼こそが今日的なキリスト教神学を導くことになる。そのパウロが異邦人(ギリシア、ローマ世界)への布教活動を通じて、創り上げたのが後のローマ・キリスト教会の礎となる。一方のペトロはイェルサレムで初代教皇の冠を受けるが、神学的な文書はほとんど失われてしまったのか、残っていないようだ。
 さて、福音書などを読む限りでは、イエス自身はさほど独自の教義と言えるようなものを伝えている訳ではない。<ルカ伝>などでは喩え話の多用があるが、そのどこまでがイエス本人の説話かは不明だ。また<ヨハネ伝>では慈愛が前面に押し出されているが、それを遡る<マルコ伝>や<マタイ伝>では、『モーセの原点に還れ』、『典礼や祭儀、禁忌のみに甘んじるな』、『不信心を悔い改めよ』と唱える程度でしかない。だがそれを遡るパウロの書簡を読むと、彼(=元・反キリスト者であるユダヤ人パウロ)の改宗と宣教によってこそ、現キリスト教の主たるロジックが完成されてきたであろうことが判る。
 書簡は宛先、目的によってもそれぞれに異なる趣きをみせているが、<ローマ人への手紙>では彼の複雑な心境と立場が明確となっている。先にも述べたように、改宗したとは言え、元々自ら反キリスト者であったユダヤ人パウロにとっては、対立し、もっとも激しい弾圧を加えてくるとは言え、まさかユダヤ教=悪などとは到底主張し得ない複雑な心境と立場にあった。だがそれでも尚、ユダヤ教会に対して、キリストの優位性(合律法性)を訴えんが為に、彼は様々なロジックを展開してみせる。旧約聖書(モーセ律法)を肯定し、しかも神(ヤハウェ)が最初にユダヤ民族の前に降り立った(=祝福されたユダヤ)民族であることを否定したりせずに、神の愛は肉=血(民族)に因るのではなく、義=信仰に拠って、異民族の上にも舞い降りるのだと主張する。そして神の愛を顕現化する為に、イエスが肉として立ち、人々の不信心の故に『死んでくださり(贖罪)』、再び甦ることで、古き律法(ユダヤ民族のみ)から自由になり、新しき律法(全民族)へと書き換えられたのだと説く。また異邦人への宣教を使命とした彼は、神の恩寵は業(=行い)によってではなく、義(=信仰)によって認められるのだ、何故ならば無罪たる完璧な人間(=肉)など存在し得ない以上(完璧であるなどと主張すること自体が罪として告発される)、人間は皆何らかの罪を犯して存在するのであり、≪業≫によって神の前に証し立てることの出来る人間など何処にもいないからである。(原罪説)従って、神の前の証しは≪義≫によって立てられるしかなく、(勿論、業は可能な限りにおいて戒められるべきではあるが)割礼や、禁忌の遵守度によって左右されるようなものではない、と異民族への布教に対し充分配慮をしたところを述べる。キリスト教をユダヤの専属物とせず、世界宗教へと拡大しようとした彼独自の神学観が著されていると言っていい。さらにローマ領の通過支援を目的として書かれた本書面では、帝国支配層に対する配慮からか、世俗の権威とて神によらないものはないのだからと、世俗の権威への服従をも諭している現実主義的な点も興味深い。
 だが次に掲げられた<コリント人への手紙>では、すでに顕在化していたキリスト教内部の分裂を憂い、謙虚さと寛容さを訴えつつ、布教の広がりと共に変容してゆくキリスト教をなんとか原点(あくまで彼独自のロジック)に留めようと、真摯に理解を求める努力を惜しまない姿勢をみせる一方、≪甦り≫を巡る神学的疑義については、キリスト教の真正を根底から覆すものとして断固許そうとはしない頑迷な立場を賢護しているのも見逃せない。また女性への寛容さを示したイエスによらず、その後の教会が女性蔑視を貫いたのも時代性とは言え、彼の本書面での規範によっていると思われる。(時代や風習への現実主義的対応が彼にそれを選択させたのか?!)
 <コリント人への第二の手紙>では、すでにイェルサレムへの献金を巡って騒動が起こり、それを謙虚さの教えと共に、諭そうとするパウロの姿があるし、また<ガラテア人への手紙>や<フィリピ人への手紙>では、割礼を施してユダヤ的キリスト教徒へ近づこうとする異邦人たちを戒めることに腐心しているが、それはすでにイェルサレムに残りユダヤ的キリスト教を説くペトロとの対立が決定的なものになってしまっていることを明確に示唆している。
 余談になるが、当然のことながらパウロがこれらの書簡を書いた時点では、新約聖書なるものはその概念すらなく、聖書と言えば当然のこととして旧約聖書を示すばかりであったにも関わらず、その後パウロやペトロすら預かり知らぬ後代になって、新約聖書などという経典を創り上げたこと自体がキリスト教の本質的変容を物語っていると言っていいだろう。またそういった経緯が、新約聖書全体を通じてイエスによる後継指名を受けたイェルサレムの十二使徒ペトロではなく、生前のキリストに一度も会ったことのない宣教師パウロのロジックを中心として成立していることにも関係していると見るべきだろう。

1/11 『新約聖書 Ⅲ <ヨハネ文書>』 新約聖書翻訳委員会 聖書 評価せず

 <ヨハネによる福音書>と3通の<ヨハネの手紙>から構成される本書だが、その決定的特徴はやはり<福音書>にある。それは≪愛≫を執拗なまでに説くことで、これまでのどの福音書とも大きく異なる。これは後にみるパウロに大きく影響された部分であろうと考えられるが、慈愛に満ちたイエス・キリスト像を描き、慈愛を説き、慈愛を戒律として掲げる≪神の顕現≫≪神の子≫としてのキリスト像を創り上げている。そして旧約聖書の様々な場所からの引用を繋ぎ合わせ、あちこちに分散させているのも、ヨハネとされる著者の特徴と言えるし、ここに至ってユダヤ民族そのものがもはや敵対するものとして明確に示されていると言ってよい。他には、<ルカ伝>に続いて、母マリアがイエスの弟子であるかのように足下にひれ伏し、姦淫の罪を犯した女の挿話を代表とするように≪罪の赦し≫が何度も取り沙汰され、後のキリストの教典となる儀式の起源が生前のイエスの言動のうちに求められる(後代から伝説への挿入行為)。そして復活したイエスは、初代ローマ教皇を名乗ったペトロを指名して後継を託す設定となっている。
 4つの福音書のうち、もっとも成立の遅いとされる<ルカ伝>と<ヨハネ伝>のふたつを以って、今日のイエス・キリスト神話は完結する。それが史実としての証しからは遠く隔たったものに他ならないのは今日、誰が読んでも明らかであるはずだ。だが、歴史はこの後、今日的視点からすれば明らかに迷信的な方向へと大きく舵を取ってゆくことになる。それはユダヤ教との対立軸によってであり、異邦人への布教や、ローマ帝国の庇護に取り入る過程で促進された側面でもあり、また内部に生じた宗派争い(神学的解釈)によってでもある。人間イエスの主張は大きく歪められ、≪神の子イエス≫と≪教会権威≫に疑いを差し挟むことが許されざる大罪とされてしまったからでもあった。
 疑念を問い質すことが禁じられるとき、真実は掻き消されてしまうしかないのだろう。4つの福音書を並べ読んで、その変遷を追う中で見えてくるのは、まさにユダヤ人イエスが、豪奢な典礼主義と、表層的な戒律主義に陥ったユダヤ教会の、疑義を差し挟むことを許さない権威主義的姿勢を告発するために立ったはずであったのにということだろう。

1/7 『新約聖書 Ⅱ <ルカ文書>』 新約聖書翻訳委員会 聖書 評価せず

 <ルカによる福音書>、<使徒行伝>からなる本書に至って、キリストの神話化が完成すると言っていいだろう。<マルコ伝>でも<マタイ伝>でも触れられることのなかったマリア処女懐胎説を取り上げるなど、洗礼者ヨハネとイエスの生誕そのものから神の祝福と奇跡のさなかにあったとして語られてゆく。イエスを"主"、"神の子"として慈愛に満ちた姿で描き上げたのも<ルカ伝>の特色だろう。
 <十二使徒伝>とされることも多い<使徒行伝>は、しかしその大半が改宗者パウロの物語となっているが、ここに来て初めて、イエスの教えが非ユダヤ人である異邦人に対して開始される様子が語られる。イエス自身は確かに義き異邦人をも癒したが、寧ろ『異邦人には注意せよ』と、あくまでユダヤ人とユダヤ教(旧約聖書)に留まる立場を貫いている。だが、イエスの死と復活の後、十二使徒たちの前に現れたイエスが異邦人への伝播を指示したということになっている。無論、現実にはユダヤ原理的キリスト教徒と、新たなキリスト主義派を名乗った信徒たちの分裂に加え、保守勢力であるユダヤ教からも拒否された彼らが、次第に寧ろ異邦人を中心とするキリスト教の創設を果たしていったことは間違いないところだ。
 元来、キリスト教徒迫害者であったパウロの劇的な改宗と転身の次第が語られる<使徒行伝>は、その辺の事情を言外に明示していると言っていいだろう。ユダヤ人が傍若無人に描かれるのと対照的にローマの所領支配者や百人隊長、千人隊長といった武官・高官が好意的に描かれ、帝国のカエサル(支配者)までもが、パウロの義を疑わず、敬意を払わんばかりだ。本家ユダヤ勢力からの攻撃に対してローマ帝国に対して擦り寄ろう、ローマの正義のうちに庇護を求めよう、という姿勢が端的に顕われていると言うべきだろう。
 だがここでもまだ十字架は何ら特別な標章として意味を持つことはないし(一切、言及されていない)、マリア(ヘブライ名マリヤム)もいまだ聖母神話とは無縁だ。

1/3 『新約聖書 Ⅰ <マルコによる福音書・マタイによる福音書>』 新約聖書翻訳委員会 聖書 評価せず

 『新約聖書』と言われているものは、イエスの死から40~50年後(AD.70-80)に成立した。読んだことのない向きには勘違いをされている方も多いが、ここに名前のあるマルコやマタイというのは聖人ではなく、イエスの言行録を採譜(主にギリシア語への翻訳)した人の名前でしかない。そして新約聖書の冒頭に並ぶ<マルコによる・・・><マタイ・・・><ルカ・・・><ヨハネ・・・>という≪福音書≫の中身は基本的には同じものが続く。勿論、それぞれに個性はあって、後代に至るに従って、次第に文章も磨かれてゆくと共に、多くの神話伝承化が含まれてゆく。
 先にギリシア語への翻訳と書いたが、そもそもイエスとその弟子である十二使徒がユダヤ人である以上、口承にせよ、文献にせよ、それらは本来古代ヘブライ語であったものを、ローマ帝国の中で次第に非ユダヤ化が進む中で(実際にはユダヤ・キリスト教と非ユダヤのキリスト教とに分裂していた)、帝国の迫害から逃れんとする異民族を中心とした非ユダヤのキリスト教徒の手によって、帝国の理解と庇護を得んとした活動の一部であったと言われている。(ラテン語への翻訳は2,3世紀まで待たねばならない。)
 さて、ユダヤ教徒イエスは、戒律と格式に囚われ、ユダヤ上流階級の専有物であるかのように奢侈に溺れていたユダヤ教会とラビたちを非難し、モーセの原点に立ち帰れと主張しつつ、さまざまな奇跡を行う。病人を癒し、聾唖者を癒し、死人を生き返らせ、水の上を歩く。イエスの実質活動期間は2年足らずだと言われているが、実際もっとも初期とされるマルコ伝では、イエスはいくつかの奇跡を起し、いくつかの忠告を果たしたのち、あっけなくユダの裏切りによって捕縛され、磔刑に処される。
 <マルコ伝>ではイエスは敢えて"人の子"と記されているが、<マタイ伝>になると"主"であるとか、"神の子"という表現が入り混じり始める。また<マルコ伝>ではイエスは激昂し易い攻撃的な部分を持つ人物として描かれているが、<マタイ伝>になると少しずつ柔和な態度を見せはじめている。更に人間イエスの諭しは前後の文脈の不足もあって、状況の把握次第では如何様にも解釈できる部分も多く、ときにはあからさまに矛盾することを言いもする。だが、当新約聖書翻訳委員会の注釈では(旧約聖書翻訳委員会も)それらの部分をきちんと明示して、<難解>であるとか、<解釈されない>と、指摘しており、都合のよい勝手な解釈を押し付けてくるキリスト協会版と異なり、好感の持てる部分でもある。

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2003年度 読書記録と批評 [読書記録]



読後感想 2003年版 (当時のものをそのまま再録) ※日付は降順






日付 書名 著者 ジャンル お奨め度


12/28 グローバリゼーションとはなにか  ウェイン・エルウッド 経済 ★★★

 経済ジャーナリストである著者がグローバリゼーションの本質を暴かんとした『The No-Nonsense Guide To Globalization(2001)』の全訳。世界のあらゆる国家の労働市民の多くが反対を表明し、デモを行い、国家や国際会議に再考を突きつけているにも関わらず、いまだ日本国内においては市民の間に議論されることの少ないグローバリゼーション。。。日本のメディアなどでは本質を覆い隠さんとしてか、環境保護の側面だけが強調されている節がある。輸入知識に頼る経済学者の多くは資本主義の行き着く果てとしての論理的必然性に捕われてか、いまだにグローバリゼーション擁護論を説く者が多い。だがそれは喩え不可逆な動きであろうとも、寧ろそれが故にどうあっても防がねばならない凋落へのシナリオでしかない。国境に縛られない自由な貿易と資本の流動を究極の形で実現しようとするグローバリゼーションは国民という概念を伴わない必然性から民主主義を反映せず、生産性の拡大や雇用の拡充をまったく伴うことのない金融グローバル化に端的に現れている。一口に反グローバリゼーションと言っても、米国一国主義を柱とする経済植民地施作を非難する動きと、ヨーロッパEUのように農産物や第一次加工品といった地域産業を中心に流通(課税)システムの変革による淘汰を懸念する動きとは微妙に異なる。勿論、それらは同じ文脈の中に置かれるべきことであるが、本書では米国型市場経済収奪システム(短期投機的グローバル金融カジノ)に対する反論が主体となっている。
 私的総論を述べるなら、『市場競争の関税と政府の規制からの自由』を求めるグローバリズムは資本主義の流れの中で概念それ自体としては有用な部分を認めるにやぶさかではないかも知れないが、それはあくまでも-イズムの段階に留まるべきであって、完全な実体としてのグローバリゼーションを成し遂げてはいけないのだ。それは丁度、社会主義という概念が公平な富の分配を目指すという概念としては有用でありながらも全体主義国家として実体化によって、『自由』という代償を払わなければならなくなったのと同様、グローバリゼーションの実体化は、企業という或る種のロボット(コンピューター回路)に収益のために人々の人生を押し潰す(殺害する)『自由』を付与することに繋がるしかないということでもある。富の増大と集積は、きわめて一部の人間にとってしか意味をなさず、残りのほとんどの人々は貧困化する。しかも金融グローバルによって経済活動は予測不能なカジノ・ギャンブルと化し、それは生産や社会への投資ではなく、カネそのもの(利ざや)への投資をしか齎さない。
 メディアがさかんに喧伝する環境問題(自然保護)としてのグローバリゼーション認識は、それが簡単に判り易い(広く国民の衆知を求めることの困難さ)所為なのかどうか、寧ろ問題の本質を隠そうとしているとしか思えない節がある。況してや労働人口の急激な減少によって空洞化することが避けられない日本経済にとってグローバリゼーションはただの環境保護問題に摩り替えてはならない重大な課題でもあろう。
 少し本書に話題を戻すと、最終章において何名かの著名な経済学者によるグローバリズムの解決策が提示されているが、さすがにそこまでゆくと素人でしかない私には理解できない部分も多い。だが、よく途上国に本当に必要なものはインフラ整備以外で言えば、≪教育≫だと言われる通り、反グローバリズムの牙城もまた先進諸国の国民ひとりひとりが≪グローバリズムに関する知識を深め、討議する≫ことによってのみ築かれ得るものだという気がする。
 経済用語が跋扈するものの、本書の記述自体は比較的判り易いものと言っていい。メディアの役割は視聴率競争ではなく、本来こういったことどもを広く国民の前に問題提起し、解説と啓蒙を深め、政府国家と経済集団・企業連合に対して、ありうべき世論を喚起してゆくべきである筈なのだが。。。

12/20 ヤクザ・リセッション ベンジャミン・フルフォード 経済ジャーナリズム ★★

 前著『日本がアルゼンチンタンゴを踊る日』に続くフルフォード流告発書の第二弾である。経済問題に明るくない私にとってはなかなか理解しにくいところもあるのだが、それを差し引いても前著に比すと、本書では特に中盤辺りからフルフォードの論旨はやや明解さを欠き始める。ダークサイドな部分について書く訳にいかないのだという思わせぶりな餌撒きに留まるが、さてその心意のほどはどうなのか?歯切れのよさが売りの著者だけに<風呂敷を広げた>ままで、前著とほぼ同様の結部へとなだれ込んだのが気になった。次回作への前フリなのか。。。
 それはともかく『やくざ不況』と題された本書では主に銀行への公的資金の投入問題、それを追いかける形で処理を待つ、生保企業とゼネコン問題、政治家の汚職構造を取り上げながら、それら<政・官・業・やくざ>からなる構造不況から脱却できないばかりか、<改革>という呪文を口先で唱えるだけで、敢えて何もしようとしない小泉政権の国民騙しロジックを叩いてみせる。<根拠なき株高>に足下を掬われる形の日本経済について、最後の瞬間に避けようもなく訪れることになるのは、インフレターゲッティング、預金封鎖、新円切り替えなどの非常手段しか残されていないことを指摘している。確かにどう考えてもこのままでは日本はアルゼンチン並みの経済破綻に直面するしかない。その後の社会は英国的沈滞の中に埋没するしかないだろう。だがここでも解決不可能な問題として提起されるのは少子化による労働人口の減少という確実な未来像だ。フルフォードによっても、今すぐ外国人移民労働者に門戸を開くしかないのだということが力説されている。
 だが土壇場になってから、いや、破綻してからでなければ絶対に動こうとはしない日本の政治家体質を知りすぎているだけに、もはや打つ手なしとしか思えない。日本の優良企業が国際化し、脱日本企業となってゆくのを片目で眺めながら、米国経済に呑み込まれ、先頃締結されたFTAA(米州自由貿易圏=2005年発効)のように、米国の巨大消費市場として蝕まれ、いつでも切り捨て可能なバラスト的属国経済に甘んじるしかない。誰ひとりとして決意しない、誰ひとりとして犠牲や代償を支払おうとしない、<国民総無責任体質>となった背景には、高度経済成長期(70年)以降の学校教育の歪みが深く大きな影を落としていることにあらためて思い至る他ない。

12/16 コロンビア内戦   伊高浩昭 歴史

 麻薬マフィア以外でコロンビアに関する本が出ることは珍しいと言うか、まったくと言っていいくらい存在しない。本書の副題というか正式なタイトルは『ゲリラと麻薬と殺戮と(小文字)コロンビア内戦(大文字)』なのだが、当然のように≪コロンビア史≫を期待した私は裏切られた。常々ジャーナリストの書いたものは読みたくないと語っているが、その見本のような代物。しかし目まぐるしく変化するコロンビア情勢について書いたものがない以上、こんなものでも手に取るしかない。主題はやはり麻薬マフィアだ。そして当然の如く、随所に≪伊高浩昭物語-コロンビア篇-≫が挿入される。メディア情報の寄せ集めと、聞きかじり、また聞きの集積だ。勿論、この中にも多くの真実があるだろう。だがそれと同等に間違った情報や推測・憶測といった様々なものも混入しているだろう。問題はそれらを同定することが出来ないことのうちにある。残念だが犯罪ドキュメントに興味のない私には本書の価値は低くならざるを得ない。
 それはともかく、パナマ分離独立前夜の大コロンビアが独立を果たした時点から、豊か過ぎるこの国(石油・鉱物・宝石・バナナ・コーヒー)は、その豊かさ故に、中央集権国家と地方分権派の間で国家統一を果たすことに失敗してきた。そしてパナマ運河開峡を目指す米国の横槍によるパナマ地方の強制的分離独立。二代政党の拮抗する中で大土地所有の解体が出来ないままに、貧農たちの生活改善を掲げて登場してきた社会主義勢力は、東西冷戦下で米国の裏庭としての反共主義政策に弾圧され、コロンビアの地は極右勢力による暴力で血に塗れることになる。弾圧と報復のさなか秩序なき疲弊した国家を巣食うかのように侵食して来た麻薬組織と、政府官僚汚染が蔓延る。暴力と汚職の連鎖は歴代大統領と政治家を誰一人見逃すことなく、米国を始めとする対外的干渉は、寧ろ国家予算の大半を、それが本来向けられるべき、農地改革や経済改革へではなく、対麻薬組織抗争費(米国からの貸借武器支援)へと向わせるばかりで、貧農の生活不満は何ら改善されることなく、社会主義勢力の弾圧を前に、力による庇護を求めるしかなくなった貧農たちがコカイン栽培・製造と、それが齎す力による武力平定へと向わざるを得なかった実情はそれでも浮び上がってくる。。。≪出口なし≫。。。全国民と各組織の疲弊なくして、他に出口の見出しようのない現状があからさまに浮かび上がってくる。情報精度としてはあまり当てにならないが、それでもコロンビアの現状を伝えるには本書しかないのも事実。だが、私よりほぼ20才も年配という著者の浅学ぶりには要所々で呆れ返るしかない。興味本位で、南米に取材した自由人を気取る素人による見聞録以上の何ものでもない。

12/6 『旧約聖書 ⅩⅤ 歴代誌』 旧約聖書翻訳委員会 聖書 評価せず

 旧約聖書最終巻。出だしではいきなりアダムから連なるイスラエルの家系をそれぞれの名前をただ羅列して挙げてゆくばかりであり、とても読めたものではない。だが次第に時代が下り始めると共に、タイトルに相応しい記述が混じり始める。ただ本書の主題はダビデのイスラエル王国建設、賢王ソロモンの治世から、王国の南北分裂とその後の歴史を追うことに費やされている。何度も繰り返すが旧約聖書というのは字義通りのその語幹とは些か異なる。その第一はまず≪聖典≫という趣きのあるものはモーセ五書と呼ばれる「律法」部分だけであると言ってよく、「預言者」、「諸書」と呼ばれる大部は歴史書としての性格が色濃いということ。第二に、ユダヤ選民思想と言われるように、特定民族と特定の神の結びつきを≪聖典≫として崇めるには、その内容の大半が神ヤハウェを蔑ろにし、罰を受ける、恥ずべき不信心が繰り返される自らの民族史を書き綴ったものだということ。第三に新約聖書と違って、預言者自らが奇跡を行なってみせるなどということはほとんどなく、神ヤハウェのみがただ奇跡(その大半は盛衰を及ぼすだけであって、『出エジプト記』を除けば奇跡というには程遠い)を執り行うというスタイルをほぼ全体に渡って貫いている点なども特色と言えよう。従来は巻物であるから、順序というものは成立しにくいので、時代や記述は錯綜している。そして現在では失われてしまった一時資料などの典拠なども盛り込まれており、考古学的な正確さはともかくも、非常に緻密なで現実主義的な匂いすら漂うほどに決して≪神話≫などではないことをまだ読まれたことのない方々の為に申し添えて置く。

11/29 『ドン・キホーテ 後編』 セルバンテス 文藝 ★★★

 前編から16年を経て公刊されたという本書は、蓋しその執筆がすでに前編にて予告されていた通り、決して前編の評判によって後付けされた物語ではない。しかも、なんとセルバンテス以外の人物の手になる贋作が続編として先に世に公刊された所為で、前編以上に大胆かつ特殊な物語を構成している。それはトーマス・マンをして「世界の文学中、小説の主人公が(前篇による)自己の評判・大衆性によって生きている作品は、まずこれ以外には見当たるまい」 と言わしめたものであり、まさに、『ドン・キホーテ前編』が世間で得た評判・事実をそのまま『-後編』の基底としており、作中の登場人物によって『-前編』が持て囃され、批評され、主人公ドン・キホーテの物語を導いてゆくのである。また『-前編』に書かれた矛盾点を解釈・説明してみたり、あちこちに≪エピソード:短編小説≫を挿入したことを反省してみせたり、はたまた≪贋作≫を何度も取り上げて徹底してあげつらうかと思えば、ドン・キホーテ自身がそれを手にするなど相変わらずの遣りたい放題だ。
 故郷ラ・マンチャで暫しの休息を経たドン・キホーテは後編を通して、前編のように強固な妄想に憑かれている訳ではない。彼は半信半疑の下に置かれ、時に欺瞞によって妄想を掻き立てはするものの、一方ではそれが夢か現かと疑念を抱き続けている。だが面妖なことに従者サンチョ・パンサのズボラから出たウソにまんまと騙されたのを始め、ドン・キホーテが旅先で出会う人々がすでに『-前編』の読者であることから彼の妄想に加担して愚弄を試みるなど様々に担がれて翻弄される。だが周囲の人々は、博識で理知的な正気と、妄想に憑かれた愚か者を行ったり来たりする彼をからかいながらも、常に愛し、ついには正気に戻ってくれるなとばかり嘆願する始末だ。更なる≪贋作≫の出現を望まない作者の手によって、永遠に断固として彼はここで葬り去られることになるが、その最後の瞬間まで彼は人々に愛され、ついには我々読者をも魅了するに至る。途中サンチョ・パンサの物語とドン・キホーテの物語が別々に入れ子のように続けられる等、些か懲り過ぎたような箇所も見受けられるが、それでも評判に違えぬ傑作だと言っていいだろう。
 全編を通じて、語られるテーマは≪現実性=リアリティ≫だと言っていい。当時、流行の遍歴の騎士道物語など魔やかし・ファンタジーに過ぎないという姿勢に始まり、あちこちで「現実とは所詮こんなもの」と言わんばかりに様々な≪リアリティ≫が≪フィクション≫のうちに積み上げられる妙。。。昨今の世の中を見渡すに、TVゲームの戦闘や、ハリウッド映画やアニメの虚構のうちにヒーロー像を追い求め、国家元首が≪力による正義≫だの、≪武力による平和≫だのと、まるでゲームを指揮するかのように自己や国家をヒーロー像に近づけてゆこうとする姿を見出すばかりだ。セルバンテスの諧謔はそれが故にいつの世にも通ずる皮肉である。だがドン・キホーテが愛されるのは彼がヒーローとは懸け離れた存在であるからこそだ。
 ≪キーワード≫や≪キャッチコピー≫だけが独り歩きし、手垢に塗れ捨てられてゆく世の中では≪ドン・キホーテ≫と雖も葬られるしかない。だが「まるでドン・キホーテのようだ」と人々が口にする時、わたしは昨日までとは異なる意味合いをそこに探ろうとするだろう。。。

11/16 『ドン・キホーテ 前編』 セルバンテス 文藝 ★★

 スペイン文学の至宝とまで言われる『ドン・キホーテ』だが、わたしが知っていたのは≪ロシナンテという痩せ馬に跨り、サンチョ・パンサを従えて、風車を竜と勘違いして突っ込んだ頭のおかしな騎士の物語≫というくらいのものでしかなかった。まぁ、実際その通りなのだが、その逸話は導入部とも呼べる序章で終ってしまい、その後延々と話しが続いてゆくとは思ってもみなかった。(それがクライマックスだと思っていた。)また、イソップのような童話なのだろうと勘違いしていたわたしは当然何の興味も抱いて来なかった。ところが、99年に本版を目にして初めてそれが膨大な量からなる大著であることを知った。そうなると好奇心が湧く。スペイン文学史上、避けて通れない関門という言葉が俄かに現実味を帯びてきたのだ。
 さて肝心の感想だが、とにかく驚くほど風変わりな書物だ。世紀の稀代の奇書というに相応しいだろう。なにしろ主人公はのっけから狂人として紹介される。狂人の主人公をいったいどう描こうというのか?!それは彼に同行する従者となったとぼけたところのあるサンチョ・パンサや、彼を取り巻く周囲の人々の理解ある介在によって、狂人の彼が本来語りえない(解説し得ない)部分を物語ってゆくことで果たされるのだ。しかも狂人ドン・キホーテの呆気ない妄想冒険物語は本書の一部分しか占めていない。ドン・キホーテが旅の途中で関わり合うことになるさまざまな登場人物の持つ逸話が言わば≪短編小説≫としてそこかしこに散りばめられて、本書を≪短編小説集≫足らしめているのだ。しかも残りの部分もその半分はドン・キホーテがのめり込んで発狂する基になった≪騎士道物語≫の文藝批評や社会批評となっているのだから驚きだ。したがって本編であるドン・キホーテ冒険譚は全体の中からすれば逆に挿話でしかないと言っていいくらいだ。彼がゆく先々で巻き起こす事態以上に、彼がゆく先々で出会う人々の挿話が主体をなし、彼とサンチョ・パンサはその為の狂言回しのようですらある。しかもそこに文芸批評が加わる上、ドン・キホーテ伝承の発掘という虚構を混ぜ合わせたりするものだから、この大胆な構成には驚かされざるを得ない。まさに20世紀的な何でもありの文学のありようを先取りした奇書だと言える。
 だがどう言えばいいだろう。で出しはとてもおもしろく、どんな風に展開するのだろうと期待でわくわくさせてくれるのだが、挿話のひとつひとつはこれといってドン・キホーテ本編ほどの才気に富む訳でもなく、ありふれた"数奇な運命物語"に過ぎない。文芸批評、社会批評は示唆に富んだおもしろいものだが、それだけで本書全体を賛美するほどには至らない。セルバンテスという人の諧謔の精神には驚かされるが、だからといってオチらしきオチもない本書を大傑作だとは思えない。最終的な判断は予告された続編を読んでからにしよう。

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特別企画?(笑)。。。『ドン・キホーテ』を読む。
 かねてからの懸案だったスペイン文学『ドン・キホーテ』をついに(笑)読もうと思う。その名だけは知らぬ者のないドン・キホーテだが、実際、その本を読んだことのある人はほとんどいない。何しろ、『イリアス』と『オデュッセイア』を合わせた量を、遥かに凌駕する大部の著作なのであることを知る人すらも少ないようだ。(岩波文庫だと、相当の分厚さのある文庫本が6冊にもなる。)滅多に小説を読まない≪活字中毒≫であるわたしにとっては、些か勇気と決断のいる作業だったりする。(笑)
 況してや、子供の頃から決して≪児童文学≫だとか≪世界名作物語≫などに近寄りすらしなかったわたしには正直言って、今この瞬間でさえも『ドン・キホーテ』がおもしろいとは到底思えない。。。だがヨーロッパ文学史に燦然とその名を馳せる作品だけにいつまでも避けている訳にいかないのも事実だ。がしかし・・・である。かつて同様の思いで、致し方なく、読んだゲーテの『ファウスト』に痛く失望した経緯があるだけに、その期待感は一向にふくらみようもない。(笑)ということで宣言して読み始めます。

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11/8 ルフー、あるいは取り壊し  ジャン・アメリー 思想・エッセイ

 ↓をそのまま引用するが、アウシュヴィツの生き残り、そして自死せし、哲学者ジャン・アメリーが、酔いどれの画家ルフー(≪炎≫の意)の口を借りて、言いたい放題を尽くした書。。。<あとがき>とも言える最終章「なぜ、どんなふうに」でアメリー自身が解説を試みているが、そこに至るまで本書の具体像は漫然として明らかにならない。まるで架空の人物の影に隠れて、有象無象の世相に罵詈雑言を浴びせてみせたような卑劣さすら感じさせた。しかもその内容はアメリーの周辺にあるさまざまな話題・世相であって、時代も異なれば、精神世界もローカルな地域社会性も共有しない我々読者にはほとんど理解しかねると言っていいだろう。(翻訳者もあとがきでそれを認めている)虚構の中に逃げ込もうとしたアメリーは蓋し、それが不可能であることを認めざるを得ない。そういう意味では最後の章が緒言としてまず冒頭に置かれるべきですらあったろう。
 一方では、作品を別棚に上げることによって<ルフー>を切り捨ててもみせる。本書でも最終段階においてパレスチナ問題について、いや、イスラエル問題について言及してみせるが、結局のところ≪被害者≫でしかない彼には、そこから抜け出すことは不可能であるようにみえる。だがこんな不遜なことを言っては大方の非難を受けることになるのを承知の上で言わせてもらうならば、いったい彼の≪体験≫とはどれほどの≪被害者≫であるのだろうか?勿論、アウシュヴィッツの地獄を垣間見たのは事実だし、それを程度問題に分けて云々するのは不適だと称されるかもしれない。だが、彼はプーリモ・レーヴィほどにも、アウシュヴィッツの被害者であったことはない。究極の被害者は殺された者たちであったとすら言うことも可能だろう。拷問という計り知れない被害者であったことは間違いないが、ツェランがアウシュヴィッツの≪どこまでの≫被害者かを問うのに等しく、アメリーはいったい≪どこまで≫アウシュヴィッツの被害者であり得ただろうか?そんな問いかけをする権利がわたしなんぞにはない!のは重々承知の上で、亡命者・逃亡者であり、拷問の体験者であり、哲学者でもあるアメリーが≪被害者である自己≫を如何に客体化しようと努力しても、そこへ舞い戻るしかなかったのもまた事実なのだろう。

10/20 さまざまな場所 ジャン・アメリー 思想・エッセイ ★★

 アウシュヴィツの生き残り、そして自死せし、哲学者ジャン・アメリーが、生まれ故郷オーストラリアから、ナチズムによる逃亡者として変転したヨーロッパ各地を再び辿り、過去の思い出を呼び起こしながら、ユダヤ=放浪の異質者=アウシュヴィッツの生き残りとなる≪旅路≫を経て、現在の自分へと至る道程を踏みしめるかのように確認してゆく作業。第三者的に語られてきた≪少年≫や≪異国の旅人≫や≪放浪するその男≫は当然のように最終章で≪わたし≫となる。極めて個人的な想い出の旅路。。。土地の記憶。。。だが、そうではない。随所で当時、その土地土地に居合わせた人々、また偶然に巡りあった人々と、社会の状況とナチの情勢の中で、決して他者に非難の鉾先を向けるのではなく、何が自分を今日ある自分へと押し流し、運んできたのかを問い直しつつ、活き活きと当時の社会と人々を描き出してみせる。興亡するナチズムに対する無関心と自分だけは大丈夫という根拠なき夢想。。。他人の火事は冷静に非難し、分析し、対処策を口にするのに、我が家の火事は嘆くばかりで八つ当たりする始末の人々。。。そこに迷い込んだエトランゼ。。。もはや母国にもなじめず、地上のどこにも自らの国を認めることの出来ない人間。。。
 余談だがこの本が上梓された1976年時点ので、アメリーのイスラエルに対する立場表明は解しかねる部分を感じずにおれない。≪全世界≫の異邦人アメリーはこの年、イスラエルへの講演旅行から帰ってきたばかりだった。だが、そこを自らの国土ともしなかったし、本書の終章を寧ろ『私のドイツ風景』として締め括っている。イスラエルに対する立場は哲学者としてはきわめて不明瞭なままだ。本書の最終章はその地、エルツ・イスラエルでこそ終るべきであった。過去にこそなんの想い出もある筈もないが、それを倍する想いを背負ってあるはずの現在のイスラエルを語るべきだったし、そこで自分が再び≪エトランゼ≫であるのかどうかを明かすべきではなかったろうか?それがこの本書の評価を★ひとつ貶めているのは、決してわたしの個人的志向の故ではない。彼にはそれを明らかにする責任があった筈だと思うからだ。

10/14 ジプシーの歴史  デーヴィッド・クローウェ 歴史 ★★

 どうもここ数ヶ月読書が思うように捗らない。根気がない感じだ。それはともかくも本書は2年前に発売された直後に購入したまま本棚で眠っていたもの。ようやく手にとることが出来た。(笑)
 副題に「東欧・ロシアのロマ民族」とあるようにブルガリア、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ロシア、ユーゴスラヴィアの各国におけるジプシーたちの近代史と各国毎の施策、市民社会との関わりを俯瞰したものだ。≪ブルガリア≫では政府の懸命な努力と実験の数々にも関わらず、頑迷なまでに自らのアイデンティティにこだわり続けるジプシーたちとブルガリア社会の相克を描かれ、キリスト教徒のジプシーが社会的進出を果たすことに成功する反面、トルコとの国境紛争の中で仇役に仕立て上げられてゆくムスリム=ジプシーへの迫害と排外主義的風潮の拡大により、結局のところ少数民族としての地位確立に失敗してゆく過程が綴られる。≪チェコ=スロヴァキア両共和国≫ではハンガリー=オートスリア二重帝国の軛からナチズムの侵攻と、その間にあったつかの間の独立王国という動乱の歴史の中で、自らの国家建設を果たすべく喘ぐチェコ、スロヴァキア国民によってジプシーたちは常に駒のように扱われ、背後の敵として、また結果分裂してしまうことになるチェコとスロヴァキアの双方の思惑によって移住と同化施作を一方的に押し付けられ、またときにその存在そのものを隠されつつ、近代化の中で切り捨てられてゆくスケープゴートとならざるを得なかったのが伺える。≪ハンガリー≫や≪ルーマニア≫における偏見は根深く、彼ら自らの相対立するナショナリズムの高まりと引き換えに、ジプシーたちは弄ばれ、啓蒙主義者たちの努力さえも却って民衆の反感を高めるにしかならない。そこでは彼らの持つ"鍛治や蹄鉄"、"類稀な音楽的才能"などさえもが民衆の前で嫉妬に変わってゆくのを見ることになる。そして≪ロシア≫の章に入ると途端に著者のスタンスが変化して戸惑わされる。おそらくはロシア文学者なのだろう、突然にロシア文学とジプシーに関する考察が中心となり、それまでの歴史的本論は脇へと追いやられてしまう感じだ。(苦笑)中盤以降、文脈は戻って来るが、それでも殊更に文学的挿話が散りばめられてゆく。固定された貧困層という軛があったとは言え、かろうじてコミュニティを形作るかに見えた≪ユーゴスラヴィア≫でも、やはりナショナリズムの高揚と国家の解体と共に彼らの運命は大きく捻じ曲げられてゆく。
 さて、ここまで来て、どうしてもジプシー(ロマ)たちの民族史・民族性が浮かび上がって来ないことに不満を覚えはじめる。各国毎のロマ対策史は外堀を埋めるかのように展開されてはいるが、決して主体としてのロマ史観はどこからも浮かび上がって来ない。確かにそれはロマ自体が国家も持たず、国境を跨ぐような連帯意識も持たず、政治的意識を培っていないことが原因のひとつではあろう。だが何故かくもロマたちがあらゆる試みを放棄させ、頑迷なまでに近代化を拒否してきたのか、ここで根源的なロマ問題が問われることはない。状況的な説明はなされる。だがそれでは決して理解できないし、それでは本書を叩き台にしてロマ問題に取り組むことも出来ないだろう。"地図にない国家"を持つ彼らロマ民族は現代社会全体における第三世界からの出稼ぎ労働者、或いは移民・難民の問題にも通底している。"同化"政策以外の形でどう統合し、彼らの権利と、異動の自由すら保障してゆくか。。。グローバリゼーションの中におけるコミュニティと地域社会との関わり、教育と社会保障など、混迷してゆく世界の叩き台としても、我々がロマ問題を他国の火とみることは出来ないことを示しているのだが。。。ロマ問題は"彼らの問題"ではなく、我々の問題なのだと気づくことから始めなければならないだろう。
 また一方、彼等自身の問題としては差別され、虐待され続けた歴史の記憶が彼等の家父長制度の中に溶け込み、さまざまな抑圧を抱え込んでしまっていることも忘れてはならないだろう。

8/23 ビアフラ戦争 室井義雄 歴史

 なにか意義の伝わってこない書物だ。あとがきで著者自身が自問しているように本書は何のために書れたのだろうか?ビアフラの悲劇(1967年)から25年目、たまたま1995年、著者がナイジェリアの国際問題研究所で客員教授を務めることになったことを契機に書かれたとおぼしき本書は著者の個人的な記憶整理に付き合わされるようなものだ。(そもそも山川出版でなければ購入しなかっただろう。)事件を俯瞰した立場から核心に迫ったり、歴史の再構成を目指したりするようなものでもなく、表面的な出来事(特に戦局の変転過程)を時系列に追うことに終始した本書から知りうることは少ない。著者の青年期に起こったビアフラ内戦の記憶をたまたま補完的に入手できた現地資料に基づいて整理したまで、と言えよう。こんなものならフォーサイスの潜入ルポ『ビアフラ物語』を再読した方が幾らか為になっただろう。(日本では81年になって翻訳出版され、わたしも当時購入したが、現在は廃刊となっている。)
 さて偶然にも7月25日に本書が出版され、ちょうどわたしが本書を読んでいる最中の8月22日、ナイジェリアで新たな火種が噴出した。。。【ヨハネスブルク22日共同】ナイジェリアからの報道によると、同国赤十字社の代表は22日、同国南部ウォーリで最近起きたイジョー人(イボ人)とイツェキリ人との民族衝突で、100人近くが死亡したと述べた。ナイジェリアはアフリカ最大の産油国で、ウォーリは南部油田地帯の拠点都市。両民族は石油の利権をめぐって対立関係にあるほか、イジョー人側は少数派イツェキリ人が選挙などで優遇されすぎだとして不満を募らせている。ナイジェリア赤十字社によると、20日に両者が休戦するまでの5日間で100人近くが死亡、1000人以上が負傷し、4000人以上が焼き打ちに遭うなどして家を追われた。 政府は衝突鎮圧のため治安部隊を出動させた。(共同通信)
だが、やはり本書はなんの役にも立たない。事件から35年以上経って上梓された本書の記述は、1969年の内戦終結の時点を以って終わっている。但し書き程度のほんの数行がナイジェリアに残された傷跡について触れているのみだ。きっと出版と同時に起こったナイジェリアの紛争には著者自身が一番驚いたのではないだろうか?そういう意味でも、もう少し違った形で整理・記述されていれば本書の価値は飛躍的に高まっただろうだけに残念でもあるが、所詮、学生たちに売らんがための教材(課題図書か)でしかないのか。。。1950年生まれで東大経済学部修了という著者はまさしくノンポリ世代のスターティング・メンバーなのだろう。ポリティクスな曖昧さが踏み込みを圧し止めている。。。

8/20 『旧約聖書 ⅩⅣ <ダニエル記・エズラ記・ネヘミヤ記>』 旧約聖書翻訳委員会  聖書  評価せず

 「ダニエル記」はネブカドネツァル王の時代に賢者として立ち、権勢を意のままにした預言者ダニエルの物語、後半は有名な第四の獣や巨大な角を持つ雄山羊の顕れる幻から始まって、終末論≪最後の審判≫に関する予言へと繋がってゆく。「エズラ記」と「ネヘミヤ記」は共に、ペルシア王クロスの治世からはじまったユダヤ人のエルサレム帰還と再建の過程を描いたものであるが、さまざまな妨害を乗り越え、己が民族を襲う規律の乱れ-主に婚姻による血の混じり、などを粛清しつつ、エルサレム再建を果たすまでの史記的要素の濃いもの。共に一人称が多く使われ、また若干の不整合があるとは言え、帰還した氏族名やその人数に至るまで詳細な報告がついている。およそ百十数年を経て、ペルシア王の庇護の下でエルサレムが再建された。

8/19 『旧約聖書 ⅩⅢ <ルツ記・雅歌・コーヘレト記・哀歌・エステル記>』 旧約聖書翻訳委員会  聖書  評価せず

 「ルツ記」は飢饉から逃れるためモアブの地に寄留していたナオミとその入嫁であるルツという勤勉な寡婦のベツレヘムへの名誉ある帰還を描いた挿話。「雅歌」はごくありきたりな恋愛詩集。殊更、感銘を受けるような何かがある訳でもなく、こんなものが≪聖書≫に含まれてきたことの不思議をすら感じる。「コーヘレト記」は≪聖書≫中の異色の章で、世界と生の無常を説く、独特の賢者の説教。興味深いのは≪諸行無常≫や≪色即是空≫の精神が明確に表明されている点で、≪信仰≫そのものを否定したりこそしないものの、その特異な思想体系は≪不条理≫をさえ説いていると言っていい。キリスト教会は異論なく聖典に加えているらしいが、ユダヤ教会では議論の多い章であり、さまざまな解釈を付与して何とか聖典に位置付けているのだという。そういう意味では後代の改変や、付け足しの跡なども垣間見てとれる。また「哀歌」は古代ユダヤ王国の没落をテーマに嘆きの唄が詠まれているが、史実としての具体的な記述は含まれていない。「エステル記」はバビロニアの王統治下で寵愛されたエステルというユダヤ人王妃によるユダヤの権勢ぶりが、復讐劇として描かれている。史実としては裏付けが出来ない挿話らしいが、物語としての完成度は高く、朗唱劇のようなものが伝承されて取り込まれたのではないかとも考えられる。

8/17 『日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日』 ベンジャミン・フルフォード 経済ジャーナリズム ★★★

 いや、とにかく興味深い本だ。ペーパーバックのような安っぽい装丁。700円という価格。アメリカの経済誌『Forbes』の日本支局長である著者が日本経済の崩壊について歯に衣着せぬ表現で、日本政財界を一刀両断にしたもの。各語には英単語表記も並列されており、今後、英字新聞などに取りつこうとする向きにも参考になるだろう。タイトルは昨年4月、国家破産したアルゼンチンに日本のごく近い将来像をなぞらえたもの。著者はカナダ人だが、いわゆるアメリカ人による日本政財界批判の書。蛇足的だが、わたしのような反ナショナリストをしても、自身のうちに潜むナショナリスト度合いを体感させてくれる指標ともなる。内容的にはここに書かれたことがすべて正しいとする謂れはない。著者の中に日本独特の社会的因習についての誤謬の影が一部ちらつかないでもない。だが断言して、概ねは正しい!かねてから国家破産の危機が厳然たる現実だというのは1000%確実であるにも関わらず、政財界に留まらずわたしの周囲の人々を含む大半(ほぼ全ての)日本人がそこことについて真剣に考えようとしないことに腹を立ててきたわたしには溜飲の下がる思いすらする。繰り返し著者が述べる≪問題の先送り姿勢≫に終始し、自身の任期継続と特権(財テク)取得にしか懸念しない政治家たち、高齢化社会と実質教育の低下、飽満文化が齎したフリーター族の出現により、すでに日本の税制は逼迫しており、国家財政は近い招来(10年以内)に必ずや崩壊するだろう。労働人口の低下は、非移民受け入れ国でしかない日本にとって解決不能の問題であり、また国土が狭く人口密度の高い日本において、本来唯一の問題解決策であるはずの移民労働者の受け入れさえも不可能事でしかないとなれば(労働移民は1人でやってくる訳ではない。1人の成人労働者を受け入れるということはその家族4~6人の人口増を伴うということでもある。)、日本脱出以外に術はないと言っていい。コンプレックスに隠された外国人差別意識の強過ぎる日本人はまた、近年(20年余前からと言っていい)の学力低下が著しく、もはや世界にとっては脅威でもなんでもない。唯一の失業対策として伝家の宝刀のように公共投資を振り回すしか脳のない地方と中央の癒着的構造は、労働浮遊層を増大させ、より一層の土方大国として悪循環に陥るしかない。教育の空洞化と、横並び意識の国民総中流化が政治意識を消失させ、特権取得に余念のない政治家連中の思いのままに操られてきた。ここで述べる範囲を越えてしまうので割愛するが、いずれ≪反骨の扉≫で取り上げざるを得ないテーマでもある。
 さて、本論に戻ろう。本書の内容を絶対的に肯定する必要はない。だが、もはやグローバリゼーションの流れの中で外資系企業に取り囲まれ、よしんば自身がM&Aや、投資顧問会社の手を逃れたところで、競合相手として彼らと対峙してゆかなければならない以上、彼らが今の日本をこう見ているのだという視点を学ぶことは当然の課題であり、必須でありこそすれ、それを偏狭なナショナリズムから無視し、拒否してしまうのは現代社会においてサヴァイバルせざるを得ない者としては失格以外の何ものでもない。企業で働く人々には必読の書であるだろうし、これから大学へ進学して学ぼうとする青年たち(そんなやついるのか?!)にも、またそういった子供たちを持つ親たちも知っておくべきひとつの観点ではあろう。

中断 『東南アジア現代史 Ⅰ 総説・インドネシア』 和田久徳・森弘之・鈴木恒之 歴史 *

*** ≪中断≫。。。こんなことは10年に一度くらいしかない。
どうもわたしには東南アジアは鬼門のようだ。インド、パキスタンまでは漕ぎ着けたのに、東南アジアとなるともういけない。。。お恥ずかしいが、文字に集中できない。
また数年以内には再挑戦してみようと思うのだが。。。

6/26 『フロイト/ユング往復書簡集 (下)』 G・フロイト=C・ユング W・マグァイア編 精神病理学

 フロイトとユングの関係は、儀礼的な教師=師弟のそれから、親睦的な父親的師匠=愛弟子的息子へと変化してゆくかに見える。だがその根底には互いに凌ぎを削り合いながらの葛藤が明らかに認められる。ふたりはお互いに理解し合えることを望みつつ、交際を続けたが、真実ただの一度足りともふたりは理解し合うことなどなかったに違いない。(2003.11.8補遺 : フロイトとユングはお互いに相手から理解されることを望んだが、お互いに相手を理解しようとは思ってもいなかったと言い換えるべきかも知れない。)フロイトがフリースやアブラハム、ユング等に書き送ったそれぞれが膨大な書簡はフロイト自身の巨大なコンプレックスをも顕わにしている。それはまさに神経症的な部分でもあるに違いない。それは兎も角、フロイトは個人の潜在意識下に神話の原型を認めたが、ユングは神話の原型から演繹したものを個人の潜在意識下に当て嵌めようと試みた。やがてそれが近親姦の象徴性を対立軸として、リピドーの起点を分けることに繋がってゆく。 お互いが自虐的とも思えるほどに自らの筆致を分析し、相手の筆致の奥に潜むものを分析し合うという通常とは異なる緊張感の下で始まった文通は、やがて齟齬を来たさざるを得ない必然の定めにある。
 『変容の象徴』というユングの大著(私的にはまったく評価しない)を巡って、ふたりの見解はぶつかり合う。巨視的に見れば些細とも言える一点の亀裂だったが、そこに各々が固執し、立脚点に固持したが故に、その裂け目はその後のふたりの行く末に巨大なクレパスとして広がってゆく。ユングはその一点だけに固執して本末転倒とも言える歪みを齎し、フロイトは残り短い余生の間、さらに頑迷に性欲論のうちに引篭もってしまい、大局とさらなる展開を見失う。。。
 決して読み物として気分よく読み進められるものではない。おもしろくない訳ではないが、同時にうざったい気分にもさせられる。伝記作家以外にこのようなものを必要とする読者がいるとは思えない。。。
 その後の歴史はフロイトが最初の段階で望んだ通り、ユング的語彙によって≪精神分析学≫は一般の人々の中にメジャーなものとして踊り出たが、同時にそのユング的語彙の誤謬故に≪精神分析学≫は誤用され続けた("精神分析医"を名乗る人々の手によって)ことで、信用を失墜させてしまうに至る。生物化学の発展によって器質論や生理学的病因論が補完される一方、手垢に塗れたタロットカードと化した≪精神分析学≫はスリラー小説の素材にしかならなくなった。だがフロイトの齎した偉大なる原点に帰らずして≪対処療法≫に過ぎない≪生理学療法≫の源泉は決して充たされはしないだろう。。。

6/13 『フロイト/ユング往復書簡集 (上)』 G・フロイト=C・ユング W・マグァイア編 精神病理学 ★★

 実は本書は11年間もうちの書棚で積読されるが侭に放置されていた。往時の書簡は特にふたりが直接の会合を通じて緊密に対話を始めるまで、あまりに儀礼的美辞麗句に溢れ、眠くなるようなものが多いのが原因なのだろう。
 それは兎も角、≪精神分析学≫という新しい分野を開拓しようとする中で、そのユダヤ民族性と相俟って「ユダヤのためのユダヤによる精神分析」と論われ、あらゆる方面からの四面楚歌に置かれたフロイトが、まだ若きユングに可能性を見いだし、そのゲルマン性に活路を見出さんがために、そしてまたウィーン(フロイト)とチューリッヒ(ユング)の二箇点から、新たな展望を目指してユングに跡を託そうとした試みのドキュメントである。当初フロイトを名実共に師と崇めているように見えたユングだったが、ふたりの対話は次第に齟齬を来たし、やがては決裂してしまうに至る。
 また、その後の歴史(ヒトラーの台頭)を知る我々にとっては、興味深いことにフロイトとユングの間でも時折、それぞれの民族性について言及されていることだ。ふたりの間で何気なく交わされる各々のユダヤとゲルマン性についての機知に溢れたそれは、だが当然のことのように民族的差異(但し、それは思考・観念の!)が前提とされているかのようである。
 上巻である本書では、そのきっかけとも言えるユングのオカルティズム(降臨集会)への傾倒に始まり、「完璧たる精神分析など存在し得ないが・・・」と老齢に達して尚、完成を急がないフロイトと、若さに任せて未踏の荒野を切り拓き、確固たる方程式を掲げて世界を塗り替えることを目論むユングの対立軸となって顕われ始める。それは≪神経症≫を礎にして、徐々に前進しようとするフロイトと、≪早発性痴呆≫(フロイトは≪分裂病≫と同じく少なくとも分析的療法によっては治療不可と見なしていた)に取り組み、一気にすべての摂理を解き明かそうとするユングの≪症例選択≫によって、またふたりの周辺を取り巻く師弟や反論者たちの分裂・対立によっても拡がるをみるに至る。だが敢えて言えばふたりは当初から決して交じり合うことはなかったのだ。ユングはフロイトを超えようという野心を隠して接近を試み、≪父親役≫として人間関係においては許容しつつも、ユングを導き利用しようと図ったフロイト自身も、一度たりともユングを信頼したことはなかったと言える。ふたりの対話はそもそもの溝を深め、その亀裂を修復不可能なまでに広げてゆく方向にしか進まない。そういった意味では不毛とも呼べる一方、互いの相違点を通して、各己の路線へと導いた≪精神分析史≫という意味では、資料的価値のある膨大な量の往復書簡集なのか。。。

6/5 アサドの中東外交 1970-2000 夏目高男 政治 ★★

 一昨年、同著者の『レバノン現代史』を読んだ私は本欄でこう結んでいる。「著者の内部で≪民主主義≫であるとか≪自由≫であるとかの概念が曖昧で明確に定義されていない点などいくつかの難点もあるが、鵜呑みにさえしなければ資料的価値は十二分にある。知識ある方が名文家とは限らず、明晰な論理的思考を併せ持つとも限らないところがこの世界(学術専門書)の難しいところか。。。それとも外務省という経歴がポリティカルな側面を曖昧に片付けてゆくのだろうか?」と。。。
 本書においても些か同様の趣きを感じない訳ではない。中東の小国に過ぎず、資源国でもないシリアについて記した書籍は非常に少ない。況してやその内情はシリア政府による統制で外部にもあまり漏れて来ないとなると不透明な部分が多すぎる。したがって本書がタイトル通り、シリアの内政事情よりも外交政策に焦点を絞って描き出そうとしているのも止むを得ないところが多い。だが如何せんそんな事情下で掘り起された外交史の分析は側面的事実の積み上げしか出来ず、内部資料による補完を許さない状況にある。したがって十分な成果を上げ得ないからと云って、その試み自体を無駄なものとする訳にはいかない。貴重な礎となるものだろう。しかしながら、前言を翻す訳でもないが、本書にはいくつかの不満もある。上に揚げたような内容は兎も角、まず編年体史記ではないため、項目毎に時代が何度も錯綜すること。(読みにくいだけではなく、重複を避けようと思えば深く掘り下げて記述できなくなるし、そうでなければ重複記述が増えるばかりとなる。)そしてやはり著者のポリティカルな曖昧さというのだろうか、教科書的=道徳的な等距離の置き方というのだろうか、洞察の乏しさが本書を今ひとつ魅力のないものにしている。シリア内政についてもその成立史概観をまとめるところからスタートして複雑に絡み合った糸を解きほぐすような作業を推し進めるならば、その中からまた別のものが浮かび上がって来るのではないだろうか?表面をなぞるような無害で無味乾燥な文章は頂けない。ただ今後なにかにつけシリアを分析してゆく上で貴重な書物であることは否定できない。アサド亡き現在、次男バッシャールの大統領就任にも関わらず、もともと原則論にこだわることで正当性を頼みとしてきただけの弱小国家シリアは、だが所詮どんなイニシアチブも持ち得ないだろう。世界情勢が大きく変わってしまい、米国の一極主義が他を淘汰してしまった今、シリアはこれまでのように漁夫の利を狙うことは出来ないだろう。だがシリアの不安定化が決してどこの国をも利することなく、ただ混乱と悲劇をしか産まないのも事実だ。ブッシュにその機微が判断できるとは思えないが。。。

6/3 ネグリ<生政治的>自伝 アントニオ・ネグリ 哲学・思想

 これまでにも随所で述べてきたが、私は今もって≪哲学≫を理解し得ないでいる。≪哲学的思考回路≫を有しない。。。はっきり云ってしまえばバカなのかも知れない。したがって本書の内容もほぼ1/3くらいしか理解できていないのではないだろうか?(哲学的にはすべて理解するか何ひとつ理解しないかのいずれかなのだろうが。)以前に「ネグリの著書は難解な文章が多すぎて、手に取る気になれないでいる」と告白したことがあるが、本書はA~Zのアルファベット・オーダーによる自由発想法的インタビューなので、決して文章自体が難解に過ぎるということはない。だが、所詮、私には前述の程度でしかない。どうしても途中で興味を失ってしまうのだ。。。この一冊でも十全に理解しようとするならば、哲学の修士博士号程度は持っていなければならないのだろう。。。だとすればこれは誰に向けて書かれたものであるのか・・・そんな疑念が次々と私の思念に介入してくるのを遺憾ともし難いのだ。したがってお薦め度は当然に低くなるが、あくまでも私的な観点でしかないことをお断りしておく。
 それは兎も角、それでも下記の『現代イタリアの極右勢力』を読んでいなければ、事象的なことさえも理解できなかったに違いない。読書のタイミングとしては悪くない。。。
 ネグリは70年代イタリアの左翼知識人として≪アウトノミア(アナーキズム的自治理論)≫を提唱し、極左グループ≪赤い旅団≫の精神的指導者でもあった。だが、関与するはずもない≪モロ元首相暗殺≫の容疑で逮捕されてしまう。抗議運動の高まる中、獄中から国会議員に当選し、一旦は釈放されるも、特権剥奪決定を前に仏へ亡命。14年の歳月を経て(97年)、帰国するや否や、罪状の書き換えられた欠席判決を基に投獄され、現在も尚、拘束性の保釈身分となっている。その彼が2002年に≪生政治的自伝≫として発表したものだが、そういう現状であるが故にこそ、これが彼にとって無罪の主張を基底としたところのものなのか、自己の正当化(正当性)を求めたところに依拠するものなのかは難しいところだ。彼自身はもはやそんなところに身を置いて議論などしないという立場なのだろうが、読む方としてはどちらにせよ、どの観点から彼の言質を捉えまえるかを意識せざるを得ないのも致し方ない部分も出て来る。
 決して驚くことではないのかも知れないが(私的には意外な感があるのだが)、哲学思想家というよりは≪行動する≫政治学者である彼は、≪革命家≫であるが故に、≪生≫と≪世界≫について肯定的である。反体制家というレッテルから考えると錯覚に陥り易いが、彼が否定し、批判と革命の必要性を訴えかけるのは≪或る体制≫や≪或るシステム≫についてであって、≪生≫や≪世界≫といった実存そのものに否定的な思想を抱いている訳ではない。寧ろ、そこに驚くばかりの楽観主義を見てとることすら可能である。近著『帝国』で提唱した≪ネグリチュード≫という多様性のグローバリズム市民の≪創造≫においても、彼は≪ネグリチュード≫の外側に取り残され、押し出されてしまう人々(アウトサイダー)の存在を基底しないようだ。≪コミュニズム的ユートピア論≫さえ芬々とせんが由縁だ。あくまでも『帝国』を読んでもいない推察でしかないが、マルクスが『資本論』で行き過ぎた資本主義の崩壊の結果としての社会主義の到来を予言したのとゲシュタルティブに、彼は唯物的資本主義拡充の辿り着いた地点として、≪ネグリチュード≫による知的資本の万民化を現代社会(帝国)に見ているのかも知れない。いくつか興味深い言質もあったが、少なくともネグリその人に対して長い間抱いてきた個人的興味は雲散した。

5/29 現代イタリアの極右勢力 フランコ・フェラージ 政治 ★★★

 非常に稀有な書物である。ドイツにおけるネオナチを除けば、戦後の右翼勢力の展開について考察したものは極端に少ない。況してやイタリアにおけるそれとなると尚のことである。反ムッソリーニ・レジスタンスの活動が存在した北部、米軍の進攻により解放されると同時に、既存の権力基盤の協力を仰がざるを得なかったがために旧支配勢力の排除に失敗した南部、バチカンの影響力の下に≪離婚≫や≪中絶≫を巡って宗教的保守主義が政治的支配を兼ね続ける中部。国家統一と同時にそれを守るためにも二度の大戦へと突き進むしかなかったイタリアの悲劇が、戦後社会に落としつづけた翳。。。戦後の冷戦構造の中で公認された右翼ファシスト勢力の展開は彼らが明確なイデオロギーを持たないが故に、そして国家の暗部を担ってきたが故に俎上に載せられることなく、今日に至るまで研究されてこなかった。≪毒を持って毒を制す≫とばかりに極右武装組織は左翼運動家たちへの弾圧の道具とされ、政治権力の中枢でその権益を守ることに腐心する政治家たちとマフィア的犯罪組織との繋がりの中で、彼らは法の庇護を受けつつ成長した。左翼を装った極右による爆弾テロ、フォンタナ虐殺事件(68年)は極右の犯行であることが明らかとなった後も証拠隠滅や、逆転に次ぐ、逆転無罪判決と諜報部による国外逃亡の幇助などを受けて、30年以上を経た今、また控訴審を争いつづけている。。。本書の内容をここでまとめ上げるにはいくら頁数があっても足らないだろう。イタリア。。。。戦後の米ソ超大国の狭間で、英仏独の翳に隠されてきた感のある国家の近代史がここに顕わとなっている。著者の指摘はないが(十分に仄めかされてはいるが)、おそらく数次に渡り計画された軍事クーデターを立案したのも、それを直前で押し留めたのも、米国諜報機関CIAの圧力だと考えて間違いないだろう。(国外からの政権承認を得られるか否かのバランスの上にあったのだろう。)左翼勢力を排除したいのは山々だが、ベトナムや中南米での多くの紛争を抱えていた米国としては内陸ヨーロッパに対立の機軸を持ち込みたくはない一方で、イタリアの左翼陣営を弾圧・封じ込めることを目論んだ米国の中途半端な介入がその遠因だろう。(ギリシア軍事クーデターとトルコ=キプロス問題という火種を抱えていたが故にこそ)
 ここでも冷戦の緊張緩和と崩壊に連れて、確たるアイデンティティを持たなかった右翼勢力は片や民主主義の被り物をしたナショナリストとして伸長し、他のヨーロッパ諸国に先駆けてイタリアで政権を握るに至り、もう一方はテロ集団を経てギャング組織となり、さらに無目的な若者文化スキンヘッドへと変貌をみせた。禁断の右翼を分析してみせた本書は、想像されるような左翼知識人によって書かれたものではなく、左翼テロについても本論を見失わない範囲で言及されている。
 ただ膨大な注釈を巻末にまとめた構成は読みづらく、注釈ではなく本文中に消化すべきであっただろう。(序文にある通り、何度も改訂補正された経緯もあるのだろうが。。。)

5/19 ケーテ・コルヴィッツの日記 ケーテ・コルヴィッツ 文藝・思想 ★★

 ケーテ・コルヴィツ。。。(1867年~1945年、ドイツ)彼女の作品を見たことのない方は名前をクリックしてください。
 画家、版画家、彫刻家。。。力強く男性的なその作風と裏腹に豊な母性を兼ね備えた<、だが冷徹なまでに自己に厳しいひと。。。《種子を粉にひくな》との副題を持つ本書には、彼女の日記と書簡の一部(と思われる)が収められている。本書は昭和28年に翻訳出版されたまま絶版となっていたものを現代かなづかいに変えて再版したものであるが、内容以前に残念なことにクレームがある。ここには一切の脚注がない。日記に登場する人物から、事件、出来事に関する脚注や詳細な年表がなにもないのだ。(ごく簡単にすぎる年表のみ)これでは十全に本書を読み解くことは不可能に近い。
 それはともかく副題の《種子を粉にひくな》とは、第一次大戦ドイツの敗戦を目前にして、国内の若者たちに総決起進軍を呼びかけた記事に対して、「敗戦後のドイツを導かねばならない若者たちを悪戯に戦死に追いやってはならない。」と反論した文であり、同時に彼女の作品タイトルにもなったもの。だが、それも故事成語や引用なのか、それとも彼女のオリジナルとしていいのかも不詳でしかない。故国であるドイツとその文化をこよなく愛しながらも、強く戦争に反対し続けた彼女はしかし、第一次大戦で次男ペーターを殪くし、ヒトラーの台頭によって画壇からも追放され、隠遁を余儀なくされる。第二次大戦では息子を偲んで名付けた同名の孫ペーターをも戦死が見舞う中、ほぼ寝たきりとなっていた彼女は終戦を待たずに永眠に就く。母として夫や子供たちを深く愛しつつも、自身の芸術的使命を疑わない彼女は同時にさまざまな人生の喜嘆に際しても、決して冷徹で厳しい批評眼を失わない。それこそ芸術家として本質を見違わずに捉え切る為に彼女が自らに強いたものなのかも知れない。国際社会主義に夢を託しながらも、思想的には理想的平和主義者の域を出ることはないが、現代の凡庸で曖昧なそれとは異なり、平和主義を声高に叫ぶことが非常な困難を伴った時代において、彼女が政治的発言においてではなく、一貫してその作品において世に訴えかけようとした点は称えられてよい。そのコルヴィツの姿をあますところなく伝えるには本書ではあまりにも不足し過ぎている。。。再版ではなく、新たな原典からの解読作業をこそ求められるべきだし、同時に彼女の作品も、もっと多くの人々の目に触れるべきである。

5/13 再読 『カミュ全集 3 <カリギュラ・誤解・ドイツ人の友への手紙>』 (廃刊) アルベール・カミュ 文藝・思想 ★★★★

 しばらく前から実はカミュの作品を再読したいと考えていた。その最大の理由はカミュに接した当時、まだ高校生でしかなかったわたしには文芸作品を除いて、彼の非常に政治的な諸エッセー・論文などがあまりよく理解できなかったからに他ならない。その後さまざまな政治史や歴史をひと通り読んだと言っていい筈の現時点なら、きっと当時はよく判らないままに流し読みしか出来なかった彼の主張が理解できるのではという想いだった。
 それら諸作の中でも、もっとも感心を惹いていたのが本書に収められている「ドイツ人の友への手紙」(第二次世界大戦のさなかカミュがレジスタンスの地下印刷物を通して発表したマニュフェスト的公開書簡)だった。そんな想いの中で、昨年にはオリヴィエ・トッドの『アルベール・カミュ ある一生』を読んだが、意外にもそこで描出されていたのは一貫性を欠くとも言える彼の政治的見解と行動だった。その批評文で私は、カミュを『不条理をヒュマニズムの故に受け入れ幸福を志向した』『極めて普通の人間であるが故に―――政治家でも、革命家でもなく、まさに文学者でしかないが故に―――』『芸術家というよりは才能溢れる職業作家であり、傷つきやすくも相変わらず知的で、だが凡庸なドン・ファン』でしかない『結核病み』の彼には『客観的な人生を歩みを進めてゆく』しかなかったのだろうとさえ断罪した。
 モラリストであり、ヒュマニストであることを自認する彼は、同時に奇妙な現実主義者でもある。サルトルにとってはカミュに反論することなど赤子の手をひねるほど簡単であったろうことが容易に想像できる。(私的にはサルトルに対して否定的見解を抱いているが。)彼は小説家の領分を越えて、哲学にまで手を出してしまい、一時的にはそれが彼の作品に重みや深みをさえ授けるようにみえたものの、結局はその中途半端な哲学性故にこそ彼の作品は現在、軽んじられるがままとなっている。作品と彼自身の主張する哲学をシンクロさせてしまったが故の悲劇であると言っていい(一方が否定されることにより他方にまで批判が浴びせられる)。不条理を探求し告発するのではなく、不条理を≪生の(現実主義的対応の)条理≫として受け入れることで彼の哲学論はあやふやな概念をしか形作らない。形而上学の理念や言語を積み重ねてみても、あらゆる≪核心≫を拒否しようとする彼に哲学体系は築き得ず空虚にしか響かない。タブロー的作家である彼にとって、哲学なんぞ別世界のことだった筈なのに彼はそこに足を捕られてしまった。(同様にサルトルもジャーナリスト的文筆家でしかないのに、哲学的知識を捏ね繰り回し、政治的(歴史的)に解読することで行動する哲学者たろうと足掻いたが、それは政治的タレントの真似事でしかなかったのではないか?!)
 他の諸論文を読んでも、基底を持たず、特定のベクトルなき≪反抗の論理≫の概念化を試み、当時一世を風靡した言葉を産み出し、弄んだものの、一方で人間的条件を是認せずにはいられない彼は現実主義的で凡庸な概念しか導かなかった。
 諸論考の中で最良のものはニューユークの街について書き記した『ニューヨークの雨』であり、9.11テロの追悼文にも相応しい今日的な美しい響きを持っている。(Link)散文詩の響き持つそのエッセーはロルカの『ニューヨークにおける詩人』と双璧をなすと言ってもいいほどに、ありし日の、そして現在にも通ずるNYへの追憶文だろう。
 平和主義的で、且つナショナリストで、結局のところナルシストでしかない彼は初期の作品『幸福な死』『異邦人』『カリギュラ』を除いて何も生み出さなかった。。。(『ペスト』を評価する向きもあるが、私的には評価できない。)『異邦人』は哲学的に読まれたかも知れないが結局のところ哲学でもなんでもない。寧ろ、正反対の極にある。(そう考えるとサリンジャーが黙してしまったのも一理はある。)
 最後になったが戯曲『カリギュラ』はやはり今日読んでも眩い燐光に輝いてみえる。。。カミュ自身が晩年、作家としてのその直感を哲学的、或いは政治的思念によって曇らせてしまったのが惜しくてならない。前出の3作品は彼自身によって、別の文脈のうちに置き直されたのだ。こうまで言ってよければ後知恵とも言える思索の上塗りをほどこされて。。。彼は忘れてしまったのだろう、自分がどういう直感に基づいてこういった諸作のひらめきを掴んだのかを。それは時代とメディア(と知識人)によって、作品と己とを強く結び付けられてしまった結果なのか?政治と哲学論争に巻き込まれてしまったからなのか?詩人になり得たかも知れない人物が、理論武装の果てにポエジーを見失ってしまった瞬間がここには刻まれているような気がしてならない。そして『誤解』において彼は、手に入れたばかりの≪不条理≫と≪反抗の論理≫でただ陰惨なグロテスク劇を別の次元へ導こうとして早くも失敗した。。。★4つ評価は『カリギュラ』(新潮文庫版有り)に対するものと受取って欲しい。

5/7 『ネルヴァル全集 Ⅵ<夢と狂気>』 ジェラール・ド・ネルヴァル 文藝 ★★★★

 六巻に渡る『ネルヴァル全集』が漸くにして完結するまで、6年の歳月を待たねばならなかった。最終巻である本書には「パンドラ」のいくつかの草稿・原稿類と未完の「サンジェルマン伯爵」、そして遺作ともなった「オーレリア-夢と人生-」、随想「散策と回想」に加え、死の直前に至るまでの書簡が収められている。それらは大分を占める書簡を併せても、全体の1/2以下の量しかないとは言え(残りは脚注や、年表、拾遺評伝集に充てられている。)やはり感動的なまでに素晴らしいものとなっている。70年代後半に同社から出版された全3巻の旧『ネルヴァル全集』は種別に編纂されたものだったが、今回の企画は各巻に同時期の書簡をも配分した編年体によるで、ともすれば一巻ずつを退屈なものにしてしまう面もあるが、ネルヴァルのような狂気に憑かれた詩人の場合、本巻のように全体として貴重なドキュメントを提供してくれるに最適なものとなっている。繰り返す狂気の発作の中で、彼は創作活動を止めず、自身の混沌を明晰に綴ろうと試みる(「オーレリア」)。だが神秘思想に溺れる傾向のある彼は創作と現実の境を何度も見失い、その中に溺れてゆく。博識で膨大な知識のうちに幻影を観る傾向のある彼は一方で傷つき易く、脆い魂の持ち主でもあった。狂気と正気の狭間を追求した彼ら≪幻視者たちの系譜≫は20世紀のはじめアルトーによって引き継がれることになる。アルトーのように激越なそれではなく、ネルヴァルのそれは≪もっとも繊細な狂気≫と呼ぶに相応しいせつなさの回廊にある。これほどの繊細さをわたしはカフカをおいて他に見出したことがない。役者が役柄の人物像の中に埋没する瞬間があるように、ネルヴァルは空想の中へ埋没してゆくことを望んだ。だが所詮、限定的な形しか持ち得ない人物像とは異なり、彼の造りだす≪宇宙≫はその果てしなき深淵さにおいて、彼自身の精神をも凌駕せずには置かずにはいなかったが、彼はその中にこそ創造の源泉を汲み出そうと希い、その深淵へと降りてゆくことをすら望んだのだ。
 博識ぶりにおいても、一筋縄ではいかないネルヴァルを理解するにはその作品の一部を読むだけでは不可能でしかないだろう(感じるにはほんの数行で十分でもあるが)。だが同時代の友人でもあるデュマのような時代小説家・劇作家がこれほどまでに名を馳せているのに対し、彼の無名さはいかにも哀しい。。。一部の研究者だけではなく、万人に読まれていい詩人でもあるはずだ。
 それでもギリシア悲劇を除いて、所詮、文藝作品は個人の趣味でしかないという原則に従って、星四つでとめて置く。。。

4/28 『現代アラビア』 フレッド・ハリデー 歴史 ★★★

 随分と手間取ってしまったが、その大半の責任は他のところにあって本書の所為ではない。ただ本書にも少しの事由を求めるとすればその文体のうちに求め得よう。1974年出版の原著は新左翼の知識人ジャーナリストであるハリデーによって上梓されたもので、78年に翻訳出版されたのち第一版が現在まで市場に出回っているほどに量販し得ていない。新左翼だけあって、イデオロギーチックな革命用語や語法が随所にふんだんに登場する所為もあり、やや読みにくいのは否めない。往時的な文法によって翻訳された本書は、しかしながら、アラビア半島各国の詳細な歴史(サウジアラビア、南北イエメン、オマーン、湾岸諸国)という類書をみない希少価値によっても、そして決してやっつけではない研究の成果に下支えられているという意味でも今日的な価値は揺るがない。勿論、歴史的記述のすべてが74年という―およそ30年前の時点で考察されているため不足は当然であるが。。。イギリス帝国主義の植民地政策が崩壊し、紛争のさなか、代わって米国が仲介役を装いながら登場してくる時代の流れが描かれる。著者はこの後の展開にまだ民族主義や人民革命の勝利を夢想しつつ、現実的な支配体制の根本変革の可能性については常に懐疑的な視線を投げかけている。改訂版が存在するのか、それとも同著者による別の論考が存在するのか、知りようがないが、もし存在するならばぜひとも翻訳出版されるべきだと考える。米国並びに石油コンソーシアムに加担する欧米諸国や日本によって湾岸諸国り歴史と実態は故意に隠され続けていると言っていい。不正義な国境策定によって齎された石油を≪持つものと持たざるものの不均衡≫や利権と政権の独占による≪非民主主義的な国家の実態≫について世界が目を瞑り、そこに加担している事実は衆目の下に晒されるべきであるし、それを踏まえて尚、イラクやイラン、北朝鮮といった国々の政権を非難し、攻撃を加える権利を誰が有するのかが問われなければなるまい。片方の不正義に加担しつつ、もう一方の不正義を断罪する権利など我々のうち誰ひとりとして決して持ち得ないことを自覚すべきだ。

3/17 『イラン現代史』(廃刊) 加賀屋寛 歴史 ★★★

 本書は1975年に初版発行の後、廃刊となっているもので、当然イラン革命の前で終っている。だが、実は日本で出版されたイラン現代史に関する単独の著書は本書がほとんど唯一のものである。イラン革命当時にはそれに焦点を合わせた出版物が僅かばかり出たが、その後は石油貿易分野を除くと、西アジア地域史の一部として以外まとまったイラン史を俯瞰したものは見当たらない。さてその経済分野の著作として、2003年1月、『中東石油利権と政治リスク』を読んだわたしは「いまひとつ感心できないのは著者の米国に対するシンパシーのあり方に原因があるのだろうか?」と批評したが、問題は『中東石油利権・・・』の著者の西欧文化に対するシンパシーのあり方以上に、事象を歴史的文脈の中に置いて考察することが出来ていない点にもあったようだ。本書を読むと容易に理解できるが、イラン=イスラーム革命は歴史的必然の上にあり、それ自体感動的な歴史のエピソードであるタバコ・ボイコット運動やイラン各地で起こった市民の手になる数次に渡る立憲革命、外国政府による植民侵略と干渉、そして国民を顧みない国家(王政~クーデター~僭王政)、近代化とイスラーム、ペルシア主義とアラブ主義の対立軸を考察せずに、その伏線であった石油開発事業の国有化の流れだけを追ってみても不足感は否めないということだろう。本書では石油国有化後の米国の主導するコンソシアムによる利権の収奪と、民主運動の弾圧を加えた国王支配に対する抗議運動の高まりと、脆弱に過ぎる国王が都度、逃亡と復権クーデターを繰り返す様が描かれ、米国の積極的軍事支援により、ようやく秘密警察国家としてではあれ、強権を掌握したかに見えた国王の手になる、上からの白色革命とその下で齎された経済的繁栄のうちに一応の落ち着きを見せ始めた状況で終る。だが、後のイスラーム革命までは予見できないまでも、著者は最後にこう呟いてみせる。「≪脆い大国≫≪危険な大国≫への道を走りかねない」と。危険かどうかはともかく、この≪脆い大国≫は78年、学生たちの指導によって火蓋を切ったイスラーム革命によって79年、完全に葬りさられることになる。まさにその直前に書かれた著作であり、イスラーム革命の手前で終るが故に本書は増版に至らなかったものであろうが、その価値は現在においても非常に高く評価していい。

3/10 『現代中東とイスラーム政治』 小杉泰 政治 ★★

 主にエジプトとサウジアラビアを中心として、イラクやイランに及ぶ中東各国内部におけるイスラーム政治と近代化=西欧化の間に横たわる相克を論考したもの。種々多岐に渡るアラビア語(イスラーム用語)の概念は複雑だが、文章そのものは平易で、簡潔なものである。冷戦の終結後、終焉を迎えたアラブ民族主義(ナショナリズム)に代わって、台頭してきたのが、我々西欧化された者にとってのイスラーム原理主義=それは本質的にはイスラーム復興主義とも言うべき概念であるが。。。それは第三次中東戦争の大敗とナセリズムの失敗によって、現存のイスラーム国家に対して、幻滅を抱かざるを得なかったことにより、それにとって代わるアラブ行政府の否定・革命路線として出立したはずだった。それが今日のようにキリスト教文明vsイスラーム教文明という構図で描かれることになったのは、オイルマネーとその覇権を巡る欧米と現アラブ行政府の結託と攻防のうちに、イスラーム復興主義者が背後の敵を見たからにこそ他ならない。著者は中世からのイスラーム四大法学派の軌跡を簡単になぞることからはじめて、イジュティハード(コーランとスンナに基づくイスラーム法規定の発見)の完結に関する疑義申し立てを最大勢力(多数派)であるマナール学派と伝統派の対立軸とし、イラン・シーア派の齎したイスラーム国家出現によるその実現性を考察する。またサウジアラビアにみるワッハーブ学派の展開、エジプトにみるイスラーム憲法案起草とその後の展開のうちに、世俗主義vsイスラーム復興主義の対立構図を描いてみせてくれる。だが、本書は唐突にそこで終る。恰も解決不能な問題として投げ出してしまうかのように。。。いや、モチロン、なにか妙案が浮かぶ訳でもない。その対立構造は不可避なまでに決定的であるかのようにも思える。だがそれとは別に、我々西欧化された社会の持つ認識によらないイスラーム法治国家の枠組みを提示することで、介入主義的にそれを扱うのではなく、その必然性故に、彼らイスラーム国家実現の実験を支援し、見守る姿勢をこそ主張して終るべきではなかったか?我々はと言えば、イスラーム刑法の残虐性を非難しつつ、議会制民主主義と資本主義、近代化による先進諸国・経済大国としての文明を誇る我々の側に、売春や援助交際、不倫・風俗文化を華開かせ、強盗や殺人、汚職の構造に加え、武力による恫喝を下に、他国の主権まで犯そうと戦争を煽っている。。。西欧的概念によらないイスラーム的社会構築の実験も、その諸国民が多数派として民主的に選択するのであるならば、実験的試みがあって然るべきだし、それを邪魔立てしたり、弾圧したりするべき権利を我々は持たないだろう。ここではこれ以上の考察は差し控えるがいずれ、他で述べることになるだろう。本書自体はやや概説に留まる踏み込みの浅さとあちこちをつまみ食いしたようなまとまりのなさもあって、お薦め度はやや下目。悪書ではないが、専門書とも言い難い。

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 ↓でも述べたように24年ぶりに『ギリシア悲劇全集』を再読した。
はじめて接する方のために近代の演劇・戯曲と大きく異なる点を列記して置く。
 1.主要なアクション(動作・・・殺害や戦いの場面)はすべて舞台の袖で起きたこととして台詞にて語られる。(最初期においては舞台への登場と朗唱だけであったとも考えられる。)
 2.すべては仮面を着けた男性の役者によって繰り広げられる。(子女役もすべて。)
 3.初期には、コロスと呼ばれる合唱隊が、文字通り唄によって物語りの展開を支えたが、エウリピデスの時代に至ると、役者ひとりひとりの台詞廻しと些かの動作によって演じられるように変化する。
 4.各市にひとつはあったと言われる野外劇場で演じられるため、舞台装置だとか、そういった背景は極めて簡素なものであった。(衣装なども後期に至ってようやく多彩なものとなった様子。)
 5.大元となる題材は共通した範囲に限られていたが、独自の脚色は自由裁量に任されていた。
 6.印刷術もなく、羊皮紙とて高価で貴重なものであった当時、人々は口承文学と演劇によっており、そういった意味でも謳われる詩≪読むための詩劇・・・レーゼドラマ≫として愛された。


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3/5 再読『ギリシア悲劇全集 Ⅳ』(廃刊) エウリピデス 文藝 ★★

 エウリピデスの作品は様々な意味で他のふたりとは異なっている。↓にも書いたように神の定めた運命に抗おうとする人間のドラマではなく、人間のエゴや醜さを描いたものが多いことに加え、デウス・エクス・マキナ(”機械仕掛けの神”と呼ばれ、舞台操作により中空に登場する神)を用い、悲劇を締めくくるケースが非常に多いのも特徴である。(私的にはあまり感心しないし、エウリピデスが一部の批判を浴びる原因のひとつともなっている。)また本書に収められた作品の多くは悲劇とは言え、その結末は意外なほどにハッピーエンドである。勿論、作品中には、登場人物による悲痛な嘆きが聞かれるが、それも結末のカタルシスを高めるための伏線でしかないとも言える。まさに娯楽としてのギリシア古代劇のありようを見て取ることもできよう。
 ヒッポリュトスが自分を敬わないことに怒ったアフロディテは、後添えの王妃パイドラが先王妃の遺児である彼に恋するよう仕向け、拒絶され死を選んだパイドラの姦計により、強姦の罪を着せられたヒッポリュトスが父王テセウスによって呪われるままに死にゆく『ヒッポリュトス』でも、死の間際には疑いを晴らし、父王との和解を迎えるし、テーバイ攻略に殪れた七将の亡骸を埋葬すべく、アテナイへと助力嘆願に来た老婆たちを描いた『救いを求める女たち』ではテセウスの働きによりその亡骸を葬ることが叶う結末である。オレステスとエレクトラによる復讐劇を描いた『エレクトラ』でも他のふたりの作品とは異なり、オレステスの旅立ちの趣きがやや軽いとも言える。アウリス(後述)で生贄とされた筈のイーピゲネイアが神謀により生き延び、幽閉されたタウリケへ末弟オレステスが別の神託のもとに現れて会合するという『タウリケのイーピゲネイア』ではふたりして逃げ延びることに成功するし、それはトロイアのヘレネは実は神によって雲で作られた贋者であったという、もうひとつのヘレネ伝説を取り上げた『ヘレネ』でもほぼ同じシチュエーションを辿っている。だが、テーバイ攻めの戦いを描きつつ、オイディプスの物語を総括するかのような『フェニキアの女たち』はここまで紹介した作品とは異なり、正真正銘の悲劇と言ってよかろう。やや内容を詰め込み過ぎた感もあり、場面展開においてやや荒削りな部分もあるが、ギリシア神話中ではそれほど詳細に語られることのないオイディプス王の挿話を全体として眺めることが可能な唯一の作品である。他には、母クリュタイメストラ殺害を果たしたオレステスを襲う狂気と追放の裁きを伝える『オレステス』や、酒神ディオニュソスへの不敬から母と姉妹によって引き裂かれてしまうペンテウスを描いた残酷劇『バッコスの信女』、そしてトロイア遠征の折り、船出の生贄としてアルテミスへ捧げられるのを、アキレウスとの婚礼と騙されて誘き寄せられたイーピゲネイアの悲劇『アウリスのイーピゲネイア』など現存するすべての作品が収められている。いわゆるアクションがすべて舞台外で進行することは、これまでにも何度か述べたが、その展開を伝える使者の言辞に寄せられるエウリピデスの描写は他のふたりと比して抜きん出てリアリズムに縁取られており、その生々しい筆致は或る意味、ショッキングなまでに残酷でもある。本巻中では『フェニキアの女たち』『バッコスの信女』の2作品を評価したい。

2/21 再読『ギリシア悲劇全集 Ⅲ』(廃刊) エウリピデス 文藝 ★★★

 三大詩人の中でも最年少であるエウリピデス。そしてその作品にはそれまでのふたりとはやや趣きが異なってきつつあった当時の様相を見てとることが出来る。アイスキュロスやソポクレスに登場する人物像たちも愚かではあるけれど、それが根本的に神々と人間の物語であるが故に、神々に比しての人間の愚かさであって、喩えどんな非道をなそうとも登場人物は愚劣とは言い切れない。すなわち、愚かさのあまり運命を受け入れることに足掻く人間像を描いているが、エウリピデスの作品に登場する人物たちは、ただ愚かなだけではなく、狡く、卑怯な悪人としての愚かさを一際、特徴立てている。したがって神の定めた運命と人間の物語というよりは、人間(善)と人間(悪)のドラマがそこに展開されてゆく。その所為もあってエウリピデスの作品は、細やかな描写と台詞廻しで、朗読からスタートしたギリシア悲劇を、近代的な「演ずる為の舞台劇」へと向う途上の姿を垣間見せている。人間的なドラマ性は3大悲劇詩人の中でも卓越した冴えを見せるが、個人的には神々の不条理と闘うという視性を含んでいたソポクレスやアイスキュロスに比すと、物語自体の持つ壮大さという点では一歩引くように思えるのだが。。。
 本巻では、夫の身代わりとなって死を選んだ貞淑な妻を巡るさまざまな人々のエゴを描き、ヘラクレスによる死神からの奪還で終る『アルケスティス』、夫イアソンの裏切りを前に、王と新婦、そらには我が子までを殺してしまうメディアの狂える怒りを描いた『メディア』、ヘラクレス亡き後、その幼子らを襲う危機とその回避を描きつつ、その後日談へと続く予言で締めくくった『ヘラクレスの子供たち』、トロイアからの戦利品=奴隷であるアンドロマケはネオプトレモスの子を産むが、その後正妻となったヘルミオネは子宝に恵まれず、妬みからその殺害を企むが失敗し、挙句は放浪の身のオレステスと共謀して、夫を殺害するに至る、その経過を描いた『アンドロマケ』、トロイア落城のかの地で、亡きギリシアの闘将アキレウスの墓前に娘ポリュセクネを生贄とされたトロイアの妃ヘカベを襲う二重の不幸、末子ポリュドロスの死と復讐劇とその後の暗雲を示唆する『ヘカベ』、前半と後半の繋がりが些か無理があるように思えるが、妻子の危機を前にしたヘラクレスの帰還(前半)と、彼をヘラの狂気が襲い、自らの手で妻子を殺害してしまう物語『狂えるヘラクレス』、生き別れの子との数奇な巡り合いの顛末『イオン』、トロイア落城後の妃ヘカベの嘆きを主軸にギリシアへと奴隷の身で運ばれゆく女たちの悲運を描いた『トロイアの女』の他、トロイア戦争に駆けつけたレーソスがオデュッセウスの姦計の前にあっさりと敗れる小品『レーソス』と同じくオデュッセウスと一つ目巨人キュクロプスの闘いを描いたサテュロス劇(喜劇に近い)『キュクロプス』の2話を含む、計10話収録している。
 なかでも大きなドラマはないものの、すこぶる丁寧に物語を展開させ、細やかな情感に満ちた人物像を創り上げたトロイア戦争にまつわる『トロイアの女』『ヘカベ』、やや結末に不満がないとは言えないまでも狂おしく凄まじいばかりの怒りを謳った『メディア』はエウリピデスの作品中でも傑作だろう。

2/16 『現代中東の国家と地方(Ⅱ)』 伊能孝次・松本弘編 政治 ★★★

 上巻では、どちらかというと前近代的な封建的段階からの脱却に戸惑っているの国々の中央=地方関係を取り上げていたが、下巻である本書で扱われる国々は、まさに近代的な歪みの構造を発展させてきた似非民主主義や独裁国家群と言っていい。そう言う意味では貴重なだけでなく、上巻に比べるとより面白みがある。
 近代西欧主義とイスラーム、民主主義とナショナリズムというふたつの相克の狭間に揺れ、かつての大帝国としての歴史的背景を持つ≪トルコ≫。本来、下からのイスラーム革命により成立した筈の≪イラン≫が、打倒した筈のパーレビ王政下のシステムを変えることなく、宗主支配と政府機構の二重構造の歪みの中で中央支配を続けている行政の実態を見つつ、片やアラブ社会主義を掲げたバース党独裁による≪イラク≫でも多数のシーア派国民やクルド民族を抱えつつも、いまだにフセインを支え続ける支配体制の構図を開示してみせる。同じくバース党によるクーデターによって成立した多民族国家でありながら世襲制大統領を敷いた≪シリア≫の矛盾、そのシリアを上回る多民族モザイク国家であり、内戦とイスラエルの侵攻に一度は国家を壊滅させた≪レバノン≫では、不明瞭ながらも、内戦前と現在のターイフ和平合意体制における変化やその実態を垣間見ようと解析を試みている。石油大国として王政下で地方と人民に君臨し続ける≪サウジアラビア≫では地方からの税収によらない=中央からの石油収入に頼らざるを得ない地方財政と王族による支配構造の実態、そしてフランスとの独立戦争を経てFLNの社会主義的独裁体制を崩壊させた≪アルジェリア≫については動乱の歴史を概観することにほぼ終始しているが、現時点(ブーテフリカ体制)の網領における民主化の試みが、所詮、国際社会が要求したシステマチックな部分での民主化に過ぎず、そうしたシステムを用意したところで、国民との和解なき民主化が到底果たせぬ課題であろうことを実感させてくれる。そういったことどもが、≪国家体制=中央政府と地方自治行政≫の文脈の中で政治的熟成度、人民の政治参加度、そして民主主義そのものの抱える虚偽を如実に浮かび上がらせてゆく。
 おしむらくは総括としてのまとめがないことで、上下二巻を通じて浮かび上がってきた様々な問題を比較検証しつつ、過渡期的行政システムのさまざまな方法論に対する分析と、その根幹に求められるべき理念=≪民主化と政治参加≫そのものの検証を今後に求めたい。

2/13 『現代中東の国家と地方(Ⅰ)』 伊能孝次・松本弘編 政治

 非常に貴重な本ではあるが結論から先に言えば取り立てて面白みのあるものでもない。タイトル通り、現代中東各国の中央政府と地方行政府の関係を論じたもの。そのパワーバランスを通して見えてくるのは各国は近代化と民主化度合いの変遷過程。単に《地方分権型》と《地方分散型》の差異ではなく、憲法と行政管轄、中央統制のあり方を見てゆく上で、行政区分の変遷や選挙制度、任命制度のあり方など多岐に渡る視野が必要とされてくる。モチロン序文にあるように本書は試みとしての概説書に留まらざるを得ず、制度の運用と実態の問題については踏み込めていないが、特に実態調査の難しい各国情勢下にあってこういった視点からでも国民の政治参加の実勢が読み取れるように思われるのはやはりユニークな企画である。↓の『パレスチナの政治文化』よりはずっと有意義か?中でもエジプト、スーダンなど比較的文献に恵まれた(?)国々ではない、モロッコ、チュニジア、ヨルダン、イエメンの4ヶ国については地域区分図などの資料と合わせて非常に興味深い。本書を土台にした実勢報告が待たれる。

2/7 『パレスチナの政治文化』 浜中新吾 政治統計学 ×

 まず最初に本書は”統計学”の立場から書かれているということを述べて置かなければならない。そして私的には”統計学”というものに極端なまでの偏見を抱いているということも。。。。。これほどの嫌悪感を感じながら頁を捲ったのも久々だ。
 外部機関が既に公表しているサーベイ・データに基づき、さまざまな変数を利用してその分析を試みた本書で著者はいくつかの仮説を立て、それを否定したり、肯定したりするための検証データを開示してみせる。だが第一章で簡略化した机上論的に概念説明を試みているとは言え、それは先行学者たちの研究を概説したのみに留まり、自身の概念説明を明確にしないうえに、かなりの部分を規定概念として不問にしながら勝手な仮説を立証=反証すべく論理を展開してみても土台そこから真実が見えてくる訳ではない。また”変数”と”仮説”を弄った結果として。。。数量データに”変数”という操作を弄れば事実上どんな結論を導き正当化することも不可能ではない。そして当然の如く、計量化されたデータの中にはマクロといえミクロといえ、パーソナルなものは存在しない。
 まずもっていまだ議論されることのない≪民主主義≫とは何を指すのか、≪民主的≫とは何なのか?≪ポピュリズム≫は果たして民主主義の一形態なのか?被抑圧者であるパレスチナ人にとって抑圧者の-いかようにも解釈可能な-論理である≪民主主義と権利と自由≫がどのように理解されてきたのか?といった様々な問題を踏み込まずにいながら、パレスチナにおける「民主主義と和平主義」の相関を否定した解析を下敷きにして、著者が演繹してみせたのは「政党選択と和平主義」の相関?!。。。パレスチナにおいて政党選択と和平交渉の政治意識が合致するなんて当然のことではないか?それ以外になんの政党選択余地が存在するのか?著者はさまざまな語句を駆使しながらなんとかそれらしく説明しようと試みているが、解析結果に対してさまざまな観点からの解釈を試みずに前提とした仮説の是否にしか目を向けない結論ありき的考察には嫌悪感しか感じ得ない。
 ひとつひとつをあげつらうスペースもないが「イスラームと個人の自由権利主張」や「イスラームと寛容性」では前者で相関なしとし、後者で相関ありとした上で、女性やキリスト教徒に対する非寛容性をイスラーム自体の保守性と関連付けているが、まず前者では被抑圧者としての被害者的意識から決してイスラーム的とは言い難い暫定自治政府に対しても、発言の自由と権利の主張を繰り出すのは”保守的”イスラーム主義者として当然であり、後者では”保守的”イスラーム主義者が女性やキリスト教徒パレスチナ人に対して寛容でないのも数量分析や変数パラメーターによらずともそもそも明らかな事象に過ぎない。それをパラメーター化することで全体傾向に摩り替えて更にその上に論理を積み上げてゆこうとするのは、悪い冗談としか思えない。
 一切のフィールドワークによらず、既存のデータを都合よく操作しながら積み上げたこれは果たして政治論文なのか、ただの統計学論の開示サンプルに過ぎないのか?そもそも著者が最初に分類した「自由民主主義グループ」「中間グループ」「似非民主主義グループ」という数値データのグループ分けそのものが安直であり過ぎる。その根底にある≪西欧的自由民主主義国家体制は平和主義的にであり、他者の自由と権利保障に対して寛容主義であり、武力闘争を回避し、対話による和平を推進する≫ものだという前提は、皮肉にも現下の米国主義を見るにつけまさにブラックジョークと化す。サーベイデータそのものも和平ムードにある時期と、和平沈滞ムードにある時期と、現下のように危機の構図にあるときでは当然変わってくる。そこにある民主主義が国民総体の声を反映するものであるとすれば著者がここで理想として掲げた自由民主主義体制とは何ものをも保障しない。ヒステリックな特定の方向性を持たない大衆エネルギーはその時勢状況がさまざまな方向へと向けてゆく。国民の総意を≪モデル的な或る一点≫へと向けさせようとするのは民主主義的ではない。もはや玉石混合の曖昧極まりない≪民主主義≫などという言語を使って解析すべき時ではない。それに代わりうる明確な概念を提議できなければこういった議論は不毛でしかない。そういう意味ではろくすっぽ説明されもしないのに随所で振りかざされる≪ポリアーキー≫(R.ダール)という概念は計量化されたデータにおいて検討を加えられる指標とはならず、なんのために冒頭から引き合いに出されるのかも不明瞭だ。また計量化されたデータでは解析しようのないパレスチナ社会におけるキリスト教徒のもつ特殊な立場や発言力を考慮できていないし、占領パレスチナにおいて『まず≪教養≫を≪学歴≫とみなして≪大卒以上≫を学歴からみた中産階層とする(全ケースの13%程度)。』P101・・・とはいったいどんな状況認識と構造認識が吐かせるセリフなのだろうか?そもそも副題が「-民主化途上地域への計量的アプローチ-」となっているが、暫定自治政府と雖も機能不全な上に空洞化している現況下で、本来的に未来のことを占う視座であるのにか?
 また現存する欧米型民主主義国家群がパレスチナ人民にとって理想的なモデル型政府を提示できていない状況で、”理想化された”イスラーム・ユートピアによる統制のある社会を要求する人々の声が上がることはあながち不思議でもなんでもない。
 第五章に至ってはじめて著者はパレスチナ暫定自治機構の実情と市民コンセンサスについて考察してみせるがこれが今回あらたに付け足されたものであるのは明白。本来はここからはじめて、この上に立脚して解析すべきであってそれ以外に道はない。また≪自由民主主義志向≫がイコール≪中東和平志向≫とは結びつかないとの解析結果をまとめて置きながら、尚も『それでも3分の2以上が中東和平への支持を示している』のだから希望もなくはない・・・との言い訳部分を読むまでもなく浮かび上がってくる著者の意識根底に刻み込まれている≪中東和平≫を目指す人々は≪民主主義的≫=進歩的市民であり、≪和平≫を拒否する人々は≪反民主主義的≫=未文化な市民であるという思い込み(錯誤)はいったいどこから導かれたものなのだろうか?そして著者は将来のパレスチナ政府についてこう予言する『ポピュリズム型権威主義体制に近づいていく』と。。。それは昨今の米国・日本のことなのか?

 蛇足))著者略歴・・・1970年生まれ、和歌山大学教育学部卒、神戸大学大学院国際協力研究科修了、山形大学教育学部専任講師(政治学)、博士。
 本書は神大国際協力研究科に提出された博士論文に手を加えたものという。こんなものに博士号をくれてやるとはいったい?!下で紹介した森まり子(偶然にも二人は同い年である)の博士論文とは雲泥の差だし、更に下で紹介したトラヴェルソの博士論文もほぼ同い年で上梓されているが比較のしようもない。。。しかもたった160頁を本文とするこの本。。。実に6000円もするのだから怒り心頭である。(笑)

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 破れかけの読書記録(大学ノート)を捲ってみる。。。下記『ギリシア悲劇全集』を読んだのは78年12月から79年の1月にかけて。つまりは高2の冬、24年前ということになる。当然の如く、当時とは比べものにならないくらい舞台となる世界をより深く理解できる。だが同時にすっかり本の読み方が変わってしまったことにも気づかされる。容易には物語の世界に入っていけない。。。批判的(=批評的)な距離感が身についてしまってどこか醒めた目で読んでしまいそうになる。だが同時に名作はやはり時を越えて名作であることも実感させてくれる。エウリピデスの2巻は少し間を空けて。。。


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2/3 再読『ギリシア悲劇全集 Ⅱ』 (廃刊) ソポクレス 文藝 ★★★★★

 三大悲劇作家の中でももっとも素晴らしいソポクレスの全作品を収めた本書はまさに悲劇と呼ぶに相応しい重厚で迫真的なストーリー展開を繰り広げる名作揃いである。
 トロイア戦争で殪れたアキレウスの鎧を巡る争いでオデュッセウスに破れた武将アイアスの憤死を描く『アイアス』、英雄ヘラクレスの妻が嫉妬から望みもしない呪いを夫に掛けて死に至らしめてしまう『トラキスの女たち』、オイディプス王のふたりの遺児が互いに殺し合い殪れた後の、骸の埋葬を巡る悲劇『アンティゴネー』、アガメムノーンの遺児による母親と愛人の殺害を描いた『エレクトラ』、フロイトによるエディプス・コンプレックスの基となり、ギリシア悲劇の代表作とも言うべき『オイディプス王』ではスフィンクスの謎解きから王位に就いたオイディプスを襲う父親殺しと近親相姦というおぞましき運命を描き、『ピロクテテス』はトロイア戦争半ば一旦は怪我のため孤島に置き去りされたもののあらたな神託の下、彼を戦列へと復帰させるべく遣わされたオデュッセウスとメネラオスの姦計を軸にしたドラマであり、『コロノスのオイディプス』は流浪の身となったオイディプスが齎す遺児たちへの呪詛と彼の昇天に至る顛末を描いたもの。不条理としかいいようのない人間の歩みを、逃れようのない≪運命≫と因果律や呪い、そして謀るべくもない≪神意≫に操られた悲劇として提示しつつ、人々に不条理なる人生を受け入れ、神と徳性を敬うことを軽んずる勿れと説き明かしてゆく。一般には勘違いしている人も多いが、ギリシア悲劇はギリシア神話物語などではなく、まさに運命に翻弄される人間の悲劇と愚かさを凝縮した形で抉り出したものだ。どの作品も甲乙つけ難いものばかりだが、中でもおぞましくもミステリー性を帯びた展開に引き込まれずにはおれない『オイディプス王』や、人間の愚かさを暴き出した『アンティゴネー』と『トラキスの女たち』は生き生きとした想像力に富む場面をひとつずつ読む者に突きつけずにはいない。文藝図書の評価は所詮、人それぞれの趣味の問題に過ぎないが、好き嫌いを越えて一度は是非読まれるべき作品群である。

1/29 再読『ギリシア悲劇全集 Ⅰ』 (廃刊) アイスキュロス 文藝 ★★★

 本書はとうに廃刊となっており、現在では岩波書店版の『ギリシア悲劇全集』か筑摩文庫の『同名』に拠らざるを得ない。本版ではまず冒頭にギリシア悲劇についての詳細な総括を通じて我々の思い込みを訂正してくれるので、ギリシア悲劇にはじめて触れる方はぜひにも読んで頂きたい部分である。ギリシア悲劇というのは通常想像するような演劇ではなく、仮面を被った役者によって朗読され、詠われるものであって、演じられる要素の非常に少ないものであるということ。故にこそ三大詩人と呼ばれる由縁でもある。またいわゆるアクションはすべて舞台外で起こるものであって、舞台上で人々が争ったりするシーンなどは決して行われない。そういった≪演技動作≫は常に舞台の外にあるのだということを知っておくべきであろう。また悲劇と称されるとはいえ三部作(現存するのは下記オレステイア三部作のみ)としては決して悲劇として終わらないものも多いということ。(寧ろ神々の加護を称え、人間を戒めるハッピーエンドもめずらしくない。・・・あらすじだけは伝わっているため。)
 収録作品は、人間に分不相応な≪火≫を齎したとしてゼウスの怒りに触れたプロメーテウスの怒りと神々の不条理を綴った『縛られたプロメーテウス』、ペルシャ軍との戦いに勝利したアテネにおいて敗陣を喫した敵側ペルシャの人々の立場にたってその嘆きを謳った『ペルシアの人々』、トロイア戦争に勝利して戻ってきたアガメムノーン大将の妻による殺害から始まり、実子によるその復讐と呪いの解浄までを描いたオレステイア三部作『アガメムノーン』『供養する女たち』『慈しみの女神たち』、そしてオイディプス王亡き後ふたりの息子たちが殺し合う悲劇を描いた『テーバイに向う七将』、女神ヘラの嫉妬により牝牛と化したイーオーの子孫ダナオスの娘たちが親族間の婚姻を嫌ってアルゴスに助けを求める『救いを求める女たち』など現存する七作品のすべて。
 ここではやはり『縛られた・・・』と『テーバイ・・・』や『アガメムノーン』の堂々とした力強さがコロス(物語の節回しをする合唱隊=コーラス隊)の詩歌を中心に作品を完成させたアイスキュロスの力量を遺憾なく発揮している(三大詩人の中で一番古い世代 BC.525生)し、最古の反戦劇とも謂える『ペルシア・・・』と同じく最古の法廷劇である『慈しみの・・・』が異色だろう。また三部作として現存する唯一の作品オレステイア三部作も全貌を垣間見せてくれるまさしく貴重なものである。

1/25 『ヨーロッパとイスラム』 梶田孝道編 政治経済 ★★

 副題を「-共存と相克のゆくえ」とする本書はヨーロッパ各国における「ムスリム問題」を扱ったもの。出版は93年と古いがこれまで本書がわたしの目を惹かなかったのはそのタイトルに原因があるのだろう。テーマ自体はますます混迷を深めている現在進行形の問題である。第Ⅰ部では、移民、外国人労働者、難民としてヨーロッパ各国(ここでは特に英・独・仏を中心)に居住するムスリム(南アジア~アラブ諸国に至るイスラーム教国の人々)の永住度合いが深まる中で、現地における第二世代が誕生するに連れて発展してきたイスラーム・コミュニティが母語教育や宗教教育問題をはじめとする様々な要求を掲げるに連れて生じているホスト国との摩擦を扱う。それらは近年のアラブ紛争やイスラム原理主義運動のあり方、またヴェイル(スカーフ)着用問題などと相俟って大きく取り沙汰されている。ホスト国毎にその政策と状況は異なり、また第二世代の方でも様々な分裂を抱えているため、その動向は画一化できるものではない。導入部を飾る「総括」は非常によくまとまっているが、それが本論より先にある所為であとに続く各論がどうもつけ足しのように思えてしまう。他10人の研究者からなる本書だが、本来は叩き台であるべき序論(「総括」)が第Ⅰ部のみを対象としている上に、各国事情まで詳細に論じてみせるのは、むしろ各論を叩き台にして「総括」してしまっているからだろう。だとすれば「総括」は(主旨の異なる第Ⅱ部を別にして)最期を飾るべきだ。各論の著者をなおざりにした感が少し不快でもある。
 また第Ⅱ部はタイトルや「総括」からするとまったく別個の論考であるが、マケドニア~ボスニアにおける「ムスリム」概念の変遷を扱った大庭千恵子と、ブルガリア現代史におけるトルコ人問題を扱った今井淳子の二論考はきわめて貴重であることを敢えて付記しておきたい。
 さらに本書では取り上げられないが第Ⅰ部で取り上げられたような「ムスリム問題」が果たして自然に派生してきたのかどうかという問題もあろう。もちろん、構成員の人口的拡大により自然な要求として当然起こるべきものではあるが、それ以上に中東紛争やイスラーム教に対する無理解と≪メディアの一方的な扱い≫に乗じた蔑視や偏見、憎悪に対するカウンター・カルチャーとしてムスリム・コミュニティやナショナリズムの醸成が行われ、むしろ同化へと向っていたはずの彼らを「イスラーム」へと促した側面も大きいのではないだろうか?本書から10年、今後そういった視点からの考察も待たれる。

1/23 『社会主義シオニズムとアラブ問題』 森まり子 歴史政治 ★★★

 副題を「-ベングリオンの軌跡 1905~1939-」とする本書は、その副題通りシオニズムの創始者であるヘルツルではなく、後に初代イスラエル首相となったベングリオンの軌跡を追いながら、なぜイスラエルの建国が当初の理想郷として結実せず、アラブの犠牲と叛乱を伴う形でしか実現できなかったのか、また当初から社会主義と表裏一体に進められてきたはずのベングリオンらによる国家建設が如何にしてその基本概念を放棄してゆくかという過程を描いている。
 社会主義シオニズム。。。労働者階級の連帯を謳いつつ、民族主義領土国家の建設と他民族共存を夢見るイデオロギーは一方で帝国主義的な手法によってしか成立し得ないという矛盾を抱えていた。そもそも≪シオニズム≫と≪社会主義≫というこのふたつの概念は両立し得るのか?
 また前近代的な農耕と商業によっていたパレスチナの地にそもそも存在もしない≪労働者階級≫の団結を求め、まさに資本主義的な土地買収によってその領土獲得を目指した≪シオニズム≫は西欧進歩主義的神話と相俟って、≪社会主義≫の根幹であるはずの≪平等な社会≫という原則を満たし得なかった。思想家などではなく政治活動家に過ぎないベングリオンは、その生涯の幾度かで理想主義者と実際家(現実主義者というにはあまりに功利的な判断でしかない)の間を揺れ動く。ブント(ユダヤ社会主義労働運動)の主張する「領土を跨ぐインターナショナルな社会主義を基にした民族文化自治構想」との対決を経て、シオニズムに社会主義を融合させたボロホフへと至る流れから書き起こし、そしてついに1906年パレスチナへの上陸を果たしたベングリオンの揺れ動く様を当時の現地情勢を絡めながら描いてみせる。そして後のリクード党へと繋がる右派ジャボティンスキーはベングリオンの矛盾を突く形で必要「悪」として≪修正主義運動≫を唱え強硬路線を走り始める。それは社会主義の理念と労働運動の正義性というお題目の陰に隠されてきたナショナリズの牙が剥き出しとなった瞬間でもあった。その後1928年の暴動を経ても尚、ベングリオンは連邦国家構想を発表したかと思うとジャボティンスキーと共闘したりする。入植民の増化とヘブライ労働運動やキブツでの成果はアラブとの間で一層の紛争と分裂を深め、アラブの抵抗運動が植民地政府である英国へと向けられた38年、なんと英国王立ピール委員会はパレスチナの「分割」と住民交換「移送」を提案するに至る。それはまさに東欧からユダヤ人がナチスによって「移送」されてゆく現状を横目で見ながらのものですらあった。(この辺の詰めは些か甘い。。。まさしくシオニストたちがナチズムに対して対抗しなかったことの責任を見てとることが可能であるのに。)そしてこのとき放棄された普遍的正義は10年後にパレスチナ全土を血で染め上げることになる。
 結論部で著者は≪ベングリオン連邦国家構想≫や第二代首相シャレットの穏健策になんとか救いを見出そうと努力しているがそれは余計か。ただ今年でようやく33才を迎えるという女史が、よくある二次資料(出版物等)を中心とせず、5000ページを越える膨大なヘブライ語原典の一次資料に当りながらまとめあげたという点は十二分に評価できる。ただベングリオンを追うあまり本来主流であったはずの一般シオニズム=国際ユダヤ人会議の動向などが連繋して描かれておらず、当時の状況を再現する意味では少しばかり残念ではある。

1/19 『マルクス主義者とユダヤ問題』 エンツォ・トラヴェルソ 思想 ★★

 本書は昨年出逢った『アウシュヴィッツと知識人』、『ユダヤ人とドイツ』の著者であるE・トラヴェルソが32才のときに書き上げた学位論文を基にしている。そういった意味では読書順はまったく逆さまになってしまったが。。。それはともかく副題にある『~ある論争の歴史1843-1943年~』は若きマルクス(いまだ『資本論』の著者ではない)が1843年に書いた論考『ユダヤ人問題によせて』からアウシュヴィッツで死んだアブラム・レオン(当時23才)がユダヤの歴史から起してシオニズムか社会主義かに揺れるユダヤ民族史を展望した著書『ユダヤ人問題の唯物論的解釈(邦訳『ユダヤ人問題の史的展開』)』が書かれた1943年に至る100年を総括している意。
 中身の方は原題≪マルクス主義者たち(複数形)・・・≫とある通り、その間100年に渡る西欧と東欧・ロシアのマルクス主義者たち(カウツキーからレーニン、トロッキー、ローザ・ルクセンブルグ、グラムシ、ベンヤミンetc)の、≪マルクス主義とユダヤ問題≫に対するそれぞれの視点スタンスを追ってゆく。そこに浮かび上がってくるのは、ユダヤの出自であるとか、非ユダヤであるとかいった単純な溝ではなく、当時のユダヤ人たちの間にあった分断と分裂の様相でもある。ナポレオン革命以後、ゲットーから解放された後、急速に同化を成し遂げた西欧ユダヤ人たちと、ゲットーからブント(ユダヤ社会主義労働運動)へと形を変える中で民族形成を成し遂げつつあった東欧ロシアのユダヤ人たち。典礼としてのみ伝承されつつあったヘブライ語を傍らに、それぞれの居住する国の言語に呑み込まれ同化することを目指してきた西欧ユダヤ人対し、東欧ロシアのユダヤ人たちはイディッシュ語による民族文化を開花させつつあった。資本主義はブルジョワとプロレタリア階級だけではなく、その両者とも対立し得るプチブルジョワ層を育てあげたし、それぞれの階級によって分断されたユダヤ人たちは自らのユダヤ性からの解放の道を探し求めていた。一方、まさに反ユダヤ教徒主義が近代的な反ユダヤ人種主義に変貌しつつある中で、多くのマルキストたちはそれを非近代的な民間伝承として問題軽視していたし、資本主義の展開(社会主義へ至る道筋)の中でそれらは自然に消滅してゆくはずのものだという意識でしか捉ええなかった。民族の枠を超えてプロレタリア連帯(民族性の否定=階級としての連帯)のうちにこそユダヤ問題の解決策を夢見るマルキストにとっては反ユダヤ主義闘争に関わることはむしろ足下を掬われる気分ですらあったろう。かたやブントはユダヤ問題の解決としての社会主義を唱え、シオニズムはまさに資本主義=帝国主義的にパレスチナを植民地化することでユダヤ問題の解決を訴えつつ、そこに社会主義的ユートピアを築こうとさえしていた。テルミドール以後、反ユダヤ色を強めたロシア革命に対する幻滅はより一層社会主義を分裂させただけではなく、ユダヤ人たちの運命をも左右してゆくことに繋がった。
 肝心の感想となると少々難しい。アウシュヴィッツに対するマルキストたちの責任を問い詰めようとしながらも、結局は問い質し切れない(そもそも責任を帰すべきか否かの前提を無視して積み上げたところに本書の弱点があるのだろう。)結論部分に曖昧さを認めるのはわたしの読み取り不足の所為なのか?この論文の前提を下敷きにトラヴェルソは『ユダヤ人とドイツ』を書き、それは『アウシュヴィッツと知識人』に至って完成する。そういう意味では若書きの本論考の曖昧さは如何仕方ないのかも知れないが。余談だがヴァルター・ベンヤミンの行動自体は理解し得るとしても、その思想はまったくもって理解不能だ。わたしにとってはむしろ不快ですらある。

1/9 『中東石油利権と政治リスク』 梅野巨利 政治経済 ★★★

 2002年という時期になってなぜ本書が出版されたのかは判らないが、結論からいうとすこぶるおもしろい。直接的にはなんの役に立つというようなものではないが、海外で働くビジネスマンだけでなく、今後増えてゆく外資系の企業で働こうとする人々、或いは外国人を雇用管理していこうという人々にも一度は読んでみて欲しい本だ。 
 本書の内容は1951年、イラン革命以前の同国において英国のAIOC(アングロイラニアン石油会社)の成立とイラン政府による国有化に至るまでの紛争過程を綿密に描き出している。本件が中南米諸国のそれと比べて特殊であったのは、英国政府がAIOCの筆頭株主であったことが大きく影響している。そこで描き出される英国政府の植民地的価値観と差別意識からくる尊大さ、そしてイランにおけるやみくもなナショナリズムの高まりを背景としつつも、資源価値に対する過信と政治的手腕の未熟さ、そして貪欲さ。だがそれもこれも英国を代表とする資本主義社会が齎した価値観の裏表でしかない。対抗する者たちまでもが資本主義的価値観の中に塗れ、埋没してゆく伝染病のような概念≪資本主義≫。本書のような検証がなぜ多数試みられないのか?本書はとてもうまくまとめられているが、どうやらそれも先達の海外研究者たちの過去の業績(研究論文等)に負うところが大きいようだ。これからの日本社会がこれまでのように海外に進出するだけではなく、否応なく外資に侵食され、外国人労働者と共に歩まねばならないだけにこういった諸作はもっと翻訳出版されるべきである。
 ここにあるのは文化と社会的価値観の相克であり、誤認であり、世界的な環境状況把握に対するフレキシブルな対応の重要性でもある。元来民主主義者であったはずのモサデク首相が、ヒステリックなナショナリズムの高まりの中で悲鳴をあげ、西欧社会に助けを求めながらも、決して妥協することを許されない袋小路へと追い込まれてゆく過程はそれ自体スリリングでもあり、今日世界のあちこちに取り残されてしまった社会主義国や第三世界の叫びにも通ずるものが見られる。但し、終章での総括がいまひとつ感心できないのは著者の米国に対するシンパシーのあり方に原因があるのだろうか?著者は別著でメキシコやベネズエラの石油国産化についても考察を試みているようだが、米国の中南米における暴虐的姿勢に対して非常に緩やかな観点を取っているように見受けられる。英国とイラン、米国と中南米諸国という地政学上の大きな差異は単に距離の問題に留まらず、食料からありとあらゆる日常生活資材まで、言わば両手足をも支配する超大国とその裏庭で米国との関わりなしに生きてゆくことを許されない小国との間にある地政学上の問題に対してやや米国よりの考察に留まるのか。同著者の『国際資源企業の国有化』を読んで判断してみたい。
 ※2003年3月17日『イラン現代史』読後批評参照。 

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2002年度 読書記録と批評 [読書記録]





読後感想 2002年版 (当時のものをそのまま再録) ※日付は降順



日付 書名 著者 ジャンル お奨め度

12/27 『スーダン』 富田正史 歴史 ★★

 副題を『もうひとつの≪テロ支援国家≫』とする本書はその実、スーダン政府=テロ支援国家論を否定はしないまでも寧ろ疑義を申し立てる立場に立って書かれている。にも関わらず≪売らんが為の販売戦略≫から副題を敢えてセンセーショナルなものに仕立てあげているし、それは本書の成立が9.11テロ以降の時流によって浮かび上がってきたスーダン空爆の可能性を前に、著者が取り急ぎそのスーダンに関する知見をまとめたという事情にもはっきりと現れている。したがって本書は歴史書でもなく、政治専門書でもなく、概説書というよりは新聞の社説か講義テーマを思わせる中途半端なものとなっている。そういう意味では終章の「今後は?」が社説っぽく、一番手際よくまとめられており、もっとちゃんとした準備期間、調査期間を経て論述されるべきではなかったか。。。スーダンについての専門家は日本ではもうひとり↓くらいしかいないだけに、ジャーナリスティックな要望に答えんがためのやっつけ仕事のようで残念ではある。やはり19000円の大著(とは言え内容量はそれほどでもない)『近代スーダンにおける体制変動と民族形成』栗田 禎子著を読まざるを得ないのか。。。(苦笑)

12/9 『ネール=ガンジー王朝の崩壊』 マーク・タリー&サティッシュ・ジェイコブ 歴史 ★★★

 原題が『≪アムリッツァル≫ ガンジー女史最期の闘い』であるように、本書はインドにおけるシーク教徒の成り立ちから始めて、過激派シーク教徒を率いたビンドランワレの神格化の過程、彼らによるゴールデン・テンプル(シーク教徒の聖域)の武装要塞都市化、ガンジー女史のゴールデン・テンプル武力突入と破壊行為、そしてインディラ・ガンジーその人の暗殺事件を描いた87年の書物。また別の機会にも述べたいが、多民族・多宗教・多言語からなる現代インド史を研究することの不可能性を垣間見た気分だ。数限りないインド社会の多様性が、単純な≪インド現代史≫をもってしては補えず、その多面性を損なうことになる。インド現代史関連図書の少なさもそれに拍車を掛けている。
 それはともかくも、遡ること500年というもっとも近代に興った宗教であるシーク教徒はその成立史からして武闘派を自認し、大戦中からインド独立、印=パ戦争に渡るインドの軍部で重要な役割を担ってきたという。そして独立後のインド民主主義と言われたものが当初から如何にポピュリズムに頼っただけの贋モノであったかが、ネール首相の娘、インディラ・ガンジー(マハトマの血縁者ではない)によって露呈される。地方分権主義と中央政府のポピュリズムの行き詰まりが、ガンジー女史をして大衆動員政策としてのヒンドゥー政策を取らせ、それがシーク教徒の危惧を高めたその時、ビンドランワレは恰も第二次大戦前の黒シャツ隊時代におけるヒトラーのように、武力闘争による示威行動を拡大してゆく。だが、シーク教徒団体アカリ=ダルの三頭支配体制の内部抗争とガンジー女史による法治国家体制の放棄(ガンジー女史自身のクーデター=憲法停止措置とビンドランワレの殺人に対する無罪放免)が、ただの狂犬ビンドランワレの台頭を導いてゆくことになる。ここに描き出されるのは欧州社会が第三世界における民主主義国家≪アジアの奇跡≫として賞賛してきた現代インドの実態が≪民主主義国家でもなく≫、≪法治国家ですらない≫ことの証左である。日本の読者には耳慣れない用語、地名が数多く出てくるため、戸惑いも多いだろうが現代におけるファシズム研究にも一端の道を開く書籍と言えよう。

11/27 『旧約聖書 ⅩⅠ 〈詩篇〉』 旧約聖書翻訳委員会 聖書 評価せず

 旧約聖書の中でも俗に≪創世記≫≪出エジプト記≫についで人気の高い≪詩篇≫と、あとに続く≪ヨブ記・箴言≫であるが、その内容はこれまでの旧約聖書が神の言葉であったり、預言者の伝える神の言葉であったのに対して、本書では民から神へ向けた祈願・嘆願・懇願であり、ときには呪詛であったりもする。ここでいう詩篇はその意味でも祭儀や典礼の折りに神に向けての祈祷として成立したものであり、純文学的な意味の詩篇ではない。おもしろいのは現在ではその意味を失ってしまった古代における或る種の旋律を念頭ににおいて「指揮者に。第八調で。」などと指示書きが添えられたものが多いことだ。それはいったいどのような音調であったのだろうか。。。だが内容的にはことさら感嘆するようなものは何もない。ドラマティックな盛り上がりもなく、ただ民の神への語りかけ文言=常套句として成立したそれは典礼のため愛唱されるに過ぎないのか。

11/16 『旧約聖書 Ⅷ 〈エレミヤ書〉』 旧約聖書翻訳委員会 聖書 評価せず

 旧約聖書を並べてみると判るが、『創世記』から『列王記』までは≪記≫、『イザヤ書』以降は≪書≫四部作となる。≪記≫がいわゆる≪年代記=史記≫であるのに対し、四≪書≫は≪預言書≫となっているからだ。モチロン、実際に成立したものは口承・写本を繰り返す度に歴史的事実を補完され、≪史記≫としての役割を果たすものともなっているが。。。先に≪補完≫と言ったが、聖書に敬意を払わずに言うならば、それは加筆・訂正・補完という意味である。すなわちイザヤ、エレミヤ、エゼキエルが遺したと謂れる≪預言≫を口承・写本する度に、歴史的な事実と符合するように書き換えられたり、訂正されたり、第三者の視点を交えて描写したりと言った作業が数百年に渡り繰り返された結果として現在の聖書が成立しているという事情があるからだ。(十二預言書は然したる史的展開を含まないものが多いのでさほどでもあるまい。)
 さて本書の特徴は『イザヤ書』に続く、ヤハウェのイスラエルの民に対する呪詛と契約であるが、ここではその糾弾もどちらかと言えば嘆きの色合いを濃くしている。そしてエレミヤと敵対する形で他に多くの預言者たちが贋者として告発されているのが目を惹く。さまざまな人間たちが動乱の時代、「我こそは預言者なり」と名乗りを挙げていたことがよく判る。さらに神ヤハウェがエレミヤを遣わして、本来敵であるバビロニアのネブカドレツァル王の支配下に、己が民を引き渡す下りが事細かに記されている。そして70年ののちに今度はバビロニアに対してヤハウェの怒りが下り、イスラエルの民は帰還を赦されることになる。そういう意味では後代にもっとも編纂の手が加えられているような気配があるのも特徴的ではある。(当然、すべての聖書がそうであるのだが。。。)

11/15 『イスラエルからの証言』(廃刊) フェリシア・ランゲル 歴史 ★★

 74年と76年に出版された2著『with my own eyes』、『these are my brothers』からの編纂により82年に日本語版として翻訳された本書は現在廃刊となってしまっている。イスラエルのユダヤ人弁護士(ラカハ共産党員、人権活動家)であるフェリシア・ランゲルが自身で弁護活動を行ったクライアントのケースを証言したものである。ユダヤ人である彼女が占領地のパレスチナ人たちのために弁護活動を行うということは、当然のことながらイスラエル政府から見れば≪裏切り者≫とならざるを得ない。だが彼女を以ってしても軍事法廷を中心とする≪イスラエル司法の公正と正義≫は掴み取ることはできない。全部でおよそ24件の事件が取り上げられているが、その中で正真正銘の無実を勝ち取ったものはたったの一件に過ぎない。。。それも拷問と長期に渡る拘留の果てに。
 ここで告発されるのは主に容疑者とみなされた者への不当逮捕と拷問による尋問、行政逮捕・予防拘禁・抑留期限の際限のない延長と拘置場所の隠避、面会と弁護人の拒否、そして告訴に至らなかった者たちの追放措置という人権侵害についてである。その多くは政治的見解の表明(ビラやデモ)により、或いはまったくの濡れ衣により、または本来許可さるべき政治活動により、イスラエル警察及び軍により逮捕・監禁・極度の拷問を伴う尋問にさらされている。世界中の非難にも関わらずイスラエル政府は事実を隠蔽し、マスコミの取材を許可せず、それらをデマとプロバガンダだと否定し続けているが、その後25年以上経過した現在も状況はなんら変わっていない。それどころか9.11テロ以降はさらに悪化しているとさえ言える。そういった意味でも本書は国際民衆法廷83の編纂した『レバノン侵略とイスラエル』(廃刊)と並んで、決して廃刊にしてしまってはいけない類の本だろう。

11/13 『パキスタン独立』 アーイシャ・ジャラール 歴史 ★★★

 『the Sole Spokesman(たった独りの代弁者)』を原題とする本書は難解と言っていいほどに、非常に内容の濃いものとなっている。ひとつには外国の歴史家が自国史を書いた場合によくある説明不足に因るところもあろう。だがそれ以上に複雑怪奇な魑魅魍魎が徘徊する、権謀術数が横行するインド、パキスタン分離独立前夜の混沌たる状況に因るところが大きいと言えよう。その混沌たる状況を丹念に紡ぎ出した著者の力量はすばらしいが、まず第一章を熟読・読解し得るか否かが、すべてのキーを握ってくるという意味では些か説明不足の感があちこちに散見されない訳でもない。文法や修辞法の違いにもよるのだろうか、思い切った意訳がほどこされても良かったのではないだろうか?(生まれて初めて途中で読み返しました。汗っ)
 それはともかくこの第一級の政治ミステリーとも称していいパキスタン独立史を読むにつけ、根っからの西欧主義者アリー・ジンナーのその努力が果たして西欧的な理想主義者としてのものなのか、それとも一重に自身の手に権力を握らんが為の闘いなのかが不確かなものとなる。実際的政治家であるネルーはともかく、対するガンジーが東洋的であり過ぎるが故にふたりは共闘することができない。すべてを包容するかのように見えて大同団結したに過ぎない会議派(現インド)に対して、内部に様々な思惑と分裂を抱えたまま、何の駒も持ち合わせていないジンナー(ムスリム連盟=現パキスタン勢力)は統一インドの中央権力の分割分担とその権力を求めて、自らの思惑とは正反対のカード(パキスタン分離独立)をもちらつかせてゲームを進めてゆく。だがカードの不足が否めないジンナーは内部に妥協と空手形を振り回しつつ、対する会議派に向って大見得を切ることしかできない。次第にそれが見抜かれてゆくに従い、会議派は交渉の余地を狭めてゆき、困窮したジンナーは汚染された西欧主義者であるが故に、過大な期待をイギリスへ寄せて最後の最期まで実際家であろうとはしない。
 決して使用することの出来ない見せ掛けの切り札しか持たないジンナーが延々と交渉を引き延ばし、拒否に拒否を重ねてゆくうちに、タイムリミットが迫り、人々の不安と苛立ちを高めてゆく。。。そして自らの招いた中身のない大衆スローガンに導かれた暴力によって、彼の理想は引き裂かれてしまう。だが彼はしたたかだった。破局的とも言える最期の瞬間に、決して望みはしなかったとは言えパキスタン初代総督の地位を半ば密約によって手に入れてしまうのだから。。。強い連邦(強い中央権力=弱い州自治)、弱い連邦(弱い中央政権=強い州自治)、分離独立、州の選択権、ムスリム多数派州の一体性と分離独立に伴う州分断の構図、自治特権を失うつもりのまったくない藩王国の意図、ごく少数派とは言えスィーク教徒の存在、州権力の簒奪に捕われた一部支配階級、一方で無視される民意、衝突が招く宗派主義としての民族主義の旗印、共生の終焉。。。さまざまなキーワードが錯綜する権謀術数に塗れた政界の裏側が綿密に描かれている。そして二つの自治権力に分断された時点で尚、確定されていなかった(故意に隠された)イギリス植民統治政府による国境策定(州分断)。。。。。600万人とも言われる至上最大の難民を生み出し、互いの大虐殺を伴ったその分断と分離独立はいったい誰が望んだものだったのか。。。。言わば未だ準備段階にもなく、ジンナーの稚拙な統率力下で大同団結すら出来なかったムスリム側が、先を急いだ会議派とイギリス総督(議会)によって切り捨てられたことによって産声を上げた国家、パキスタン。。。それはその後の歴史に色濃く陰を落とし、いまだ解決に至らない印パ紛争は、問題の本質が消失した筈の今もまだその行方を魑魅魍魎の権力者たちに握られたままだ。インド亜大陸バルカン化の危機はいまだ過ぎ去ったとは言えない。内容的には★4つつけてもいいが、難解過ぎてとても一般にはお勧めし難いのも事実。さらに会議派陣営から描かれたものも読んでみないことには安易に評価しがたい。

10/31 『ヒンドゥー教と仏教』 西尾秀生 宗教 ★★

 副題『~比較宗教の視点から~』が示す通り、そしてまた著者が前書きで「もちろん、これまで我国で仏教とヒンドゥー教とを比較した書物が出版されなかった訳ではない。けれども、それらは仏教を専門とする研究者の手によるもので、やはり仏教の側から書かれる傾向にあった。本書はヒンドゥー教を専門とする筆者ができるだけ偏らない立場からジャイナ教などをも視座において、比較の視点から書いたものである。」と語っている中に表されている通りのものである。ヒンドゥー教の原理と諸派を見、次に仏教の原理と諸派の発展をみてゆく、それは但し概説書の域を出るものではないが。。。
 後半、著者は『マハーバーラタ』や『ヴァーガッド・ギター』などりヒンドゥー神話群をみながら仏教説話との関連をみてゆくが、神話形態の相同ないし類似などさし足る考察とも思えない。それならば同じ紙面をもう少し詳細に前半部分の考察に充ててもよかったのではないだろうか?ギリシア神話と古代ギリシアにおける信仰としての≪宗教=信心原理≫は別のものだ。ヒンドゥー神話群と仏教説話のそれにしても民間伝承のそれと大差はない。むしろ娯楽としての≪神話≫と≪信仰≫の間に横たわる流れをみてゆくべきだったのかも知れない。概説書として前半は○、比較宗教学としての後半は×。

10/28 『インド民主政治の転換』 ラジニ・コタリ 政治・歴史 ★★

 『~一党優位体制の崩壊~』を副題とする本書は当初予想したような歴史書ではなかった。インド生まれでロンドン大学に学んだ政治学者が75年、インド独立25周年を襲った事件(与党による「非常事態宣言」と憲法の停止・改竄)をはじめに以来25年間に渡って、折に触れ発表してきたものを集めたマニュフェスト的告発や政治的提案を示したものでもある。著者の主張は民主主義を破壊したポピュリズム政治からの脱却は強大な中央集権国家体制ではなく、地方分権型によってこそ可能であると説く。またそれは同時に巨大過ぎるいくつかの州の解体をも含んでいる。適度なサイズ化によって初めて社会の底辺周辺部へ手を差し伸べることが可能になると共にポピュリズムの介在する余地を狭めようという論理だろう。それは同時に独立自治を掲げる少数派コミュニティの懐柔策でもあるようだ。巨大な国土と増え続ける膨大な人口が生み出す軋轢と社会不安によって煽られる目的のないエネルギーは≪爆発≫的なエネルギー解放の出口を求めている。国民の4割を占めるとも言われる貧困層の教育と失業対策が見つかるとは到底思えない。エリート化した一部国民による巨大な国家の小さな政府はその実、少数のエリートをしか自国民と認めてはいないのだろう。政治への国民参加はポピュリズムによって民主主義的な装いを凝らされ、うわべだけの大衆の政治参加を促してはいるが、その後の公約無視(不可能な約束)を監視・裁定する能力と機関を持たない下層大衆は一度限りの餌を求めて湖面に集まる鯉のようなものだ。さらに政府の汚職が加わる。モチロン、どこの国にでも汚職は存在する。だが、インドのそれは規模・質ともに考え得るそれを凌駕し、犯罪組織との癒着、政治的圧力としての利用が明確である。政治的提案の中身を評点するほどの見識はわたしにはないが残念ながら明確な解決策を提示できているとは思えない。分権化と共に北欧型福祉国家を目指すしかないと思われるが、10億を越えたと言われる人口の増加率を前にすると、寧ろ完全な不可能事としか思えない。

10/27 『インド現代政治史』 堀本武功 歴史 ★★

 本書は独立後のインド政治に的を絞って書き上げた短い小論文の寄せ集め。だが要約の後に概説が続くようなとても専門書とは思えない内容。書き下ろしでもないため、必然的にくり返しも多く、記述に動因点を欠くキライがあるため、新聞記事の羅列のような印象すら与える。歴史的事件の詳細を怠ったり、背景説明を欠くなど、「専門書だから一般的な知識を説明しない」一方で「専門書の癖にいろんな文献からの抜粋をまとめたような概説書となっている」のは如何なものか。この程度のものが学会論文としてまかり通ること自体がショックだ。したがってあまりお勧めできた内容ではない。だがこの文脈でもインドの民主主義がポピュリズム化してゆく過程で操られる≪大インド構想≫≪ヒンドゥー・ナショナリズム≫≪指定カースト擁護≫カードの有り様と、米国のその場限りの不安定な外交政策(パキスタン~インド~中国国交~パキスタン~インド~パキスタン)は充分に浮かびあがってくる。すべての面に於いて南アジアの七割を占める大国インドは、かつて米国が中南米を自国の裏庭と称して安全保障上の防護柵のように内政干渉を繰り返したように、隣国パキスタンとの紛争の陰で、南アジアの小国(スリランカ、モルディブ、バングラディッシュ、ネパール、ブータン)などを自国の勢力圏とせんことを望んでいる。それとカーストの種類が3000を遥かに越えるというのは驚愕だ。

10/23 『古代インドの文明と社会 〈世界の歴史③〉』 山崎元一 歴史 ★★★

 本書は実は5年半ほど前に購入したきり、うちの本棚で埃を被っていたものである。中央公論社から全30巻のシリーズとして出版されたものだが、世界通史ものをと思い第一回配本である⑯『ルネサンスと地中海』を読んで、まるで観光案内のようなその内容に辟易として放り出してしまった。今回、インド近現代史に着手するにつけ、インド古代史の入門書にでもなればと大して期待もせずに手にとってみた。前置きが長くなったが、本書の出来は予想外に素晴らしい。
 古代インド史を綴りながらも、その支柱を宗教史に求めることでバラモン教~仏教~ヒンドゥー教へと至る道筋がそのいずれにも肩入れすることなく、現代的な視点からできる限り公平に扱われており、不明なることは断り書きを挿入することで明確さを与えている。このスタンスがいい。また現代においてもっとも問題とされることの多い〈カースト制度〉の変遷を綴ることも忘れず、古代史にありがちな歴史ロマンを物語るものではなく、その後の歴史との繋がりを常に見失わない姿勢に好感が持てる。末尾にはなはだ簡単ではあるがスリランカ、中央アジア、チベット史も添えられており、折々挿入される中国や西方との地域全体の関わりも把握しやすいものとなっている。最初に述べたようにシリーズとしてはどうやら文化史に偏り過ぎた感のある本シリーズだが、本書は非常によくまとまっている。記述も平易で誰にでも読み易いものとなっているのでインドに興味のある方はまずこの一冊から。

10/20 『不可触民とカースト制度の歴史』 小谷汪之 歴史 ★★★

 ヒンズゥー教の代名詞ともいえるカースト制度。今日、法的には撤廃され、払拭された筈のカースト制度はいまだ現代インド社会に根深く顕在し、その病巣を深めていると言っていい。本書は同出版社からの叢書『カースト制度と被差別民(全5巻)』の執筆陣のひとりでもある著者が、一巻本としてまとめたもの。オリエンタリズムと相俟った精神世界観に囚われてインドを旅しようという若者たちが多いと聞くが、ぜひその底にある現実のインド社会の実相を識るために本書は必読かも知れない。歴史書という割には法制改革の歴史的側面を中心に進められる本書はカースト制度の持つ、様々な側面を伝えていて非常に判り易い。宗教学的なアプローチが欠けているキライもあるがそれはまた別典に当るしかない。ただ気になるのはまず古代社会を理想化しようという側面が見られること。それは古代エジプトやギリシア世界を描くときにも陥り易いのだが、古代社会に対する浪漫がそうさせるのか、寧ろ現代社会以上に生存条件の厳しかった筈の古代社会を、楽園喪失以前のモラル適正社会として描き出したくなる衝動だと解される。また東洋学派の人々によくあるように反西欧的な観点から東洋の異質さ・特異さを主張しようという側面なども散見される。ここで詳しくカースト制度の変遷に立ち入る訳にもいかないが、古代のカースト制度が≪時代と地域≫によって当然その適応度合いが異なることを事由に、わずかな歴史的資料に基づいて、よりゆるやかなものとして描き出すのは如何なものか?またイギリス殖民政府がインド社会のより一層のカースト化と固定化を推し進める政策をとったと非難の矛先を向けているが、そこには当然インド社会に内在した保守的体質との妥協策でもあった筈だ。だがそういった点を除けば(或いはそういった点に惑わされなければ)平易な文章で、出来得る限り明確に複雑な呼称群を整理しながらカースト制度の変遷を辿った本書は現代インド社会を探る上での序章としても必須だと思われる。
 ただ初めて知ったが、カースト制度=身分社会が、西欧や黒人奴隷問題のような序列的主従関係ではなく、地域的・社会的にも分断を求めた垣根構造であるということ。特に問題とされる不可触民(アスプリシュヤ)などは無償奴隷でもなく、一切の関わりを絶つまでに隔離された存在でしかないという事実だ。バラモンはバラモンのみの社会を構成し、クシャトリヤはクシャトリヤのみの社会を構成する。ヴァイシャやシュードラ辺りになってくると多少の混在がかろうじて始まるが、それもまもなくジャーティという職能集団としての様々な身分カーストに細分化されてゆき、社会的に分断された形での≪共生なき身分社会≫という実相だ。不可触民などは≪非存在の人民≫とも言えよう。が、それにしてもインド社会の翻訳不可能なカタカナ用語は多すぎる。。。

10/14 『旧約聖書 Ⅹ 〈十二小預言書〉』 旧約聖書翻訳委員会 聖書 評価せず

 タイトル通り、十二人の小預言者の書を集めたもの。各部は非常に短く、また史的展開においてもほとんど目立ったものはない。ヤハウェの呪詛と赦し、そしてそこかしこに終末思想が陰を落としているのが目をひく程度か。。。但し、もっとも特異なのは有名な≪ヨナ記≫であろう。いわゆる≪鯨のヨナ≫である。その神話的寓話のような独特のスタイルといい、ヤハウェに逆らい、そしてにもかかわらず寵愛されるヨナの物語はかなり異質。しかもこのほんの数十行からなる特に短い書がかくも有名であるだけに尚一層不可思議でもある。おもしろみはほとんどない。。。

10/13 『戦争広告代理店』 高木徹 歴史 ★★★

 副題を『-情報戦争とボスニア紛争-』とする本書は、2000年10月に放送されたNHKスペシャル『民族浄化~ユーゴ・情報戦の内幕~』のディレクターである筆者の書き下ろし。ドキュメンタリーを書き下ろした形の同様の書籍はこれまでにも何冊か出ているが大半はフィルム構成をなぞっただけと思われるものであり、改めて興味を惹くものではないが、本書は50分の放送では描ききれなかった部分を補うという趣旨を感じて手にとってみた。旧ユーゴ=ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争において一介の米国民間企業であるPR企業が果たしたその役割と影響力、そしてその後に続く≪セルビア悪役論≫を導いた顛末を通して、情報操作の内幕を描き出したもの。内容の方だが、独立宣言をしたばかりの、政治機構の未だ存在しない名ばかりの新興国家ボスニア・ヘルツェゴヴィナの外相シライジッチは激しくなる内戦を尻目に国際社会の支援を求めて92年4月NYに到着する。だが国連も米国も一向に、そんな新興小国の憂慮には取り合ってもくれない。人道活動家の協力を経て国務長官との面接を果たすもそこで得たものは一抹の同情ぽっちでしかなかった。だがそこでひとつの示唆を受ける。それは『アメリカ政府を動かしたければ、米国世論を動かせ。世論を味方につけたければ、メディアを動かせ。』。。。だが世界中を回って窮状を訴えても米国はおろか、国際社会は見向きもしなかった。再びNYへ、そこで彼はPR企業という民間会社を紹介される。国際的機関でもなく、メディアでもない、戦略PR担当企業。。。だがそこからボスニア支援の輪は確実に広がり、≪エスニック・クレンジング=民族浄化≫という言葉と伴に世界中がボスニアの惨劇に耳目を傾け、やがてセルビア人を一方的な悪役に仕立て挙げることになるメディア競争がスタートする。その戦略過程はすさまじい。。。我々の耳目が如何に簡単にコントロールされ易く、なにが漂泊する世論を動かすのかを教えてくれる。そしてこのように民間の一企業によってメディアが操作され得るという事実を前に、我々は自らの耳目をメディアの垂れ流す情報に晒しつつも、実際に何が起きているのか、真実は何処にあるのかを見極めなければならないのだということを、改めて肝に銘じ続けなければならない。これは一般市民に対する教訓であるだけではなく、メディアに携わる者に対しての教訓でもあろう。まさしく今この瞬間我々が直面している国際情勢のすべてがそれを要求していることに気付くべきだ。著者の筆致力量はともかくも、より多くの人々に読んで貰えれば。。。

10/12 『パレスチナ分割』 木村申二 歴史 ★★

 すっかり硬直化したまま、世界から忘れ去られたかに見える≪パレスチナ問題≫は今や、ほぼ日常の出来事として然したるインパクトを伴わない三面記事の如くである。それに合わせて≪インティファーダ≫以降、ここ10年ほどはパレスチナ関連図書もほとんど出て来ない(語り尽くされたかの)ような状態に近かった。だが昨年のテロと直接の結びつきはないにせよ、アラブ=イスラーム紛争が単なる民族紛争を超えて世界中を巻き込んでいる現状の根幹はパレスチナ問題にある。本書はそもそもの≪国連によるパレスチナ分割決議案≫の審議と成立の過程を現在までに入手可能となった資料をもとに俯瞰しようとした試みである。残念なことにイスラエル、旧ソ連、アラブ各国ともに資料公開がほとんどない状況下で国連とアメリカ、イギリスなどの資料に基づいたものにならざるを得ない。できる限り、公正な態度を保ちつつ、それぞれの失策と責任を問うてみせる。また時系列が錯綜する構成とともに、不必要なまでに執拗なくり返しなども散見され、都度、表明される仮定推論や結果論も含めて≪パレスチナ分割史≫としては文脈を乱し勝ちでもあり、全体として2/3程度の量に収めるべきだったかも。。。大国のエゴと利権主義が生み出したカオスと、ユダヤ問題に対する欧米ソの責任回避とホロコースト・シンパシー、そんなことを知る由もない新興アラブ諸国(アラブ連盟)の全面拒否にこだわり続けた頑迷さに加え、米英ソにうまくコミットメントする努力を怠らず、30年以上の準備を擁していたシオニストと内部分裂に建国準備を阻止され続けたパレスチナの悲運が重なり合う。そしてアメリカの朝礼暮改的な介入によって齎された国連の無力化とその独善的裁断は更なるカオスを導いたのだ。終章で筆者の見解として国連とアメリカを断罪してみせるがそれは余計か。。。

10/3 『パレスチナ民衆蜂起とイスラエル』 小田原紀雄・村上盛忠編 歴史 ★★

 1988年に編纂された本書はちょうど時期を同じくして始まったインティファーダ(石のつぶてによるデモ・ストライキを主体とする自然発生的民衆蜂起)の時事報告にはじまって、国際的法討議会「人間に仕える法」委員会によるヨルダン川西岸の占領と弾圧についての報告、そして日本人ボランティア医師信原孝子氏によるレバノン侵攻下のルポがあり、続いて「イスラエルのレバノン侵攻中の国際法違反問題に関する国際調査委員会」の報告でまとめられる当時の告発書である。その所為もあって実はこれまで敢えて読もうともしてこなかった本だった。だがこのほどパレスチナ問題を扱う図書としては十数年ぶりの専門書となるであろう↑の『パレスチナ分割』が新刊として出版された。そこで思い立って、88年から2002年の間に何があったのかをより感じ取れればと思い本書を手に取った。告発書としての部分は些か食傷気味ではあるが、それは本書の中身に対する評価とは別ものと言っていい。特に今回興味を惹いたのは《「人間に仕える法」委員会》によるヨルダン川西岸の占領と弾圧についての報告くらいだろうか。。。ここではイスラエル政府による弾圧だけでなく、政府とは微妙に異なる地位に位置する軍部による占領地支配の実態が描かれていると同時に、入植者という言わばテロ組織(民兵)による暴力に関する報告がなされている点が興味深い。イスラエルによるパレスチナ人への弾圧は・・・
1)イスラエル政府による被差別と弾圧
2)イスラエル占領軍部による戒厳令下での緊急法的弾圧
3)行政府・警察機構の黙認下にある民兵組織(入植者というユダヤ原理主義テロ組織)による日常的暴力行為
4)警察機構による国際法違反の違法的捜査・いやがらせ・訴えの棄却、に分けられる。
そのうち1)については戦時以外で、イスラエル人の人権弁護士やアラブ系弁護士などの費用負担さえ可能であれば法的対処は可能となるが、しかしてその実効性ははなはだ乏しいものとなる。2)、3)については対処法はほとんどなく、本来その緊急性の強い訴えを受けつけるべき警察組織の4)のような実態があるとすれば占領下のパレスチナ人にとって頼るべき術はどこにも見当たらないのが明白となる。専門書としては物足りないが当時の告発書としてはそれなりの意味を持つものだろう。

9/28 『掟の問題 ほか』 カフカ小説全集⑥ フランツ・カフカ 文芸 ★★

 カフカが生前に残した手稿ノートをそのままに、未編纂の状態で訳出した本企画もこれで最終巻とあいなった。アフォリズムの試みから、父親へのコンプレックスを語った「父への手紙」そして百近くに及ぶのではないかと推される未定稿の作品の出だしの数々。それらを通して読むにつけ、彼の作品に共通する目に見えない社会の掟やルールに対する畏れと不安が、現実社会においても彼に閉塞感を齎し、堂々巡りの思考回路に追いやっていたのが、よりはっきりと明示される。それが端的に示されたアフォリズムの試みは故に、ひとつの命題に達することがない。彼にとっては世の中の何一つとして明確な法則として定義されるものは存在し得ないのだから。。。かつて読んだ「父への手紙」もこの文脈の中でより正確な輪郭を明らかにした。結局は父親に読ませることをしなかった長文の告白書であるそれも彼自身に向けられたひとつの諧謔と云えよう。膨大なまでのアイデアに基づく「書き出し」だが、その全体像はつかむべくもないとは云え、発表された様々な作品となんら変わることのない《出口へと至らない堂々巡りの世界》を紡ぎ出している。決して一般向きではないが、本企画そのものの重要性は十二分に感ずることができた。

9/16 アイザック・アシモフの『科学と発見の年表』 アイザック・アシモフ 科学史 ★★★★

 これはスゴイ本だ。タイトルには年表とあるが、通常思い浮かべるような年表のスタイルではない。紀元前400万年の二足歩行の発見からはじまって、簡単な道具の発明や日常生活上の発見、地理、天体、そして自然科学、数学、物理上の発見、生体解剖学や医学、天文科学、IC技術など、現代に至るまでの『科学と発見の歴史』を年代を追って、項目だてて記述したものだ。著者はお気に入りの科学エッセイスト、アイザック・アシモフ。B5版左右二段組500ページの大著だが、記述は平易で中学生でも読めるようなものとなっている。辞典的に使用するのではなく、ぜひ一頁目から順を追って読み進めるべき本だ。
 地球における科学と発見の歴史は斉一的に起こってきた訳ではない。紀元前の古代エジプトと古代ギリシアをその知的ピークとしたのち、ローマ~中世に至る実に1600年間もの間、西欧は科学と発見の歴史からむしろ後退し続けていた。実に1600年間ものあいだである!その間の知的発見は建造物に関するものを僅かとするばかりだったことがはっきりと明示される。そのあいだ科学と発見の歴史を担ったのは中国とアラブ世界だった。たまにある進歩はそれら中国とアラブ世界からの知性の輸入によっていたのだ。その時点で西欧はアラブに対しても明らかな劣等を認めており、アミン・マアルーフの『アラブからみた十字軍』に描かれていた通り、アラブ世界にとって十字軍遠征などというものがまさしく蛮族の侵入以外の何物でもなかったことがそれと知れる。だがその後イベリア半島を中心とするアラブ追放と度重なる十字軍によるアラブ世界の封じ込め(封鎖)が、西欧の外洋への航海と時期を同じくしたことから西欧は暗黒の中世を脱却し、再び『科学と発見の歴史』を歩みはじめる。外世界との出会いが自己否定とも言える教会的世界観の否定へと繋がっていったのだ。外洋へ旅立つ中でまず求められた知識は天文学と距離・位置を観測・測定するための数学的知識であり、それは旧世界の宇宙観を崩壊させた。一方、外世界への興味を示さなかった中国は安逸のうちに遅れをとり始め『科学と発見の歴史』から取り残されてしまう。合理的精神の開眼によって、科学に目覚めた西欧はその後100年余りは教会と間に齟齬をきたすとはいえ、18世紀に入るや目覚しい発展を次々と見せてゆく。もちろん、それには中国から伝わった印刷技術(アルファベットが偶然にもたった25文字であったことは印刷をさらに容易なものとならしめた。)や科学的発見の公表(中世期は錬金術的発想から発見の隠匿を図っていた。)、ラテン語(出版物はすべてラテン語だった)から国民語への脱却も手伝っている。天文学と数学の発展から、やがて力学的発見とその理論形成を経て、科学的発明へと結びつけていく過程はドラマティックですらある。そして科学と発見の歴史に牽引されて、西欧社会はついに産業革命を体験するに至る。だがその足取りを遡ればそれが如何に一直線になされたものでないかが判る。正しい推測は役に立たず、1600年以上ものあいだ忘れられ、無視されて。。。まったく別の過程を経て理論的に再発見され、はじめて有用な知識となる。ひとつの発見が無視され、100年、200年の後に有益なものとなる。その中でリンゴ(万有引力の法則)ばかりが取り上げられるニュートンのスバ抜けた偉大さが金字塔のようにそびえる。ダーウィン、メンデルを経て、やがてアインシュタインへと続く流れは20世紀に至るに連れて当然のように難解にもなってゆくが、あくまでもアシモフの語り口調はやさしい。
 そして我々は避けようのない破局と滅亡へ向けて、引き返しようのない非可逆的な道のりを、加速的に歩み始めたのだ。我々の際限のない欲動は知的探求を促し、自然の摂理を覆すかのように見えているが、すべては終わりへと近づいてゆく。。。始めがあるなら終わりはある、という公理なのか。
 繰り返して忠告したいが、本書は辞典的に読まれるものではなく、第一頁目から順を追って連続して読まれるべき人類の歩みを振り返る試みである。尚、同趣旨の世界地域史版としてさらに大著ではあるがアイザック・アシモフの『世界の年表』も同社より出版されている。少し期間をあけてではあるがそちらにも挑戦したい。かえすがえすも、こういった書物をたったひとりで執筆・編纂するという偉業を成し遂げたアシモフ氏の知性に平伏するのみである。

8/27 特集『初回面接と見立て』 臨床心理学 vol.1 No.3  精神病理学

 う~む。。。。。感想の書きようがない。というか中身がほとんどない。あまりにも一般的なこと、初心者(学生向け)なことばかりで、しかも各論が重複気味ときている。編集指針に問題なしとは云えない。さらに本誌は連載記事が半分以上を占めるため、本号のみを読んでも始まらないものが多い。学会誌なのか、学生向け購読誌なのか、或いは投稿論文による自己満足型の本なのだろうか?一部、興味を惹いた記載(というか文言)もあったが、感想や批判に繋がるほどのものでもない。だがやはりここでも臨床の場における心理学的理論モデルの分裂が際立たざるを得ない。10人10色の理論が主張されるならば臨床における真実とはいったい何処に求められるのか?
雑誌としては『こころの科学』や『現代のエスプリ』の方がよほどまとまっている。

8/25 特別企画『心療内科』 こころの科学.84号 精神病理学 ★★

 かつて青年期のわたしが精神病理学の本を読み漁った時代、『心療内科』という言葉はほとんど聞かれなかった。96年になって正式な標榜科目となった『心療内科』とは、それまでの『精神科』や『カウンセリング』とどのように分野を分かち合っているのだろう?そんな疑問も手伝って、月刊誌の特集を手に取ってみた。だがその実体は、各関係者のテリトリーの奪い合い、そして互いに権威と正当性を主張する争いの場と化しており、相変わらず不明確なままだ。またそこには患者サイドのニーズに牽引されてゆく現場の混乱や、地方・地域による医療設備の不足度合いによっても左右されるところが多いようだ。
 それはさて置き、『心療内科』とは原則的には「身体愁訴を伴う心身疾患の治療」を目的とするところであるようだ。一方で、一口に『精神科』と云っても、入院床数を多く持つものから外来専門のクリニックまで様々だ。『総合診療科』というものもあるらしいが、下に挙げた通り、医療分野自体の核化に伴う専門医制が拡充している現在、名前の通りであるのは大規模総合病院などほんの一部でしかなく、むしろ「入り口案内所」のような実体のところが多いという。本書では「心身症」として《気管支喘息》《消化性潰瘍》《糖尿病》《本態性高血圧》《顎関節症》を取り上げ、「周辺疾患」として《摂食障害》《過敏性腸症候群》《緊張型頭痛》《更年期障害》《転換型ヒステリー》《慢性疼痛》を取り上げている。これらの疾病名を見て、『心療内科』に対する一般の認知とはかなりの差があるように感じるのはわたしだけだろうか?翻って、 「心と精神の治療」の現場における対立は「精神分析」vs「反精神分析」、「医学博士=理系」vs「精神=文系」や、「内科医」vs「精神科医」vs「非医者=心理カウンセラー」といった構図ばかりではなく、それを必要とし、また別の意味で利用しようとするクライアント側や社会全般の「理解」や「認知」の度合い、そして地域における加療施設の充実度と不足度の狭間で揺れ動いている。総論としても各分野に渡る協力体制を呼びかけているが、それだけ実体として非協力的な在り様が浮かび上がってくる。書物としては概説、入門書の域を出ないがこの分野の専門書を求めるのはまだまだ時期尚早だろう。『心療内科』を『身体医学』の後背位を守るものとするのか、『身体医学』を統合する上位概念と見なすのか。それぞれの立場の違いが現場に影を落とし、それは更にクライアントの恣意による変容を可能としている。まずは社会の理解や認知の圧倒的な不足を埋めなければならないように感じた。

8/20 『スペインにおける国家と地域』 立石博高・中塚次郎 編 歴史 ★★★★

 「-ナショナリズムの相克-」を副題とするこの本はスペインを学ぼうとする者にとっては必須のものといっていいだろう。ここで描かれるのはスペインの現代政治史であると共に文化史であり、民族史、言語学史でもある。とは云っても元来スペイン史を目指したものではないので、本書の内容を十全に理解するためにはスペイン内戦とフランコ独裁について少しは事前に知識を要れておくべきかも知れないが。カタルーニャ、カスティーリャ、バスク、ガリシア、アンダルシア・・・バスクにおける過激派組織ETAを槍玉に述べられることの多い、スペインにおける地域主義と自治分離主義はさまざまな要因の下にある。ユーゴスラヴィアと並ぶ多言語国家、多民族国家という主張の一方で、外部に対してはスペイン的なるものの一体性を作り上げてきた国。スペインにおける自治権獲得の歴史は旧王国支配の歴史によるだけでも、言語や文化・教育の異質のみによるものだけでもない。むしろ徴税権や地域関税権などをその主体とする地域農業・地域産業に対する保護政策的な自由主義によるところから芽生えたと云えよう。それは近代化以前の穏健派自由主義をその根幹としている。そして各地の独立運動はカタルーニャだけに認められた特権(=地域格差・差別)に対する異議申し立てをスタートとしているとも言える。
 フランス国境に近い先進地域カタルーニャ、イギリスと向かい合う工業地帯バスク、だが英仏の侵略におびえたスペイン王国はその首都を内陸部のカスティーリャに求めた。その開かれた文化と言語の一体化の中で「中央政府とうまくやれる」カタルーニャに対し、言語的にも内部方言化によって分断され、分裂してきたバスクは一体性を中央に対してうまく示すことができないままだ。いわゆるヨーロッパ言語と文法形態をまったく異にするバスク語の特質は民族自決の主張に相応しい一方で、ローカルな分断のうちに喘ぎ、保守的地方特権を求める自治運動と、近代化の中でリベラルな地域主義を主張する自治運動の間にある溝に加え、20世紀に入ってカルリスタ(王権復古)と共和主義の相克、さらに内戦下ではコミュニズムとカトリックの相克が加わり、フランコの弾圧は60年代に植民地闘争や労働争議とも結びついてゆく中で、バスクに限らず各地のナショナリズムはどんどんと変質と分裂を繰り返してきたのだという。ナショナリズムとしても後発のガリシアは、地域主義としてガリシア主義を旗印に掲げるが、それは「追いつき、追い越せ」という20世紀後半の命題でしかない。他方、民族形成過程に分断された歴史を過去にもつアンダルシアは、外部に対する異国浪漫溢れるイメージとは反対に、民族や言語といった基底部には独自の一体性を持ち合わせていない。大土地所有の解体を目指した20世紀半ばの農業改革・労働運動に結実したかにみえたそのナショナリズムは、逆にフランコ独裁体制にとって代わった社会党体制がアンダルシアを基盤としたために、むしろ中央との一体化をさえ流れ付ける羽目となってしまったという。
 補章で『歴史学とナショナリズム』と題して、教育改革における歴史認識のあり方についてまとめられており、現代スペインの抱える問題点を浮き彫りにした完成度の高い著書だといえる。

8/14 『ポルトガルの歴史』 デビッド・バーミンガム 歴史 ★★★

 ポルトガル・・・決して日本の歴史とも縁がなくもなく、かつて世界に一大帝国を築いた国の歴史について我々は一体何を知っているだろうか?学校の歴史の授業にはたった一度きり、最初で最後の記述があるのみだ。ある日突然、ポルトガルという国が日本の歴史と接点を持ち、それ以降忘れ去られる。だがこの国の歴史は長い、19世紀半ばになって初めて統一国家を形成したドイツやイタリアはいうに及ばず、ローマと決別する中でフランスと並んで17世紀から危ういながらも独立国家としての歩みをはじめている。スペインの「イベリア半島統一」の脅威に晒されつつ、大英帝国とフランスの両国を睨みながら、ブラジルやインドのゴア、マカオ、そして中南部アフリカに及び植民地からの搾取が齎した膨大な富と繁栄の中でこのヨーロッパの最西に位置する小国はその消費と裏腹に自国の独立を維持するのに追われ、経済構造の変革を阻むことで、20世紀に至るまでむしろ安穏とした保守的な旧体制を維持し続けてきた。そして第二次大戦を経て、アフリカ植民地独立戦争を背景に、ポルトガルは幾多のクーデターを含む政変の波にもまれてきた。40年に渡るサラザールの独裁政権を経て、穏健社会党の下で近代化と民主化に軟着陸したかにみえるかの国だが、南北問題を含め、まだまだ未解決の問題を多く内包しているように思えた。やや概説的な記述も目立つが、数少ないポルトガル史の本としての価値は高い。ケンブリッジ版(ケンブリッジ大学)を底本とする本書は「各国史」としてシリーズ化が予定されている。ポルトガルを無視して、ブラジル史、ジンバヴェ史、アンゴラ史はいうに及ばす、スペイン史も成り立たない。

8/6 『旧約聖書 Ⅸ 〈エゼキエル書〉』 旧約聖書翻訳委員会 聖書 評価せず

 本シリーズの第Ⅷ巻である〈エレミヤ記〉が11月くらいにならないと刊行されないということなので先に進むことにした。〈エレミヤ記〉と〈エゼキエル記〉は構成が非常によく似ていることで知られるが、それはこのふたつがここまでの『旧約聖書』中ではじめて一人称『わたし(とヤハウェ)』で語られる所為でもある。これまでは『預言者誰それが・・・、イスラエルの王の時代に誰それが・・・』という伝承スタイルだったが、このふたつは恰もその本人が直接書き記したかのような文体となっている。内容的にも似通う点が指摘されており、本書は〈エレミヤ記〉のスタイルを模倣したものと認知されている。バピロニア捕囚の身だったエゼキエルがヤハウェの顕現を見、穢れたエルサレムを滅ぼし、再び新しき神殿を夢見るうちに終わる。前半はヤハウェの怒りと制裁を描き、終盤は新しい神殿の構図と祭式と供儀の取り決めを再び確認する。ヤハウェ顕現のシーンを語る独特の幻想的シーンの描写がこれまでの『旧約聖書』には見られないものであろう。

8/4 『旧約聖書 Ⅶ 〈イザヤ書〉』 旧約聖書翻訳委員会 聖書 評価せず

 まったく『旧約聖書』というのは不可思議な書物だ。ユダヤ民族の聖典だというのにその膨大な量の聖典を通じて、何度も彼らは自らの神ヤハウェによって繰り返し、呪われ、罵倒され、見捨てられ、壊滅的打撃によって滅びる寸前となる。この《イザヤ記》などはほぼ全編を通じて、預言者イザヤによる(ヤハウェの怒り)呪詛であり、呪縛の羅列である。それは嗜めや戒めといった範疇に留まるものではない。アッシリアによる被征服を背景にしているが、これまでのように特に具体的・特徴的な挿話はなく、ヤハウェからイスラエルの種族に対する呪詛の言葉が延々と続いてゆく。こういったものを聖典と戴くのはどう理解すればいいのだろう?寧ろ自らの恥を晒すくらいなら外典のように《聖典》から除外したいと考えることさえ普通ではないのか。。。終盤に至ってようやく取り繕うかのように祝福と保証を与えるがそこに至っても表現の厳しさは消えず、全体の印象としてはやはり呪詛の感が強い。
 さてユダヤ教のことを一般に一神教として我々は認知しているが、ここまで読んで来たところからするとユダヤ教における《一神教性≫というのは『旧約聖書』を通じて時代と共に変遷をみせる。当初の一神性は『ユダヤ=イスラエル民族にとってお前たちの神はヤハウェのみだ、他の民族の神々を崇め敬うな』というものであったが、次第に他の神々に対するヤハウェの優越性を主張しはじめ、更には他の神々の邪悪性・偽称性を訴えるに至る。そして本書に至って『ヤハウェは唯一無二の神であり、ヤハウェ以外に神はない。』という、今日の我々の理解に近い一神教的概念へと変化してきた。
 そうしてこの《イザヤ記》の詩句は文学的にはこれまでのどの章記をも上回るデキだ。具体的な挿話の魅力という点では他に一歩も二歩も譲ろうが、《イザヤ記》をまとめた人物の文学的素養はそれらを凌駕する。呪いの言葉さえもが激しく、そして美しく響く。聖書は《評価せず》を原則としているが、詩的文学評価として本書は★★★★にも相当しよう。

7/30 『アメリカの「人道的」軍事主義』 ノーム・チョムスキー 社会評論_ ★★

↓に続くチョムスキーの第二弾。だが、本作は前作の失敗(?)からか、ヒステリックなナチズム!ファシスト!といった叫び声はなりを潜め、冷静にアメリカの主導する『新しい人道主義』の欺瞞を暴いてみせる。コソボの空爆を主題にしつつも、フィリピンの米国割譲や東チィモールの独立運動(つい先頃独立を果たした!)などと比較しつつ、世界が拍手をもって迎えた、アメリカ主導による自己都合主義的な『武力行使に基づく人道的介入』の実態を告発している。
 だが、言語学者ゆえの論法なのだろうか、↓でも触れたとおり《相手の言辞》によって反証を試みる論述はともすればシニカルに過ぎて深刻さを見失ったり、表現の罠に足を取られたりしがちで、読者としては今ひとつ戴けたものではないように思う。確かにスマートに決まれば、《相手の言辞で相手を仕留める》ことが出来る武器だが、それは結論の締めくくり部分だけで充分ではないのか?
 本書は完全な専門書といってよく、現在入手し得るコソボ問題の最新版だと思われるが、相変わらず読者の想定はジャーナリズムなのか、歴史家なのか、一般市民なのか不詳である。もっとマスメディアとリップ政治に的を絞って告発を試みた方がよりよく伝わるのではないか。

7/14 『アメリカが本当に望んでいること』 ノーム・チョムスキー 社会評論 ★★

 1950年代後半、《変形生成文法》を提唱して言語学会に革命的な転回を齎したという言語学者チョムスキー氏の著した反米イズムあふれる社会評論である。浅学なわたしには言語学が何かということも、言語学と文法学(修辞法?)や民族言語派生学、論理学との違いさえ定かではない。だが9.11テロ以降、メディアを含む全アメリカの反テロ世論に対して臆さず立ち上がった最初の論客であるということは知っていた。本書はその彼が1986年に出版した反米的コラムというよりはマニュフェストに近い社会評論。本来ならあまり興味を向けないところだが、「言語学者の著すジャーナリズムとは?」との好奇心に惹かれて↑と合わせて2著を同時に購入してみた。
 だがどうなのだろう?論点が不明確であることはない。だが意外にもそのエクリチュールは《ナチ》だとか、《ファシスト》という言葉に彩られ、名前からして著者がロシア系のユダヤ人と取れるだけにヒステリックな響きを帯び、冷笑的な皮肉に満ちた文章は、説得力という意味では疑問符のつくものとなっている。これが言語学自体の正体をわたしが知らないとは云え、言語学者という立場に社会的立場を置く者の著した書物なのだろうか?論点を明確にし、文脈を出来るだけ崩さないようにとする姿勢からか、本文には数多くの脚注が設けられ、そこで再定義されたり、典拠資料を明示されたりする。主に米国の対ラテンアメリカ政策を批判した本書はユダヤの出自(おそらくは。)にも拘わらず、反イスラエルへも向かっている。終盤になってようやく《民主主義》《自由企業》《侵略に対する防衛》《和平プロセス》《特殊な利益》《国の利益》などの言葉に対して、真の言葉の意味と体制的メディア的な意味合いの対比を暴いて見せているところが唯一、言語学者の片鱗を覗かせるのか。。。結びの「我々にできること」・・・で彼は何度もわたしが《反骨の扉》で指摘したのと同じように「知ること=目を、耳を塞がないこと、批判的に読み取ること」を、そして組織することを主張する。実は多量の脚注が目指すところは《ここで述べたことをあなた方に本当に信じて貰うためには、あなた方自身がここに典拠を示した政府の公的な資料を自らの手で調べる他ないのだ。≫というメッセージなのかも知れない。
 全体としての本書の評価は微妙だ。主張としては○、資料価値としては×、表現としては、中高生にとっては○、一般人にとっては△、専門的知識を求める者にとっては×と云ったところか?但し、わたしが中高生ならば本書がわたしを熱狂させただろうことは疑問の余地はない。

7/13 『西欧精神医学背景史』 中井久夫 精神病理学

 恥ずかしい話だが、ときどき本のタイトルを読み違えすることがある。本書もなぜかわたしは「西洋における近代精神医学に至るまでの前史(歴史的背景)」だと勘違いしていた。本書はそうではなくタイトル通り「西欧と我国の(!)精神医学の時代的背景文化史」だと云っていいだろう。だがその意味では古代ギリシアからローマ期、そして中世までの文脈は追えるが、ルネッサンスを過ぎて18Cに入った辺りからあやしくなる。医学や産業革命、社会思想、近代国家の成立と植民地主義、ロシア革命と枝葉をどんどんと広げてゆくうちに道筋は混沌とし、文字ポイントを下げて挿入される考察の量が増えつづけるに連れて、本論は雲散してゆく。ましてや随所でフロイトに触れたりする割には、「(フロイトについては)未だ歴史に属さないものは本書では扱わない」と立場を留保してしまう所為もあって、18C以降の歴史的文脈が途切れてしまいがちだ。そして唐突に「向精神医薬」の登場となる。戦前の生まれであるリベラリストの思想家(?)である筆者が1970年代後半に書いたという本書は著者の精神史(経歴)の中ではなにがしかの位置にあるものかも知れないが、正直、「中井久夫著作集」の中にでも置く以外、部外者にとって普遍的価値を持ち得るものではない。結びが、現代医療の中における医師のあり方に疑問を投げかけて終るだけに尚更「背景史」としての文脈を見出すことは難しい。本書のような試みは多少なり厳正さを欠くことになるのを敢えて忌避せず、世紀毎、または時代と各国毎に区分けして《魔女狩りと精神医学》《市民革命と精神医学》《フロイトと・・・》《産業革命と・・・》という風に各章を筋立ててゆくべきではなかろうか?↓でも述べたがやはりこの分野の歴史書を書くのは相当の困難を極めるようだ。

7/8 『精神医学の歴史』 エドワード・ショーター 精神病理学 ★★

 精神医学、或いは精神病理学と称しようともそれらの歴史的発展史がめったに書かれることが少ないのは、いまだこの分野が他の自然科学とは異なり、混沌とした諸説入り乱れる状態でしかないことの証であり、記述する当事者の組する学説を中心として、対立する学説を否定する形でしか著述され得ないからである。本書の場合は、序文で明らかにされる通り、《反フロイト》と《生物学的精神医学》という科学の勝利を謳う《薬物科学医療》の立場から見た『精神医学の歴史-隔離の時代から薬物治療の時代まで-』ということになる。そういう意味では自他と共に認めるフロイト派であるわたしにとっては一種の挑戦的書物として受け止めてみた。(笑)
 19世紀と共に始まる監禁施設(アサイラム)から始めて、身体医学としての西洋医学すらいまだ萌芽せず、痴呆と精神病、神経症、精神遅滞を区別もしない時代、人々は『狂気』を恥じ、忌み嫌い、不治の病とした。やがて啓蒙主義的精神が『狂人のモラルスティックな扱い』を求め、湯池療法など待遇の改善をみたが、一直線に治療への道を押し開いたのではなかった。。。その後も何度もこの分野において前進と後退を繰り返して、それは次第に《科学的精神医療》と《社会的=人文的精神医療》のせめぎあいの形をなすに至ったという(同時にそれは開業医の市場原理にも還元・左右されたという)。歴史の細部をなぞることはしないが、著者はそれらを《実証科学=器質疾患論》と《似非科学=フロイト主義》の対立の歴史として記述してゆく。フロイティズムには揚げ足を取るような辛らつな非難を向ける癖に科学医療に対してはロボトミー手術や初期の電気ショックに対してさえ試行錯誤の一段階として寛容な評価を与えるという有様だ。そして言葉巧みながらもあからさまな反ユダヤ主義を読み取らされるとき慄然とさえさせられる。フロイトの開拓した精神分析は言葉(会話の成立)の介在しない重篤の分裂病患者には通用しないと、フロイト自らも認めている。だがそれをもって精神分析は『1990年代に入って信用失墜、凋落し、その社会文化役割を終った』などと断じるのは行き過ぎにもほどがある。なぜゼロサム式の対決姿勢しか存在しないのだろうか?これでは融和統合へは進まず、片方の勝利=もう一方の敗北。。。の図式しか導き得ない。精神分析学は『心理学』、『神経症学』と『精神病理学、精神医学』を橋渡し繋げる重要な橋梁である。フロイト派を自称する多くのフ賢明でない分析家志望者たちが、本来直感と深い知性を必要とする個別的臨床の場においてフロイティズムに安易な方程式を求め、それで殊たれりとしたことが、まず失墜の一因に挙げられるべきであろう。臨床治療という本質的にレアな場面において《フロイトの方程式》などというありもしない伝家の宝刀を振りかざしてきたバチが当ったのだと云ってもいい。それはユング派によってより一層顕著となり、象徴と方程式の暗躍する異形のものとされてしまったのだ。
 一方、神経梅毒症の治療(ウィルス性)のワクチン治療に歴史上初めて光明を見出した科学医療の歴史はそれ自体非常に興味深い。睡眠療法からインシュリン投与による昏睡療法、てんかん性のショックから電気ショックによる治療、そしてロボトミー手術という蛮行。。。そして初の本格的抗精神薬として登場したクロールプロマジンは『基礎にある脳の障害を必ずしも治さないものの、症状を消失させ』た革命的成果だったと主張する。確かに精神医学の歴史には暗部と発見、発展と後退の際限のないくり返しが根付いているようだ。もう一方で綴られる《社会的精神医学》の歴史は、著者の偏重した姿勢によって集団精神療法ないくつかの治療効果・有用性を賞賛はしても医学ではないと区別し、フロイト流には徹底して『破産』の評価を叩きつけ続ける。それはよくある《知性》の評価についての偏狭で稚拙な争いを見せられるようなものだ。本書の中で著者は何度も『精神医学を(科学の手に)奪い返すことに成功した』と表現する。SSRI(選択的セトロニン再摂取抑制剤)プロザック(本邦未認可)をその賞牌とし、高らかに《科学的医療》の勝利を叫んだあと、おなぐさみに《社会的精神医学》との補完性を指摘してみせるが、それは勝者のお情けでしかない。締めくくりの一言も『二十世紀の終わりになって、《狂気》があまり恐ろしくないものになったとすれば、それは(中略)人々自身がより理解を深め耐えられるようになったからではなく、単に薬物革命が精神疾患の症状をくじき、あるいは完全に消すことができたので、これらの障害がある者も、(中略)恐れられなくなったからだ。』『《狂っている者》は《通常の患者》に変身した』と誇らしげに結んでいる。理解のなき治療(=症状の緩解)。。。
 だが著者の主張の背後にはPTSD(外傷後ストレス障害群)やADD(多動を伴う注意欠如障害)などの言葉がカルチャー・ムーブメントとして一人歩きをする中で、精神医学がその本質を見失うことへの現実的怖れの中にあることは十二分に理解できる。心療内科との陣地争いを止めて、症状緩和のための薬剤投与と共に精神分析的心療内科は今こそ、真に《患者のための精神医療≫に向けて、両者が手を繋ぐことで統合されるべき時代である。
 辛らつにあげつらったが、決して読んで意味のない書物ではない。いくつか示唆されることろも多いにあったと言っていいし、かつて無作為に貪り読んだクレペリンやフーバーなどの現在でいうところの古典的著作はこういった歴史的文脈の中に置かれてこそ真に読解可能なものとなるのだろう。著者の個人的偏見にさえ惑わされないならば貴重な一冊だろう。最後にどうしても解せないのは著者略歴が一切ないことだ。これだけの主張を繰り広げる人物の略歴が一切不明というのはどうしたものだろう。。。

6/23 『アルジェリアのためのもうひとつの声』 ルイザ・ハヌーン 政治・思想 ★★★

 国際社会からは女性人権擁護者でありながらイスラーム主義者であり、且つ社会主義者であり、現体制を告発する政治家として認知を受けているルイザ・ハヌーンとの長時間に渡る対談集。まったく未知の人物であったが、彼女は決してイスラーム主義者などではない。現体制に対するNOを突きつけ、権利と平等の要求者として過激派テロ集団として拒否され弾圧を受けているFIS(非合法イスラーム主義政党)にも対話と参政権を認めることで国民和解を成し遂げようとしているだけであることが判る。イスラーム主義にもNO、現政権にもNOを突きつけたことで彼女の主張は、まさにアメリカを中心とする国際社会によって歪められて伝えられているに過ぎない。今年2月に読んだ『アルジェリア危機の10年』の感想でわたしは「ここには国民大衆は一切存在しないし、介在もしない。。。数種類もの選挙システムとそのシステムすら変更操作することが可能な民主主義という実体の不明な怪物の姿だけが影を落としている。血を流しているのは国民だというのに。。。」と書いたが、まさしくこの本から読み取れるのはそこで欠如している《国民大衆の姿≫であり、大使館に立て篭もった外務省駐アルジェリア大使などには理解し得ない、アルジェリアの真実の姿があると十二分に信じるに足る根拠がある。モチロン彼女の姿勢の中に理想主義者としての限界と一部のあやふやさを認めるのにやぶさかではないし、現実的手腕として可能とは思い難いが、喩えて言えば《虎よりも狼の方がマシだからと言って、狼と一緒になって虎を攻撃するのではなく、虎にも狼にも同じテーブルにつかせて合議に至ろう》とする立場であり、そこが理想主義の落とし穴であるのだろうが。。。だが体制の枠内に踏みとどまろう、その中で解決しようとしかしない多くの男性政治家に比べて、その枠組みの外から始めようと思考する彼女の主張は貴重であるに違いない。アルジェリアにとって政治的イスラームは排除し得ない民族文化の深部に根付いているのだとしながらも、女性人権家として、イスラーム主義体制の成立には断じて屈しないとする彼女の立場はジェンダーとして犠牲を払い続けてきた《女性》としての《犠牲を払うことをも厭わない姿勢から来ている。そこから浮き彫りにされてくるのは、多くの男性(政治家)たちはいずこの国家であろうと自らが犠牲を払うことを潔しとしない脆弱さであろう。またハヌーン自身は明確に自身の責任を認めていないが、結局は軍部クーデターによって無効とされてしまった91年アルジェリアの民主的選挙においてFIS(イスラーム主義政党)に勝利を齎した原因が、《現体制に対して抗議すべき時に選挙キャンペーンに奔走し、抵抗すべきときに交渉した》民主主義を標榜する各政党政治家たちの行動にあったことが読み取れてくる。そして国民不在のアルジェリア政府が少数の政治的エリートと経済的エリートからだけでなる、国際社会にだけ顔を向けた政府国家でしかないという実態が浮かび上がってもくる。IMFの押し付ける経済構造調整が結局は国家資産(石油・天然ガス)の外国企業への売却しか齎さない実態、イスラーム主義を非難することで恰も民主主義政権であるかのように装っている現体制が、一方で穏健派宗教団体を懐柔せんが為に、女性の基本的人権を抑圧するイスラーム《家族法》を成立させた現実の矛盾、さまざまなアルジェリア国民大衆の今日が浮かび上がってくる。ルイザ・ハヌーンその人を賞賛しはしないが、万一興味をそそられる方がいらっしゃれば、ぜひ本書を読んでから前掲書『アルジェリア危機の10年』を読み比べてみることをお勧めする。どっちに真実があるか。。。。その構図の歪みが明確に提示されるだろう。
 そしてその構図は先日のブーテフリカの再選によっても些かも変化していないだろうことすら見えてくる。理由の如何を問わず恣意にて身柄を拘束・拷問をくり返し、裁判なしで逮捕、処刑するのを当然とし、射殺の調査・検証すら拒否する現体制が民主主義を盾にとる一方で、イスラーム主義勢力をテロリストと断罪することで「テロリストと対話・交渉はしない」という強硬姿勢を示すことの反理。ブーテフリカの軟着陸によっても旧体制・軍部の犯罪的行為の調査・処罰なくして、真の平等と民主主義はあり得ないのだということへ繋がってゆく。
 『パレスチナ報道官 わが大地への愛』のハナン・アシュラウィ然り、ルイザ・ハヌーン然り、アラブ世界の知性溢れる女性活動家の存在の前には、男女を問わず日本の政治家連中の存在は《屁》のようでしかないだろう。
 ただし。。。。。残念だが驚くくらい不親切な本であることを付け加えて置く。ハヌーンという人物の紹介もあやふやなまま、インタビュアーの人物像は最後まで一切紹介のないまま進む上、第一章の脚注10を捲ると、第七章の脚注24を参照などという馬鹿げた構成が散見される。更には2002年の本邦新刊であるにも拘わらず、「96年出版の時点でハヌーンがフランスに亡命中・・・としか判明していない」という《あとがき》の下りを読まされるのは非常識極まりない。(決して行方不明ということではない筈!

6/11 『ユダヤ人とドイツ』 エンツォ・トラヴェル 文芸・思想 ★★

 副題を「ユダヤ・ドイツの共生」からアウシュヴィッツの記憶まで」とする本書は今春に読んだトラヴェルソ『アウシュヴィッツと知識人』の前著に当たる。件の書が予想外に出来がよかったので本書を手に取ってみた。それとかねてからわたしにあるひとつの疑問。。。それはカフカ、フロイト、ハイネ、マルクス、ロートetcに代表されるドイツ語圏ユダヤ系文化人の華々しさに比べ、せいぜいがプルーストやベルグソン程度のフランス系ユダヤ人の文化的脆弱さである。本書はタイトル通り、ユダヤ人におけるドイツ性の諸問題について考察したもの。1871年に至ってようやく完全なる解放を果たしたドイツ・ユダヤ人たちにおける≪ドイツ文化とドイツ性の持つ意味を通して、同化主義に走った者たち、同化を呪われた宿命としてみた者たち、ユダヤ性に固執した者たち、パリア(=のけ者)民族として社会主義革命を目指した者たちの中にある分裂(ソ連モデルの是否)、シオニズムの中にある分裂(植民地主義的パレスチナ建設を目論む者たちとパレスチナ人との共生的移住を主張する者たち、さらには民族離散を宗教的課題として現実的解決を拒む者たち)を検証してゆく。。。わたしのように日本人であるが故に日本人を嫌いつつ、日本文化から離れることのできない自身の限界と向き合い続けてきた者にとってはこの辺の件(分裂)は痛いほど理解できる。。。終盤は趣きを変えて、後著『アウシュヴィッツと知識人』へと至る道程としてアウシュヴィッツを基底しようと試みた後、戦後の東西ドイツがアウシュヴィッツの記憶にどのように対処し得たか、そして往時(92年)歴史家論争とされた修正主義の根底にあるものを問い直してはいるが、それらが後作に一歩譲るのは如何仕方ないところだろう。
 冒頭に上げたわたしの疑問に対する答えはここでは糸口程度しか与えられなかった。おそらく文化的には爛熟期を迎えつつも、猥雑さと耽美的、女性的な文化を花開かせたフランスと対照的に、崇高さと哲学的知性を柱に男性的なロマン文化を築きつつあったドイツ語圏のそれはオーストリア=ハンガリー二重帝国とプロイセン・ドイツ国(現在で言えばオーストリア、スロベニア、クロアチア、ハンガリー、チェコ、スロバキア、ドイツ7カ国)に拡がる離散民族の知識人にとって支配層=抑圧者の言語としてではなく、支配層=理想化されたモデル的共通言語として認識されたところにあるのだろう。自身のユダヤ性(二級市民)の刻印を捨てて成り上がろうとした者たちと、ドイツ文化の担い手となることでヨーロッパ精神との一体化を欲したユダヤ人たちの凄まじいばかりの進出によって裏付けられる。寧ろ、尚のこと一層そのことによってドイツ・アーリア陣営は脅威とカウンター・カルチャーとしての反ユダヤ主義を対抗させたとさえ言えるかも知れない。その結果、まさしくドイツ・ユダヤ文化の絶頂期にこそ反ユダヤ主義は勃発することになったのだ。また別の意味では同化を目指すユダヤ民族の内部にこそ近代的な反ユダヤ主義(=自己嫌悪としての否定)の萌芽はあったとさえ言える。

6/6 『ドイツ精神病理学の戦後史』 小俣和一郎 精神病理学 ★★

 副題を『強制収容所体験と戦後補償』とする本書だが、タイトルにある通りこれはあくまでも≪戦後史≫であって≪強制収容所症候群≫の分析を旨としたものではない。戦前から戦後に至るまでドイツの精神医学界はある種の歪みから逃れられないでいる。それはドイツ一国に留まらず、医学・精神医学をドイツ流を手本として輸入、取入れを図ってきた日本の精神医学界にも当て嵌まる問題点である。反ユダヤ主義の頚木から、フロイトを拒否または無視し、(フロイト自身はだからこそ、スイスの非ユダヤ人ユングに己が≪精神分析学≫を託したにも拘わらず裏切られ、却ってユングの象徴精神分析学の所為で余計な誤解を招き、否定を蒙るハメに陥った。)ドイツでは戦前からの傾向でもある器質病因論に固執し、それは分類・診断学(診断がなければ治療はないとする立場からの学研)を経て、精神薬理学的探究へと繋がってゆく一方で、難解な哲学用語を弄ぶ現象学的精神病理学へとも迷走した。
 著者はそういったドイツ精神医学界の限界について歴史的に考察すると共に、米国でベトナム戦争後に定義され、流布してきたPTSD(外傷後ストレス障害)との関連から、PTSD概念の再検討と拡大複合を目指す立場からの主張のようであるが、今ひとつ不明確さを伴う主張に留まる。ただ何よりも本書の興味深い点は、第二章を丸々戦後アウシュヴィッツ補償問題の一環として鑑定要求がなされた際の論文(症例研究ではなく、鑑定結果に関する論文)3篇の全文訳に当てていることだろう。3様の立場から述べられたそれはドイツ精神医学界の限界を如実に示すものである。良識的見解に立つ者と雖もそこに述べられる見解の明確な溝に慄然とさせられる。これがあのフロイト以後の精神病理学の姿であるとは俄かに信じ難い思いである。余談だがフロイトを何かとあげつらって否定しようとするのは簡単なことだ。だがそれでは歴史的にフロイトが齎したものをまったく無視したこういった立場に立たざるを得ないというのか。フロイトが齎したものは無意識の存在と精神(構造機構)の発見であり、それはコペルニクスやニュートン、ダーウィンに並ぶ世界観を覆す、ひとつの発見である。以後その発見に沿って幾つもの発見がなされてきたというのに≪性欲因子≫限定だ等として、フロイトを全否定しようと言うのはバカげている。これが反ユダヤ主義の流れを汲んだ(少なくともコンプレックスに囚われた)ドイツ精神医学界によって世界へと広められたものだとしたらあまりにも貧しい現況でしかない。ましてや≪もうひとつの精神分析≫そのものはオカルティズムにかぶれたユングによって凋落させられてしまったとなれば。。。

6/2 『存在しなかった惑星  -アシモフの科学エッセー⑩』 アイザック・アシモフ 自然科学 ★★★

 日本ではSF作家として有名だが(わたしはただの一篇も読んだことがないが。笑)海外では30年以上に渡って様々な雑誌にありとあらゆる分野におよぶ自然科学エッセイを書きつづけたことで有名。(92年死去)その知性の広がりはまさにグールド氏の比ではない。本書はハヤカワNF文庫のシリーズ中10冊目にあたるものだが、どういう訳かずっと品切れ重版待ちだったもの。昨年末にひそかに重版されていた。天文学から物理、数学、生物学、化学に至るまでの最新(往時)の豊富な知識を、わたしのように非理数系の脳味噌しか持たない人間にもわかる(?)ように愉しく解き明かしてくれる。モチロン、わかると言っても、もし理数系の分野に≪7割の理解≫などというあり得るとすれば。。。である。グールド氏と比較してばかりで申し訳ないが、このヒトはただただ愉しく、本人も愉しくて仕方ないといった風にエッセイを綴っているので、ダジャレやオチさえも散見される。化学や物理の教科書のすべての章の入り口がこういったエッセイで占められていたならもっともっと科学を好きになれたろうに。。。暗記に頼らずとも一層の理解を深められたに違いないのに、と思わずにいない。原著は76年の出版であるが、その後の科学の発見や発展なども充分視野に入れて書き綴られているのでその点の危惧も杞憂です。ときに理解のしようもない突拍子もない数式も現れますが、ご愛嬌♪そんなもの理解できなくても、とにかく楽しめることだけわ保証します。さて肝心の本巻は自然科学自体としてはそれほど興味深いネタにあふれている訳でもない(私的には。)が、後半「さまよえる宇宙船」からの5篇でもってめずらしく(ときたまあるのだが)社会の無知蒙昧や迷信、偏見に対してまさに≪反骨魂≫をぶち上げている。UFOから始まって、科学批判自然回帰志向、知能指数IQ論、聖書原理主義、有神論に至るすべてをバッタバッタとなぎ倒してみせてくれる♪わたしなんぞよりずっと知的な(♪)アシモフ氏の腕前をご労知ろ。シリーズとしても★★★★★、本作は少し特殊だが。

5/26 『ダ・ヴィンチの二枚貝(上)』 スティーブン・J・グールド 自然科学
5/29 『ダ・ヴィンチの二枚貝(下)』 スティーブン・J・グールド 自然科学

 5月20日、著者であるグールド氏が癌のためNYの自宅で息を引き取った、60歳。74年から『ナチュラル・ヒストリー誌』に連載してきた進化論エッセイはかねてからの公約通り2001年、21世紀の幕開けを持って丁度300回を迎えて終了したばかりだった。本書はその連載エッセイの8作目。だがありとあらゆる自然科学の分野を網羅するアイザック・アシモフと違ってときどき逸脱はするものの進化論にこだわるグールドには前作以来限界が見えてきている。リンネウスの分類学名やオーエンvsハクスリーの論争などこれまでにも何度取り上げられてきたか判らない。その度に切り口や角度は違うというところなのだろうが、重箱の隅をつつくグールド・トークにもやや辟易とした感が強い。引用する詩句においてもワーズワース、キプリング、マーク・トゥエイン、アレグザンダー・ポープ、ディケンズetcと新規味なく、こういった連作エッセイにあるべき無限の広がりをもはや感じさせない。上巻に至っては読むべき価値すら感じない。下巻も少しは基軸が異なるとはいえ、自身の闘病からくる死と向き合う姿勢がそうさせるのか、これもまた前作からやたらとユダヤの出自に触れる機会が増え、各章の締めくくりを道徳的な観点へと結びつけようとする傾向が強まっている。アシモフが最後までジョークのようなオチで執筆することを好んだのに比べるとふたりの違いが明確になる。科学もエッセイも愉しくて愉しくて仕方ないアシモフと、なんとかして最良のもの(人類への警句)を提示したいと指向するグールド、同じユダヤの出自であり、尚且つ自然科学エッセイのニ大巨頭ではあるが、タイプの違いが明暗を分けるのか。。。

5/21 『ジェノサイド論』 前田朗 法律・政治 ★★

 本書は法学者による論考のいわば寄せ集めである。従ってタイトル通りという訳にはいかない。なるほど出来得る限りその路線に沿って集められたものかも知れないが、そうとは知らずに読み進めていた為、結論部がないことに唖然とさせらた。また様々な場で発表した論考の寄せ集めであるが故に、読者の想定が曖昧にならざるを得ず、わたしのように法学書に不慣れな者にとって、法概念の解説について法規定用語の言語的厳正さは多少なり苛々させられる部分でもある。勿論、法学書である以上それは当然のこととして甘受せねばなるまいが。。。また上記のようなこともあってひとつひとつの論考を独立したものとして評価・読解する必要がある。 まず第一章では現在の国際社会の≪戦争犯罪法廷≫や≪人道に反する罪≫に対する取り組みについて。現在あとは60ヶ国による批准を待つ段階(署名139ヶ国、批准47ヶ国)であったにも拘わらず、先日ブッシュ政権によって署名撤回という憂き目に遭遇した≪国際刑事裁判≫といまだ適用されざる≪ジェノサイドの罪≫の成立概念と要件について述べられてゆく。それぞれの違いについて簡単に説明を試みるならば≪国際戦犯法廷≫は軍人による戦争法規慣例違反を裁くものであり、常設ではなく個別事案毎に設置されている(現在はユーゴとルワンダ事件)。≪人道に反する罪≫は更にそれを補完すべく制定された法規である。また≪国際刑事裁判≫は軍人に限らず、政治家や煽動活動家など民間人による同種の行為を国際法によって裁く場として設えられることが期待されており、≪ジェノサイドの罪≫は民族浄化や殲滅的虐殺を目的とするものであれば、これまで一般犯罪として扱うしかなかったより広い範囲の行為(レイプなど)をも国際法廷での要件として含む概念であり、いまひとつは国家元首の免責特権にも踏み込もうというものであるようだ。第二章では第一次大戦からの歴史を振り返りながらジェノサイド関連法概念の成立史を見てゆく。(残念だが概説に留まる。)第三章ではジェノサイド強姦という概念を取り上げた後、日本軍による従軍慰安婦問題を俎上に載せて日本の現状を問う。第四章では戦争犯罪における≪上官の責任の法理≫を取り上げ、上位概念から下層細部へと下りてゆく。続く最終第五章はうって変わって日本の戦争責任に対する今日の立場について『大日本帝国憲法』から戦後を繋ぐ『日本法理学会の歴史認識』のあり方の問題として提起しているが、本書タイトルとはほぼ無関係な論考とも言える。
 総論なく、あとがきだけで締めくくられる本書は冒頭に述べたようにまさしく寄せ集めでしかない。本来なら第二章から始めて、第三章、第一章へと至る道筋の先にこそ『ジェノサイド論』があるのではないだろうか。

5/17 『ジンバブウェの政治力学』 井上一昭 歴史・政治 ★★

 評点はきつくなったがそれは本書の内容が低レベルだとかいうことではなく、おもしろみのない点にある。これまで『アジア経済』に発表、出版されてきた論文をまとめたものなのだが、できるだけ重複論点を避けるべく大幅に手を加えられ、全体的に丁寧で好感の持てる構成となっているにも関わらず・・・である。何故かと言えば完全な書き下ろしと異なり、やはり底本となる論文を生かさんがために章毎の展開がまどろっこしく、ニ歩前進一歩後退といった調子になっていること、そしてジンバブウェ一国に限定されて書き上げた論文である為に、国際社会や近隣諸国の動向と重ね合わされるダイナミズムを欠くものとなってしまっていることにある。(著者自身何度も断わりをいれてはいるが。)これならば喩え重複箇所が増えようとも、いっそ論文を手直しせずに並べ、国際社会やアフリカ諸国の変動を新たに書き起こして数箇所挿入した方が結果的にはよかったのではないかと思われる。また昨年10月の出版物であるにも関わらず、当時から現在へ続いている混乱と暴動へ至る道筋がはっきりと明示されていない点にもやや不満は残る。但し、これだけ本格的なジンバブウェ研究は他にある筈もなく、やや塀の内側に終始したような感もあるが貴重な論考であることは否定しようがない。また著者の学術論文スタイルの筆致がやや堅苦し過ぎるきらいもあり、評点がきつくなった。ジンバブウェ問題は脱植民地化が今日に至るまでほとんどなされてこなかったという点で国際社会がどうあっても仲介し、解決策を見つけ出さねばならない問題である。私有財産であるとか、市場経済優先であるとか、民主主義であるとかいうジンバブウェの現実社会の中では別の意味を持たざるを得ない≪空洞化した概念≫を押し付け、その枠の中での自助努力を求める一方で、混乱を非難し制裁をもちらつかせるばかりではなく、国際社会自らが先頭に立って解決策と妥協策を見つけださなければならない本質的な責任がある筈だ。

5/5 『冷戦下・アメリカの対中東戦略』 ジョージ・レンツォウスキー 歴史 ★★

 本書は同じ第三書館から昨年出版されたガリア・ゴランの『冷戦下・ソ連の対中東戦略』を受けて今度は同趣旨のアメリカ版をと出版社側が探し出したものなのだろう。残念ながら1990年出版の本書はいまだ冷戦構造真っ只中での考察であり、中東問題に冷戦構造がリンクした途端すべてが片付けられてしまう。その上、米国の外交問題を研究しているにしても中東の内政については非常に疎い様子が見られる。またレーガン政権以降については訳者による補遺でほんの少し補ってはいるが如何せんもの足りない。大統領毎に章を区切った本書はまた、大戦後の要と言うべきトルーマン、アイゼンハワー時代が簡略に過ぎて、時系列に出来事を追うばかりであり、中東と国際社会の動きに、米国内政策をうまく整合させながらその背景に潜むものを十分に解き明かしているとは思えず概説書に留まる。
 大統領毎に単純化するならば、人道的立場とアラブ諸国のバランスに終始したトルーマン、冷戦の始まりと共に日和見的に対ソ連バランスだけを重視したアイゼンハワー、そして如何に仮装し理想化しようとも、方法論としてソフト路線を模索しただけで何も成し得なかったケネディ(暗殺という任期の途絶によらなくても彼は掲げた理想主義的政策を曖昧なままに終始するしかなかったろう。)は中東問題からも距離を置こうとし、キプロス動乱と第三次中東戦争に揺れたジョンソンはナセルの挑発によって、冷戦構造とはまた別の、現在にまで受け継がれる反アラブ主義を明確に打ち出してゆく―――それはアラブ社会にも反米意識を生み出す結果となった。勿論これらの政策を米大統領ひとりが立案施行した訳ではない。多くの補佐官や省庁官僚・シンクタンクが複雑に絡み合う利害(国際外交・国益・国内政策・選挙対策)の中で編み出され意志決定されたものだが、日本の首相辺りとは比べ様のないその決定権に慄きを覚える。ニクソンは混沌とした状況の中で自らの不在の理念を埋め合わせる為に、そのブレーンたちと選挙票田である国民、またユダヤロビー等圧力団体との間で引き裂かれ、フォードはウォーターゲート事件の余波で大幅に縮小された大統領権限の中でむしろ良識派を保とうとしていたことが判る。人権外交を謳ったカーターは、にも関わらず国益重視の政策に終始し、泥沼の中東和平交渉にアメリカを問題の多い形で巻き込んだ。そしてレーガンは浅ましいまでに国益という概念を曖昧なまでに拡大した挙句それに屈伏する目利きの悪さを露呈して米国のいう≪正義≫の仮面を落剥させ、イラン革命と続くイラン=イラク戦争で≪対イスラエル外≫のアラブの分裂紛争に相互加担する矛盾と欺瞞に満ちた対アラブ政策により反米主義の仕上げを行った。著者の主張はまったくもって明確なものではない。本書につけ加えられるべきはユダヤ人ロビイストとイスラエルの結びつき、そして大統領選挙と圧力団体、米国内経済の動きについての分析・考察だろう。補うならばブッシュは複雑化したアラブ紛争を二元化して整理するためにもイラク≪一国悪論≫を展開してイスラエル、アラブ双方の執り成しを試み、クリントンは沈静化したかに見えた中東情勢を真剣に捉えなおすことを等閑にして、自国の国益にのみ執着する中で効を焦り≪性急にすべての商取引を采配しようと≫図ったが故に、却って経済支援や和平になびくアラブ諸国家の裏切りに業を煮やしていた『民』の不安と怒りをいや増したのではないだろうか。
 ここには≪国家の安全保障≫という名に置き換えられた国益と、得点稼ぎとしての≪外交≫と≪内政≫という選挙票田や圧力団体を無視することの出来ないジレンマを前にしてすべての理想・理念が潰えるしかないのが見て取れる。それがすべて≪再選の為≫のという目的しかないことに気付かされる時、寒々しい想いに捕らわれるのはわたしだけなのだろうか?かくも重大な責任を引き受け、それを十全に果たせる人間がいるとは到底思えない。彼らがそれを死に物狂いで≪目指す≫のは何の為なのか。もしもそれが個人の自負心による野心や地位・名誉・権力・金欲というものでしかないとすれば??内外のすべての政治家の胸にどんな理念と理想が渦巻いているのか、そしてどんな能力が自らに備わっていると自負しているのかをこそ問うてみたい。。。

4/30 『戦争のプロパガンダ10の法則』 アンヌ・モレリ 政治・歴史

 本書はブリュッセル自由大学での≪歴史批評≫の講義用テクストとして書かれたものである。したがって小冊子でしかない。著者が認めている通り、20世紀初頭における先燵のジャン・ノートン・クリュやアーサー・ポンソンビーの研究(特に10の法則は後者より)を踏まえて、現代社会にも通じるプロパガンダを例証しようという意図で書かれている。まず10の法則は以下の通りである。1.われわれは戦争をしたくない。2.しかし敵側が一方的に戦争を望んだ。3.敵の指導者は悪魔のような人間だ。4.われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う。5.われわれも犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる。6.敵は卑劣な兵器や戦略を用いている。7.われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大。8.芸術家や知識人も正義の戦いを支持している。9.われわれの大義は神聖なものである。10.この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である。
 ここには目新しいものは何ひとつない。そして主に二度に渡る大戦以降の様々な紛争に具体例を求めてゆく。。。ということなのだろうが、如何せん例証が少なく十分な検証をなし得ているとは言えないのが残念だ。(講義用のやっつけ仕事か?!)各国指導者の言質が取り上げられるが、寧ろここで問題とされるべきは政府のメディア戦略とメディア自体の商業イズムではなかろうか?結論部でTVや映画などと交えて多少触れているが問題に対する踏み込み自体はほとんど見られない。入り口を開示し、入り口から中を覗き込んだ程度でしかない。著者の専門がどの分野か明らかにはされていないが、中南米・中東アジアアフリカ・旧共産圏の現代史あたりにもっと材を求めるべきだったろう。例証には事欠くまいに。。。蛇足だが、副題に『-ポンソンビーの・・・-』と付け加えるべきだ。ジャーナリズム学の初等科読本か。。。締めくくりの一言が気に懸かる『戦時に政府が判断を誤った場合、多大な損害が生じることになる。だから、本当は戦時にこそ、政府の誤った決定を正せるように、言論の自由が保障されるべきなのだ。』

4/28 『イスラエルの政治文化とシチズンシップ』 奥山眞知 社会学・歴史 ★★

 本書で述べられるのはガザや西岸地区など占領地、安全保障地帯などを除く、イスラエル国家のユダヤ人の政治文化並びに政治意識にある≪民主主義≫観や≪人権≫観の『歪み』である。シオニズムによって創設されたイスラエルは『ユダヤ国家』を謳うことによって未だ、そして永劫にシオニズムとは訣別できない。労働党とリクード党の二大勢力を基軸とする一方で膨大な数の弱小政党を育んできたとはいえ、それらのうち反シオニズム(=イスラエル国家の否定に繋がる)を掲げるのは皆無に近い。イスラエル生まれの戦後世代たちを以ってしても『伝統的シオニズム』(社会主義的キブツ連合型)に代わる『ポスト・シオニズム』(人権擁護型)と『ネオ・シオニズム』(政治施策型)をしか生み出すことの出来ないその土壌構造を探る試みだ。したがって序盤ではイスラエル国内のパレスチナ人たちの実体について触れているが、ここではあくまでもそれをどう現在のイスラエル国民(=ユダヤ人)が客体化し得るかを探るための素材に過ぎない。そこに介在するのは≪エスニック・デモクラシー≫という魔やかしの概念だ。一方で人口バランスを覆す在住パレスチナ人の増加に対応すべく行われてきたオリエント移民と、90年代に入って大量の流入があったロシア・東欧からの移民を得て活性化するユダヤ・マイノリティの存在と政治要求(形を変えた階級闘争とも言えよう)が、自らの一体化・社会進出を求める形で新たに生み出しつつある強硬派の問題。占領地区問題とはまったく別の将来イスラエル国家が否応なく向き合わされる政治課題がそこには山積みされている。そのためにこそ外敵(占領地パレスチナ人)が必要であるという矛盾。。。そこまでは非常に興味深く読み進めることが出来るのだが、著者の認めている通り、ユダヤ教の信仰度合いを基軸とするポリティカルな分裂(横断)には踏み込めておらず、中途半端さがないとは言えない。またそういった人々を育んできた教育文化についてもきわめて簡単に触れられているに過ぎない。観光ビザで入国した日本人研究者になし得る聞き取り調査の限界も止むを得ないとはいえ残念だ。イスラエル国民による体制批判の限界と不在の原因を追求するというよりは現況の報告に留まったと見るべきか?更なる研究が待たれる。

4/21 『アウシュヴィッツと知識人』 E・トラベルソ 文芸・思想 ★★★★

 副題を『~歴史の断絶を考える~』とされた本書だが、多くの類書には事欠かない凡庸なタイトルだ。だがにも拘わらずわたしが本書を手にしたのは、ここに取り上げられた知識人たちがヴィーゼルやフランクルでもなく、カフカやレーヴィ、アーレント、ツェランといった文芸・思想家であったからに過ぎなかった。言わば著者との好みの一致に惹かれたと言っていい。だが本書の内容は予想を上回る出来栄えだ。
 さて肝心の内容だが、本書は第二次大戦終結後の1940~50年代、世界がアウシュヴィッツについて沈黙していた時代に知識人たちがどうそれを捉え如何に反応したかを探るものであって、決して過去から現在への知の俯瞰・概説などではない。決してアウシュヴィッツを予見は出来なかったカフカ、ベンヤミンといったアウシュヴィッツ前の知識人、戦後いち早くアウシュヴィッツが含有する問題を問い掛けたアーレントやアンダース、アウシュヴィッツ後の世界の断絶に喘いだツェランとアドルノ、生き残りとしての証言者アメリーとレーヴィ、そして非ユダヤ人として今日的考察の萌芽ともいえるドワイト・マクドナルドに対して、時代に捕らわれた思考しかみせなかったサルトル。。。アウシュヴィッツ後の知識人を4つに区分けしながらそれぞれの対比を試みる中で著者が導いたもの。それは近代化と合理主義に支えられたアウシュヴィッツの構造であり、それが故のアウシュヴィッツの普遍的現代性でもある。E・トラヴェルソによるとナチスの残虐性は『近代文明の中に突如として出現した≪野蛮への退行≫』などではなく、近現代文明を導いてきた合理主義的精神と科学的進歩の流れの中にこそある。時に理性とも呼ばれる合理的精神と進歩という機械文明の洗礼を受ける中で、分業化され、まさに資本主義的ヒエラルヒーの命じるがままに功利主義と相俟ったそれは、アイヒマンのような勤勉であるがしかし凡庸でしかない人間に≪罪悪≫を意識に顕在化させることなく、残虐な指令を発することを可能にした。合理主義的に計算され、作業が機械的により効率よく運ばれてゆくように構築された偽装と変容によって、責任を分担され、作業を分業され、また情報を分断された人々は無責任をカモフラージュし、良心の偽装を可能にすることが出来たのだ。今尚、世界中の悲劇に対して無感心と無責任の感覚の中に安逸を貪る我々ゆえに、アウシュヴィッツはまさに現代的な課題でもある。
 余談という訳でもないが、残念なことに最後の方で引用されるP・レーヴィの引用に誤引用(誤訳)がある。

4/15 『宗教に揺れるアメリカ』 蓮見博昭 社会学・歴史 ★★

 まず全体的な批評を述べる前にタイトルの不適切さを指摘しておきたい。本来なら『利益団体に揺れるアメリカ民主主義の試練』とでも題すべきもの。確かに主に前半では宗教団体の成り立ちと政教分離の経緯を概観してはいるが無党派層の拡大しつつある現在では各種利益団体にとって代わられているとする中盤以降になると、敢えて宗教利益団体ばかりの絡みに限定されるものではなくなっているし、その方がずっと本質を明確に出来たのではないだろうか?著者自ら認めていめように本書は概説書の域をでるものではなく、著者の論考というよりはさまざまな図書の要約でしかない。況してやキリスト教団体に限定されてしまっており、タイトルから容易に想像されるようなユダヤ教を始め、イスラームやその他カルト的な宗教団体については一切触れられていない。終章に至って≪therapeutic language=癒し系語り?≫との絡みで再び利用される宗教団体という俯瞰も出てくるが、全体としてはいまひとつの感が強い。
 さて大英帝国と直結する腐敗した英国教会から逃れようとして、米大陸を見出したプロテスタント諸派は政教分離の理念を抱きながらも、一方で閉鎖的な州境内(当時は邦)に己が陣地を見出していた。だが独立とその後に続く南北戦争を経て、カトリック勢力やユダヤ教徒の移民の群れを前に、内部分裂を解消できぬままのWASPたち勢力は融和策としての≪信仰の自由≫と≪政教分離≫を施策に合衆国を動かしてゆく。だが米国は無神仰国民国家ではないため、寧ろ利益団体と票田としての宗教団体をうまく利用し、また時にそれが故の問題を抱えつつ、プロテスタント、カトリック、ユダヤの三大米国宗教を抱合させた≪市民宗教≫という概念を作り上げることによって融和させ統治してきたという。大統領教書にしろ、神の名を称え、自国のハレルヤを旗印に大戦と冷戦の時代に世界をリードしてきた。その底部には政府の信仰への介入を非としながらも、利益団体としての宗教勢力の政治への介入は否定せずに、寧ろ利用するという一方通行性すら窺える。そして怒涛の60~70年代、社会勢力としての各種利益団体は雨後の筍を想わせる増殖を始め、公民権運動、ベナナム反戦運動にその成果を発揮してきた。カウンター・カルチャーとしての利益集団の結成に続く、中絶問題、進化論と補助金に関わる教育現場、同性愛問題といったさまざまな場面で繰広げられる各種圧力団体としての宗教関係利益集団と係争事件の関係を例に上げているが簡略に過ぎてポリティクスな分析足り得ていない。試練に揺れる民主主義そのものを問うことをせず、経緯と概観に終始した本書は興味深くはあるが味気ないものでもある。それにしても黒人たちを中心にますます増えつつあるイスラームをまったく無視した著者の真意はどこにあるのだろうか。。。

4/11 『ロルカ全詩集 Ⅱ』(廃刊) ガルシア・ロルカ 文芸 ★★★

 ロルカはグラナダの村落(はっきり言ってしまえば部落。)に住まうジプシーの下を訪れ、彼らのうちに共感を見出し、彼らを愛した。そして≪ジプシー歌集≫を世に送り出す。闘牛をこよなく愛したロルカはまた、アウトローとしての彼らの熱き血潮にも魅せられたのだろうか。その彼をしてニューヨークへの一年(1929年)の留学生活は驚嘆と失意の連続だったようだ。摩天楼を前ににしてその巨大で非人間的な機械化された喜びを見出し得ない労働の軋轢を見、無機質で不潔な街並みと対照的に不必要なまでの繁栄を見つめた彼は、詩作においてもそれまでの詩法では著わし得ない何ものかを感じてシュルレアリスムの詩法を援用してさえいる。そこでも彼の見いだしたのは人間ならざる人・・・黒人の姿だった。本国ジプシーにも喩えうる、だがそれ以上に苛酷な生を背負い込んだNYの黒人を見つめた後、彼はキューバへの旅行で幾分なりとも自然な状態にある黒人を見い出し安堵している。虐げられし者たちへの深いシンパシー。。。だがこれらの詩篇≪ニューヨークにおける詩人≫を未発表のまま残して、いよいよ闘牛士≪イグナシオ・サンチェス・メヒーアスへの哀悼歌≫をその死に捧げる。些か感傷的なまでに劇的な作品であるが、やはり美しさは随一か。。。その後もアラビアの詩型などをも手掛ける中で彼はより一層リズミカルな作品を完成させてゆく。。。そして劇作家としての名声(『血の婚礼』等)が頂点に達するかに見えた1936年、スペイン内戦の勃発と混乱の最中、わずか一ヶ月で反乱軍部の手で銃殺される。(享年38才)
返す返すも全作品のスペイン語朗読が欲しい。。。脚韻のみに限定せず、尚一層、音で味わうべき作品群だろう。。。スペイン人の友人が欲しい。。。

4/6 『ロルカ全詩集 Ⅰ』(廃刊) ガルシア・ロルカ 文芸 ★★

 1898年に生まれ、1932年スペイン内戦のさなか反乱軍によって処刑されたロルカはシュールリアリスムの画家ダリと映画作家ブニュエルを親友とした今世紀初頭のスペインの詩人・劇作家である。また同時にジプシーとフラメンコ、闘牛を愛した彼は「歌われる詩」にも取り組んだ。ここに収められた初期の詩篇はロマンティカなものも多く、本来わたし的には趣味が異なる。だがここにあるのはまさに情熱的でロマンティカでありながらも、情熱の限界点を、幻滅を、情熱の死を拒否しない、一瞬という情熱の限界と終焉を知る者の詩といっていい。したがってこの手の仏詩にありがちな軽い戯れやリフレインを想わせる甘ったるいロマンティークはどこにも存在しない。そして≪カンテホンドの詩≫から彼はスペイン民族音楽に深く根ざした詩を謳い始める。それが故に彼は詩人として軽んじられ、それが故に彼は民衆にもっとも愛される詩人となる。ここから先は原語の音を味わうしかない。翻訳で大意を掴もうともそれはロルカの世界の1/3でしかない。実は幸いにも98年にロルカ生誕100年を記念して録音されたロルカの詩によるCDを持っている。とても量的には満足できるものではないが、それがある故にロルカを読むことに決めたと言っていいだろう。蓋し、詩自体はかなり暗喩に富んでいて難しいが。。。

3/31 『プリーモ・レーヴィは語る』 プリーモ・レーヴィ (マルコ・ベルポリーティ編) 文芸・思想 ★★

 アウシュヴィッツのユダヤ人絶滅収容所の≪生き残り≫であり、『アウシュヴィッツは終らない』や『休戦』の著者としても有名でありながら、化学者として工場で働きつづけたレーヴィの生前のインタビューを集めたもの。
『抵抗行為をした者には敬意を表しますが、それが普通ではなかったのです。屈服し、叩きのめされるのが普通だったのです。生き残ると言う事はそれだけでは何の意味もありません。私も生き残りですが、自分のことを英雄だとも思わないし、抵抗をしてきたという自覚もありません。私が自分に納得していられるのは、証言して来たから、目と耳をしっかり開けていたお陰で自分で見たものの真実を正確に語れたからです。』と語り、作家と労働者としての二重生活について定年後に『おかげで年金をもらえますから』と語った彼はその数年後(1987年)に投身自殺を遂げる。。。執筆活動について彼の化学者としての本分が、≪叫ばず、冷静に、知っていることだけを、誇張せず正確に書きあらわすことを可能にした≫のだと語る。≪生き残り≫以外では、なによりもピエモンテ人であるというルーツを抱きつつ、自身のユダヤ性について問われることに躊躇しながらも≪アウシュヴィッツを大学≫とし、≪アウシュヴィッツが自分を作家≫にしたのだと告白する彼に対して、惜しむらくはインタビュアーが専門家として細部にこだわり過ぎたり、逆に一般的過ぎて、同じような通り一遍のことしか訊けなかったり・・・とその核心部分に踏み込んだものが少ないことか。終生同じ質問に答えつづけた彼の対話としてのエクリチュールにインタビュアーが誤魔化されてしまったかのような感すらある。時事問題でない以上、つくづく取材する者の資質が問われるものであることがそれと知れる。編者・翻訳者によって収録が編年体ではなくテーマ毎にまとめられているがこれもまた余計。。。内容の濃いものを巻末近くに集めるための作為か。
興味を持たれた方はまず彼の『アウシュヴィッツは終らない』からお読みになることをお薦めする。『アウシュ・・・』は≪人類として必読の書≫があるとすれば間違いなくそのうちの一冊である。前掲の書を読んで何故か彼をイタリア最大の詩人であるとの私見を抱いたが、インタビュー中で彼は同書が≪書物として書きあらわされる以前に、解放後の自分が何度も口頭で周囲の人々に話して聞かせたもの≫であったと告白する。それ故に同書は散文であるにも関わらず、恰も叙事詩のような独特のリズムを持つ作品となったのであろうか。

3/26 『旧約聖書外典 (上)』 関根正雄編 聖書 評価せず

 浅学な上に、本書においても「はしがき」等に詳述なく、旧約聖書外典なるものの成立概史自体が詳細不明であるが、ユダヤ教団によって異端書とされており、むしろキリスト教会によって今日に至るまで保存・伝聞されているという。上巻の内容は≪第一マカベア書≫≪ユデト書≫≪トビト書≫≪三人の近 衛兵≫≪ベン・シラ≫の5書からなる。
≪第一マカベア書≫ユダやヨナタン、シモンといった面々と、アレクサンドロス大王などギリシアやローマ帝国などの外敵との戦記。神についても時折言及されることはあっても、神の奇蹟などというものは一切触れられない外交史書としての趣きが強い。正統派ユダヤ教団であるハシディズムについての言及が見られる。何故の異端書か不明。。。≪ユデト書≫西欧絵画でも有名なユデトの物語はここだけで伝承されている。クリムトの妖艶な描写とはことなり、鉄の処女性を以って敵将を討つ女傑として描かれている。≪トビト書≫トビト、ドビアスの徳性を説いた物語。聖書とは異質かも。天使ラファエルが登場する。≪三人の近衛兵≫賢者争そいを描いたソロモンの小噺のようなもの。≪ベン・シラ≫前半は道徳を説く格言集。後半はシモンに至るまでの簡略化された聖書の賛歌。
後半の三つの書は確かに聖書の中に収めるほどの内容ではないだろうが、特に『異端』的教義が読み取れる訳でもない。前二書は史書としての性格が色濃く、神の恩寵や戒めをあまり感じさせないと言えばそれまでだが。。。

3/19 『アルゴナウティカ』 アポロニオス 古典 ★★

 副題は『-アルゴ船物語-』とあるように、かつてハリウッドでも冒険アドベンチャーとして映画化されたこともあるギリシア時代の古典。第一歌、第二歌まではホメロスの『オデュッセイア』にも似た展開であり、特に盛り上がりもない。内容としてはイアソンが彼を畏れた王の命令により黄金の羊皮を求めて数多の勇士たちとアルゴ船に乗り込み、途中様々な苦難に出会いながらも、辿り着き、王女メディアの助けを借りてそれを手に入れ、帰還するまでを描く神話に材を求めた娯楽冒険奇譚といえる。だが第三歌から始まるメディアの物語に入った途端に俄然このドラマはギリシア悲劇を想わせる荘重な劇的格調を帯びはじめる。この物語はイアソンの帰還で終るため、その後のメディアの悲劇こそ語られることはないが、そこへ至る悲劇の道筋が意外なほど丁寧に第三歌、第四歌で、しっかりと描かれている。この部分だけなら文句なく三つ星以上だろうに、前半の淡々とした語り口の冒険絵巻とは繋がりにおいても異質感漂う。場面展開の区切りが不明確なのと、ただでさえ整理しにくい神々の異名がアポロニオスによって独特の喩えられ方をしている為に注釈を捲らずには進みにくい上、その注釈そのものが簡略過ぎて役不足の感も否めない。評価の分かれる作品か。。。新訳ではあるが叙事詩訳となっている。

3/15 『アルベール・カミュ ≪ある一生≫ (下)』 オリヴィエ・トッド 伝記 ★★
3/7 『アルベール・カミュ ≪ある一生≫ (上)』 オリヴィエ・トッド 伝記 ★★★

 上下2巻、二段組、総頁数800頁にも及ぶ本書は前半を読み終えた段階でもすこぶるおもしろいと言っていい。だがそのおもしろさは皮肉にもカミュ伝の主人公たるカミュや、著者ドットの分析にあるのではない。カミュの生きた時代背景が、この考えようによっては凡庸な一人物の伝記をすばらしく意味のあるものにしている。時代はアルザス=ロレーヌの影を引き摺り、ブルムの人民戦線内閣の成立、ファシズムの台頭、反ユダヤ主義の波、スペイン内戦の勃発、「奇妙な戦争」とドイツ占領、ヴィシー政権の成立、そして占領下での『異邦人』、『シーシュポスの神話』の出版、ドゴールとレジスタンス、解放と戦後にはアルジェリア独立戦争と68年の喪失(アルジェリア独立へと続いてゆく、まさに激動する歴史の奔流の中にある。その書割(背景)の中でカミュが極めて普通の人間であるが故に―――政治家でも、革命家でもなく、まさに文学者でしかないが故に―――彼の素顔は知的なヒュマニストでダテ男(ドン・ファン)である―――その混乱の中を生き、巻き込まれながらも、一方で仏植民地アルジェリアの貧しい労働者階級に生まれたフランス人であり、結核病みであるという出自の、さまざまな意味から当然のように彼は客観的な人生を歩みを進めてゆく。そこに描き出され浮かび上がってくる社会がすこぷる興味深く本書を読ませるのであろう。
 またカミュの唱える不条理はカフカが訴える≪世界の不条理性≫ではなく、彼自身の≪人間の不条理性≫であるということに今更ながら気付かされた。(はっきり≪存在の不条理性≫と言うではないか!)カミュ自身はその一部の作品から予想されるのとは逆に楽天家であり、カフカのように特筆すべき人間性を持っている訳ではない。私的見解を述べるならそれはカミュが不条理をヒュマニズムの故に受け入れ幸福を志向したのに対し、カフカが不条理なる生という世界に敵対し、拒否し拒否され、故に押し潰されるしかなかった事実へと繋がってゆくのだろう。「曖昧な不条理」と「実存的不条理」。。。その比較論はここで述べることではないようだが。。。それはともかく本書を愉しむ為にはカミュの著作自体よりもむしろ『サハラの砂、オーレスの石-アルジェリア独立革命史-』や『フランス植民地主義の歴史』などアルジェリア・近代フランスについて相応の知識がある方が望ましいかも知れない。

 下巻に入ると同時にカミュは『ペスト』を完成させ、それによって社会的成功を確立すると同時にもっとも退屈な人生を歩み始める。。。サルトルによって世界に推奨されつつも、サルトルと共有するものを寧ろ持たなかった彼は押し込められてゆく鋳型に逆らう為に『反抗的人間』を書きつけたのだろう。『異邦人』を入門書とし、『ペスト』をその頂点と評価される彼は小説を思想(それぞれ『シーシュポスの神話』、『反抗的人間』)によって補完する技によって実体以上の評価を受けてゆく中で、成功と引き換えに彼は社会的役割に悩殺されるようになり、サルトルとの醜聞論争を機に孤立してゆく。そこへいよいよ彼の祖国たるアルジェリアの独立闘争が開始される。。。だが彼はヒュマニズムを訴えることしか出来ず、アルジェとフランスの間で引き裂かれ、ますます孤立を深めてゆくに過ぎない。芸術家というよりは才能溢れる職業作家であり、傷つきやすくも相変わらず知的で、だが凡庸なドン・ファンでしかない彼は、すべての闘いから身を引くように≪女≫と≪演劇≫という閉ざされた世界に身を沈める。やがて訪れたノーベル賞の受賞さえ彼を孤立から救うことはなく、更なる孤独へと追いやってゆく。そして呆気ない交通事故。。。一時世界的評価が凋落したと言われたカミュの再評価に向けて―――比較的簡単な分析で事足りるであろうこの人物とその社会とのスタンスを、著者は丹念に描きつつ、一方で結論めいた分析や考察を先送りにしてやや長尺に過ぎるこの伝記を綴っていく。その視点は恰も父を語る息子のようでもある。だが著者トッドの力量は決して悪くはない。ただ伝記としてはこの主人公に、『 If 』や、特筆すべき個性、歴史的決断が欠けている所為でやや物足りなさを感じる。終章で著者はそのカミュに≪カミュ復権に向けた≫ささやかな賛歌を捧げる。それ自体は感動的な愛情に溢れるエピローグでもあるが。トータルでの評価は星ふたつ★★か。せめて量的にもう少し削った方がいいとさえ思える。
 余談だがサルトル嫌いの私的には好感♪そしてカミュを再読リストに挙げていたが全作ではなくピックアップしようと懸案中だ。。。ついでに日本ではあまり取り沙汰されないが、個人的にはカミュの作品中もっとも素晴らしいのは『カリギュラ』だと思っている。主題はともかく、作風がもっとも彼らしくないのも事実であるが。。。

2/28 『ディクテュスとダーレスのトロイア戦争物語』 トロイア叢書① ディクテュス,ダーレス 古典 ★★★

 本書は『クレタ島のディクトゥスのトロイア戦争日誌』と『フリュギア人ダーレスのトロイア滅亡の歴史物語』のニ著を一冊にまとめたもの。さてまず↓と併せてトロイア戦争と口承文学の関係について整理しよう。歴史上の事実としてトロイア戦争が行われたことそのものは現在では否定する者はいない。そしてその年代については多少の異論があるものの前12世紀半ばであろうとする意見が多勢を占める。さて『イリアス』、『オデュッセイア』で知られるホメロスはおよそ前9世紀の人物であるとされる。だがホメロスの時代の文学は未だ文字によって書かれることはなく、吟遊詩人らによって口承文学として伝わっていた。それを一巻の書物としてまとめた最古のパピルス写本として前3世紀頃のものがあるが、大多数は紀元3世紀辺りのものが数多く現存している。(その数500以上とも云われる。)さて本書はトロイア戦争に従事したディクトゥスとダーレスが各々史書として書きあらわしたものとされているが、前12世紀に彼らがこのような書物を書き記したというのは疑問符のつくところでもある。だが一方でホメロスが口承文学の形にするまでの約400年間に渡ってトロイア戦争の記憶が細部に渡るまで伝わったのも事実であるから、とすればそこには何らかの情報資料が介在したのは疑い得ない事実でもある。本2書は紀元3世紀頃にギリシア語で書物としてまとめられ、4~6世紀にかけて再発見されたものである。ホメロスの書物が写本としてもっとも数多く編纂された時期とも一致する。内容的にはギリシア側によって書かれた書物である所為もあってトロイア悪視はいなめないが、リアリティのある詳述ともなっており、こういったものがホメロスやクィントゥスによって歌われる元の資料となったと考えても一向に不思議はないように思えてくる。さて長々と述べてきたが、その辺の事情の真偽は歴史の闇の中に埋没してしまうしかないとは云え、如何にも現実的な内部分裂と専制都市国家としての実態や神話的伝承との各々の違いなどもさまざまにあってなかなかにおもしろい。『イリアス』、『トロイア戦記』、『オデュセイア』、『アエネーイス』などを読まれたことのある方は是非にでも読まれるといい。代表的な差異について知りたい方はこちら
ところで『イリアス』を読んでトロイア戦争の史実を信じ、ついにトロイア遺跡を発見したシュリーマンは果たして本書らの存在を知っていたのだろうか。

2/23 『トロイア戦記』 クィントゥス 古典 ★★

 紀元前9世紀とも云われるホメロスの『イーリアス』の後に続く物語を、前3世紀の詩人クィントゥスがまとめ上げた作品(2000.9月本邦初訳)。10年の永きに渡るトロイア戦争の終盤を描いたこの作品だが、その中味は血塗れの戦闘シーンを延々と繰広げるチャンバラ活劇絵巻を想わせる。アマゾネス~アキレス~アイアス~アガメムノーン、オデュッセウス、アエネーイスら有名で賑やかな登場人物に加え、トロイの木馬の挿話などハリウッドのスペクタクル映画のよう。。。韻文訳ではなく現代口語訳でもあり、読み易く楽しめるとはいうものの、作品を神に捧げすらしたホメロスやローマ詩人ウェルギリウス、オウィディウスの詩心には遠く及ばない。ユニークなのは神々の血を引く英雄たちの血に飢えたかのような殺戮の闘いぶりばかりではなく、ほぼ同時進行でその闘いぶりを眺めては一喜一憂する神々の物語を並行して描いていること、そして結びの句を神に捧げるどころか『神々のよこしまな考えによって達成されたことである・・・』と締めくくっている点であろうか。物語はこの後ホメロスの『オデュセイア』とウェルギリウスの『アエネーイス』へと引き継がれてゆく。。。当時の大衆向けの娯楽としての人気ぶりは疑わないが、先にも述べたように文学的賞賛を浴びるようなものではないようだ。(もっとも原語でもなく、韻文訳でもないこの翻訳書での評価は一片的なものでしかないが。)返すがえすも惜しむらくはやはり叙事詩訳でないことだ。。。外国語が堪能であるにせよ、詩心のない翻訳者の手になるということなのか、それともマーケットの事情なのか。。。まぁ、無論その両方が素因なのだろうが。。。

2/21 『フランス植民地主義の歴史』 平野千果子 歴史 ★★★★

 フランス革命における人権宣言~奴隷貿易の廃止~奴隷制の廃止への道程は平易なものではなく、それは人権主義である革命思想の一直線な具現化などですらなく、むしろ大英帝国との数度に渡る敗北の歴史に加え、動乱する植民地の保持・拡大の利権をも絡ませた様々な思惑に支えられた末の苦肉の策だった。。。奴隷制の廃止がまさに植民地主義の拡大へと表裏一体をなすその背景をさぐりながら、今日世界に名だたる人権国家を標榜するフランスの記憶操作にメスを入れてゆく。そして奴隷解放の大義名分はフランスによる≪文明化≫の主張と相俟って、奴隷制廃止のための文明国フランスの直接統治による植民地の文明化を命題とすることへ連なってゆく。そこには反トルコ=反イスラームの十字軍的大義名分さえ見え隠れする。この問題は今日のアラブ情勢を鑑みる時にも我々の西欧的価値観の押し付けとして≪イスラーム世界を文明化≫させようとする意識のあり方にも通ずる。非常によくまとまった著作であるが、時代意識から逃れることの不可能性を無視した歴史的人物の評価に際して、白人(混血含む)運動家に対する評価と黒人の運動家に対するそれに格差が見受けられるのが腑に落ちない。また本書に思想系著作としての重みを持たせようとする心持からか、本来不要な≪オリエンタリズム論≫をサイードから借用して見せたり、中途半端なクレオール・ネグリチュード論を展開した部分は余計か。

2/13 『旧約聖書 Ⅵ  列王記』 旧約聖書翻訳委員会 聖書 評価せず

 ここでは有名な賢王ソロモンに始まり、そのようやくのことで成立したイスラエル王国が南北に分裂、下克上の戦国動乱時代を経て滅亡へと至る歴史が綴られる。だがソロモン王の伝説も、聖書そのものには希薄だ。それは別書として伝承されているらしい。そして賢王ソロモンに至るまでも登場し得なかった≪奇蹟を行う預言者≫エリシャの姿が異形を放ってみえる内乱と下克上に明け暮れた王国の衰亡期を背景に、神の人エリシャがヤハウェに臨まずして病を癒し、死者を生き返らせる記述は、以前に述べた現実主義者としてのユダヤ人像からは異端である。ユダヤの信仰が地に堕ち、権力争そいと共に土着の神々が甦る中で彼は出現する。だが、その名声にも関わらず彼を敬う諸王は現れず、一部大衆の中で伝説化されたのではないか?それもまた不信心と混乱の世故に生み出された幻想と言えるのではないだろうか。また≪サムエル記≫でも述べたが、後代になって結果論として王国の滅亡を伝承しなければならなかった聖書の原典編纂者は、今に伝わる歴史的記録とは明らかに矛盾するまでに当時の諸王の≪悪行≫を並べ立て、それが故に王国はヤハウェの怒りによって滅亡を迎えたのだと記述されている。すなわち『その繁栄もヤハウェが齎したものであり、没落はヤハウェの目に悪なることを行ったからだという結果論に基づく史書の編纂である。』
 だが少し考えてみて欲しい。自らの神とその信仰を伝承するために、何故ここまで≪恥≫とも言える自らの民族の≪不信心の歴史≫を数巻にも渡って繰り返し記述せねばならないのだろう。。。いったい「どんな論点に経てば民族の裏切りと堕落の歴史を≪聖書≫として編纂する」ことが可能になるのだろうか?正直、読み物としては退屈極まりないが、その背後にあるユダヤ思想を探りながら読破してみたい。

2/10 『旧約聖書Ⅴ  サムエル記』 旧約聖書翻訳委員会 聖書 評価せず

 ここで語られるのはサムエル~サウル~ダヴィデへと続く系譜である。何度も繰り返していうようだが、モーセ5書を除く旧約聖書は道義や行動規範・愛などというものを伝える為に記されたものではない。そこが新約聖書とは根本的に大きくことなる側面であろう。さまざまな伝説に彩られながらも旧約聖書は史書として記されてゆく。多くは似たようなドラマであって退屈にさえ思える。芸術作品のモチーフにも多く用いられるダヴィデと巨人ゴリアテの闘いも僅か2行に収められるに過ぎない。まさに伝説は更にここから始まってゆくのだろう。これまでと同じくサムエル、サウル、ダヴィデと雖もさまざまに神の目に映る悪を為し、懲罰と贖罪を受ける。だがこの巻の最大のテーマは≪王権≫にある。モーセ以来、サムエルまでの指導者はヤハウェによって後継指名され、引き継がれてきた預言者に拠っていたが、広大な土地と人民を抱えるようになった民が国王を求めた為、ヤハウェは≪国王≫を基本的に≪悪≫としながらも、それを与えることに同意する。神の目から見れば≪王権≫はいずれ悪なる欲望を招き、それが故に失墜する定めでしかない。それは人々が神に仕えるのではなく国王に仕えようとするからだと明かされている。モチロン、史書として現在進行形で記されたものではなく、後代になって伝承をまとめ記された旧約聖書であるからその繁栄もヤハウェが齎したものであり、没落はヤハウェの目に悪なることを行ったからだという結果論に基づく史書の編纂でもある。そして・・・やがてユダヤ民族は国王なき民として離散してゆくことに連なるのか。。。

2/8 『アルジェリア危機の10年』 渡辺 伸 政治・歴史 ★★

 副題を「終焉と再評価」とする本書は、駐アルジェリア大使を務めた著者が在任中から筆名を用いて、専門誌へ発表しつづけた論考・記事の集成である。アルジェリア政府は、91年12月初の複数政党政治を賭けた第1回選挙におけるイスラーム政党FISの圧勝を期に、イスラーム原理主義政権の実現を防ぐとの論拠に基づき、第2回選挙を破棄、軍部によるクーデターで選挙結果を無効とした上でFISを非合法化、弾圧に踏み切った(とされている)。非合法化されたFISはゲリラ戦略に基づく暗殺や襲撃を繰り返し、以降仏・国連アムネスティを始めとする世論は民主主義の弾圧として人権的立場からアルジェリア政府を非難し、各種の圧力を加えた。その最中、駐留大使として派遣された著者は国際世論とは別の観点(現政府は決して民主主義を踏み躙った訳ではないとの主張。)に立ち、批判を浴びながらも日本の研究陣に向けて情報を発信し続けた。。。ということなのだが、ここに出てくるのは政界内部の権勢・時勢ばかりであって、人民大衆の姿はない。それもその筈、著者自身が認めているように当時の暗殺テロが日常化したアルジェリアにおいては外出することは不可能であった為、要塞と化した大使館公邸に閉じこもり、新聞・メディア・外交チャンネルを駆使して採取した情報に基づいている。著者は国際世論を是正すべく、体制擁護を繰り返すがそこには所詮外部客人として自身の身の安全を保障してくれる体制=国家への厚意があろう。しかもありがちな反イスラーム色をあちこちに見出せる。国際世論が不当な非難を現体制に浴びせているとはいうものの、アルジェリア非難の先鋒は人権団体であって、国際政治舞台ではない。その証拠にクーデター後も米国並びにそれを後ろ盾としたIMFや英国・日本の助力を得てアルジェリアは油田・天然ガスの増産・輸出を広げている。所詮はフランス(旧宗主国)と口先だけの国連程度の圧力では何ひとつ変化ないことの証でしかない。だが著者の主張は皮肉にも昨年のテロによる反イスラームの潮流に乗って現勢の裏付けを得ることとなった。すべては米国の動向次第なのである。さて基本的な姿勢については文句ばかり並べたが、ほとんど情報らしい情報の伝わって来ない日本ではこの本と著者の齎す情報と分析はすこぶる貴重でもある。著者の述べることが事実無根な訳ではないし、わたし自身そんな風に考えている訳でもない。ただテロの10年をどう再構築するかの道筋に問題なしとは言えないということである。ここではFISの圧勝に対する何故?が解明されることはないし、国民が何を望んでいるかを問いかけることもしない。政治的な安定が何にも況して優先されるべきであるという外務省的な在り方と、政府批判が許されるメディアが存在するのだから軍事独裁国家ではないという論拠でしかない。政府批判が許容されるのは体制の脆弱さの所為かも知れないし、その政府が10年の動乱を生き延びたのは道義的な≪善≫の証などではなく、それこそ武力・戒厳令・弾圧の賜物かも知れぬ。99年のブーテフリカ大統領の民主選挙による就任により軟着陸に成功したかに見えるアルジェリアではあるが、よしんば著者の論考に歩があるとしたにせよ、ここには国民大衆は一切存在しないし、介在もしない。。。数種類もの選挙システムとそのシステムすら変更操作することが可能な民主主義という実体の不明な怪物の姿だけが影を落としている。血を流しているのは国民だというのに。。。

1/31 『万里の長城ほか』 カフカ小説全集⑤ フランツ・カフカ 文藝 ★★

 手稿版カフカ小説全集の中でも本巻と6巻は残されたノート、草稿の類いをそのまま一切の手を加えず、整理もせずに収録しているという意味では、カフカの習作・創作過程を収めた或る種のドキュメントといっていい。これまでの全集では作品の断片として提示されていたに過ぎないものが、いまこうやって開示される中でひとつのドキュメントとして成り立ったものだ。タイプでもなく、手書きでノートに書きつけられたそれらは何度も書き改められ、しつこい程に同じ場面をしかも丁寧に繰り返し描写されている。特に大分を占める「ある戦いの記録」では非論理の論理的闘争を描出するかのような試みがなされている。さまざまなシュチュエーションを構想し、何度も書き直されたそれはカフカの脳裏を数年に渡って占め続けたのち、放置されるがままに中断した。本来その物語がどこへ向かうものであったかも、その主題意図すらも見えぬままに。。。苦悩するカフカの創作の場に立ち会わされた感がある。本書は★★評価とは別にわたしを十分に魅了してやまない。

1/22 『キリストはエボリに止りぬ』(廃刊) カルロ・レーヴィ 文芸・思想 ★★★

 本書はタイトルから想像されるようなキリスト教関連の本などではない。ムッソリーニが台頭していた第二次世界大戦直前、イタリアで画家を志していたレーヴィが反ファシズム活動の廉で逮捕され、数年の留置生活の後、南イタリアのガリアーノという世界から忘れられた土地へ流刑となった想い出を回想したものである。タイトルの意味はかのイエス・キリストでさえもこの地ガリアーノには足を運ばなかった(神にも見棄てられた土地)という民間の諺が基になっている。だがそこに住む極貧の農民たちは世界からも、時からも忘れられた、無関係なままのその存在とは裏腹に、中央政府や国家・中間層ブルジョアなどによって、抑圧と搾取を受け続けていた。。。実は1953年に翻訳出版されたまま長らく廃刊となったままの本書はフランチェスロ・コージ監督、ジャン・マリア・ボロンテ主演で79年に『エボリ(邦題)』として映画化されており、わたしがその作品を観て以来ずっと捜し続けていたものである。(余談だが、岩波書店の単行本である本書の当時価格は250円。)前半はただの回想録であるかのように始めながら、次第に本書はその後、亡命とレジスタンスへと流転してゆくレーヴィ自身の思想形成の深部を語ったものへと連なってゆく。時代世界と隔絶され、社会や文明の恩恵を受けることのないままに、しかしながら中央政府によって一方的に搾取される、抑圧されるだけの片道だけの関係が永劫に続いてきたこの村で、彼は現在に脈々と続く南伊問題の起源へと想いを走らせる。嫌悪感すら感じさせる村の貧しさ、人々の偏狭さの中にあって、彼の胸中にふつふつと沸きあがってくるものは安直な郷愁や同情などではない。本書はイタリア解放の直前、ナチス進駐下フィレンツェの屋根裏部屋に隠れながら書き上げられたレーヴィの信条書とも云えよう。



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2001年度 読書記録と批評 [読書記録]




読後感想 2001年版 (当時のものをそのまま再録) ※日付は降順

--------------まとめ----------------

 2001年は少しばかり読み過ぎたかも知れない。年間50冊程度がベストなのだが、66冊というのはそれ自体悪い訳ではないにしろ、他にすべきことをないがしろにしてしまった結果だとも云えるからだ。仕事、HP更新、プライベート。。。様々な要因を挙げることができよう。
 それはさて置き、特徴的だったのはここ10年以上の間、これだけの文芸本を一年に読んだ記憶がないことと、ネットでの検索による絶版・廃刊本を多数入手することが出来たことだろう。文芸図書で5冊、歴史図書では9冊にも及ぶ。惜しむらくは良書の大部分が絶版・廃刊書籍であることだろう。
 現在の出版事情は目を覆うべきものがある。読書人口の大半はなんと漫画本が占めるらしい。それを別にすると大半が国内作家のベストセラーものであり、TVドラマや映画の原作が占める。次に国内の時代小説と海外ミステリーSF・映画の原作の類が占め、さらにはビジネス図書やコンピューター関係の図書ですべてが埋まってしまう勢いで、ここに挙げたような文芸書はほんの一部、数%にも満たないそうだ。況してや歴史図書・専門書となると大学図書館と学生の教科書・卒論課題としてしか需要なく、数値として弾き出すことも難しいと聞く。
 件のテロの所為もあってちまたの書店には≪イスラーム、アラブ≫の関連書籍が並んでいるが、それとて興味を抱いた人が一人一冊というような状況では返品回収本が増えるばかりだという。どんなきっかけでもいい、少しは他人のことに、他所の世界のことに、もう少し興味を持っていいと思うのだが。。。それは自分自身を問うきっかけにもなる筈なのだから。。。


※末尾に、2001年以前の感想の読めるものを付記。



日付 書名 著者 ジャンル お奨め度

12/31 『東アラブの歴史と政治』 小串敏郎 歴史 ★★★

 56年から30年近く中東の外務省で勤務した経験を持つ著者が85年に出版した本書であるが、シリア・レバノン・イラク・パレスチナを中心とする地域の近現代史となっている。特に本書の特徴はこれまで省略されがちだった、第一次大戦のトルコ敗戦に伴う東アラブ地区の英仏による分割委任統治~混乱の独立運動の経過をかなり詳細に記述していることであろう。義務教育でヨーロッパ中心の世界史しか学ばなかった我々にとっては欠落した部分であり、イラクやイラン、シリアその他のアラブ諸国は”砂漠”というイメージ(半分は間違っている)が強い所為もあって、恰も突如として現代史の脈絡に出現した雨後の筍のようにだ。中東史の類書でも独立後の中東紛争に文脈も重みを置く傾向が強く、比較的簡略化されることの多い部分だ。ただシリア、イラクはバース党やエジプトのナセル主義等を通じて非常に複雑な絡み合いを形成しており、初心者には容易に縺れた糸をほぐしながら理解することは難しいだろう。ただなにかと西側メディアの批判にさらされることの多い、シリア=アサド政権、イラク=フセイン政権であっても、独立以後の再三再四(その数、実に十度にも)に及ぶクーデターや暗殺の末にようやくの安定を見出したものでもあるということだ。粗方の政敵が排除され尽くした後だからこそ誕生し得たとも言えるだろうし、また同時にギリギリの民意に沿う路線であるとも言えるのかも知れない。いずれらせよ、両政権の排除が新たな混乱を呼ぶことだけは確かだろう。年末にかけて随分と間を置いて読まざるを得なかった所為も手伝って機会があればもう一度、再読したい。

12/12 『レバノン現代史』 夏目高男 歴史 ★★★

 副題を「-内戦までの道-」とする本書はまさしくわたしが探していた本。だが実はこれ、正規の出版物ではなく≪財団法人中東調査会≫の配布本みたいなもの。安価な懐かしい小学教科書みたいな印字・装丁。ネットで直接学会からGETしました。著者は外務省で中東地域の現地大使を含めて20年以上担当してきたベテラン。本書の中身もそれなりのものといえる。だが、これは書き下ろしではなく、これまでのいくつかの論文をまとめたもの。レバノン内戦を20年後に振り返ると云っておきながらそれはないんじゃないかと。。。ボキャブラリーが狭いのか手抜きなのか、それこそ一字一句変わらない文章が何度も何度も繰り返される。大抵こういった歴史図書の場合はその地の気候風土から入るものなのだが、いきなり総体としての≪レバノン人気質とは?(勿論、個人とは例外であるという観点で)≫から始まる斬新な出だしに感心したが、そこに語られたすべてが後の論文からの一字一句といえる丸抜き出しであるのが減点。抜粋を多用しつつ「はじめに」だけ書き下ろして(?)後はこれまでの論考を寄せ集めただけのタイプ。。。そういった点を除けばユーゴスラヴィアを凌駕するモザイク国家としてのレバノンの複雑さをまとめ上げるのはそれ自体が困難なことであるが、比較的満足のいく内容である。著者の内部で≪民主主義≫であるとか≪自由≫であるとかの概念が曖昧で明確に定義されていない点などいくつかの難点もあるが、鵜呑みにさえしなければ資料的価値は十二分にある。知識ある方が名文家とは限らず、明晰な論理的思考を併せ持つとも限らないところがこの世界(学術専門書)の難しいところか。。。それとも外務省という経歴がポリティカルな側面を曖昧に片付けてゆくのだろうか?

12/8 『旧約聖書 Ⅳ 〈ヨシュア記・士師記〉』 旧約聖書翻訳委員会 聖書 評価対称外

 〈ヨシュア記〉というのはモーセの跡を継いだ形のヨシュアの征服戦記と云っても差し支えないだろう。約束の地を奪う闘いの記録である。奪った土地の者を皆殺しにする話が延々と続く。聖書を通じて語られるのは今日的なモラルの問題ではない。聖書における唯一絶対のモラルとはヤハウェの教え・戒めを守ることだけを第一義としており、あとはイスラエルの民の内部における≪裁き=よきこと・悪しきこと≫の規範としてのモラルがあるのみであり、他部族についてはそこに人道主義的モラルは介在しないと云っていいだろう。さて困惑のというべきか、混迷の聖書である〈士師記〉はヨシュアなき後の混乱期を伝えるものなのだろうか。様々な大小の各氏族の指導者がここでもまた信仰の堕落と信仰の再生というテーマで描かれている。だがそれ以外に主たるテーマは見当たらず、有名なサムソンとデリラの挿話なども全体として何かを伝えたいが為の物語とは云えない。イスラエルが王国を築く以前の過渡期に関する史実の寄せ集め。。。ということになるのだろうか?王国成立までの歴史の空白(欠落)を埋めるために寄せ集められた各氏族の記憶だろうか?本書は教会主導の出版ではないので、各巻毎にあとがきとして研究者による解説がついているが、そちらを読んでも〈士師記〉についてはやはり同様の疑問が呈されている。

12/4 『旧約聖書 Ⅲ 〈民数記・申命記〉』 旧約聖書翻訳委員会 聖書 評価対称外

 〈創世記〉、〈出エジプト記〉、〈レビ記〉、〈民数記〉、〈申命記〉を以ってモーセの五書(トーラー)という。言わば旧約聖書の根幹を成す部分である。〈民数記〉とは読んで字の如く、イスラエルの民たちの戸籍調査簿のようなものである。モーセがエジプトから連れ出した数百名の民が如何にヤハウェの導きによって増えたかを各氏族毎に2度に渡って調査したひとつの報告的記述である。そして〈申命記〉はモーセがいよいよ死を迎えるに当って、これまでの民の歴史を振り返り、ヤハウェの教えと戒めを再度説き、往生するまでを描いており、ほとんどが同じ描写の延々たる繰り返しでしかなく、そう長いものではないが、十分に退屈させてくれる。ここでも描かれるのはモーセに付き従った人々の不平であり、神への不信であり、その度に下されるヤハウェの怒りと懲罰である。繰り返し、人々はモーセとヤハウェを罵り、その怒りを買った者のたちが滅ぼされる。それはモーセが死の前に預言するときも「わたしはお前たちがわたしの亡き後、ヤハウェの教えに背き、怒りを買うのを知っている・・・。」と述べるほどだ。〈民数記〉の叙述にしても、ここでの不信心の繰り返しにしても、別項で述べたことがあるがユダヤ教というのは驚くほどリアリスティックであり続ける。宗教ですら夢想・夢幻の世界ではなく、現実主義的な立場の上に立脚しているとも言える。モーセは自らの力で奇蹟など起したりはしないし(すべてはヤハウェが行う)、あの世であるとか、キリスト教によって齎される地獄だの悪魔だのという思想もここにはない。またユダヤ教のことを我々は≪一神教≫として理解しているが、それはただひとつの神しか存在しないという立場ではなく、イスラエルの民はヤハウェ神と契約を結んだのであって、他の神々を信奉してはいけないという意味である点を見逃してはならない。他の神々を悪魔として退けたのはまさしく後のキリスト教的思想観である。
雑学:「アーメン」とは神の呪縛に対する「確かにその通りです」という同意・認諾の言葉だという。

11/27 『マクナマラ回想録』 ロバート・S・マクナマラ 歴史

 95年に米国で発表された本書の副題は「ベトナムの悲劇と教訓」。ケネディからジョンソンへとアメリカがベトナム戦争へ深入りしてゆくとき国防長官を務めたマクナマラが79歳の老齢に達してベトナム戦争を振り返った回顧録である。通常ならわたしは本書の類には決して触手を伸ばしたりなどしない。だが本書の出版と同時に紹介された書評の大半は日本語あとがきにある通り、マクナマラが自身の記憶よりも公式の記録を優先させる為、歴史学者と組んで自己批判を躊躇せずに書き上げた・・・・。というものであったが故にそそられたのが実体である。だが結論から言えば所詮、自己弁明の為の回想録の域を出るものではない。≪自己≫だけでは社会の認知を得られないと知っているマクナマラは自分を含め過去の過ちを認める姿勢を打ち出しつつも同時に≪我々政府指導者≫の善意を主張して止まない。≪我々≫は間違っていたが、決してエゴイスティックな目的やメンツの為に米国民を悲劇の泥沼へと導いた訳ではないのだと・・・。そしてどれほど反省を推し進めても彼と彼の時代が共有した概念から自由になることはない。ひとつは反共主義という軛、もうひとつはベトナム戦争という概念(北ベトナムと南ベトナムの間の戦争)の不適切さであろう。たった2冊のベトナム戦争史を読んだに過ぎないわたしがそこから読み取ったのものは≪ベトナム戦争≫などというものはなかったのだ、事実は南ベトナム共和国の内戦であり、そもそも南ベトナム共和国という国家そのものの生成過程における動乱でしかなかったという事実だ。たまたま反体制派ゲリラが隣国(北ベトナム)に本拠地を構えていたと云っても差し支えのない状況であったにも関わらず、米国は北との戦争というイメージを勝手に作り上げ、その固着したイメージによって自らの政策・戦況の取り違え、読み違えを重ねたのだということ。自らが勝ってに作り上げた悪魔の幻影との闘いに過ぎず、その実、米国を蝕んだのは南ベトナム政府に巣食う内部の権力と金の亡者たちでしかなかったのだ。国民不在の政府。。。それはいま再び、アメリカがアフガニスタンで繰り返そうとしている愚行ではあるまいか。。。だが本書の中でそのような根底を覆すような視点はどこからも立ち顕われない。付録にある本書への米国内での論評の方がよほどおもしろいと云って置こう。

11/16 『レバノン侵略とイスラエル』(廃刊) 国際民衆法廷の記録 歴史 ★★★★

 本書は1983年に東京で14ヶ国32名の他、多数の証言者を招いて開催された≪国際民衆法廷≫の証言録である。≪国際民衆法廷≫はベトナム戦争時にラッセルの提唱によって発起された世界各国の民衆による国際問題の討議と社会へ向けての問題提起をその趣旨としている。したがって如何なる判決も実行力を持つものではないが、旧ユーゴや湾岸戦争など現在に至るまで人権問題に関わる数々の法廷を開催し続けているという。一部知識人だけの会合・論考発表に終わる学会シンポジウムとは異なり、実際にイスラエルのレバノン侵攻とシャディーラ難民キャンプの大虐殺発生当時、そこに居合わせた様々な国籍と立場を持つ民間人(医療ボランティア、フリージャーナリスト、弁護士などの人々、そしてユダヤ人自身)の生々しい告発証言が寄せられている。残念ながら法廷と呼ぶには被告側の出廷はなく(当然、召喚状ないしは招聘手続きはとっているのだろうが、如何せん実効力なく、相手側が応じる訳もない。)告発と証言内容の検証作業をするための質疑応答を行なうに留まらざるを得ないのだが。それにしても凄まじいばかりの虐殺と謀略の中から何度も浮かび上がってくるのは、イスラエルという人工国家を金と武力で支え続けるアメリカの姿であり、アメリカに対する告発の烈しさであろう。被害者であるパレスチナ人による告発ではなく、ヨーロッパ各国の人々がここでアメリカという国家の責任を繰り返し問うているのだ。ここで共有されている認識を世界はどこへやってしまったのか?そしてそれほどまでに忘れ去られ、無視され続けているパレスチナ人にとってこれまでに試されていないどんな手段が残されているというのだろうか。。。世界は痴呆症にでも罹ってしまったというのか。これは過去の事件などではない、今この瞬間にも蹂躙されてゆく私たちの世界なのだ。或いは「あなたたちの世界」だと云わせて欲しい。本書の試みを評価するのではなくここにと寄せられた毅然たる証言に架けて本書はすべての人々が銘記すべきことだと思われる。

11/13 『レバノン侵攻の長い夏』(廃刊) ハコボ・ティママン 歴史・思想 ★★

 まず著者の経歴をご紹介しよう。1923年ロシアにユダヤ人として生まれ、5歳で南米アルゼンチンへ移住、10歳で父を亡くし、以後ユダヤ人団体の庇護を受けて成長、ジャーナリストとなるが、独裁軍事政権への批判を強め投獄される。出獄後、イスラエルへ移住(80年頃)、82年のイスラエル軍によるレバノン侵攻と難民虐殺という事態に遭遇する。(息子も出兵)
 著者は確かにジャーナリストを職業とするが、これは戦場ルポルタージュではない。ユダヤの出自と同胞意識に支えられてきた著者が息子を戦地へ送り出した父親として、また市井のイスラエル国民として「歴史的被害者から加害者への道」を歩み始めた祖国に対する疑惑と、自身と国家のアイデンティティを問い掛けたものと云ってもいいだろう。と云ってイスラエル国民の弁明でもない。これは外国へ向けられたメッセージではない、むしろ同胞や子孫へ向けたメッセージといっていい。(在外ユダヤ人に向けてのメッセージでもあるが。)だが本書を読んで驚くべきことがいくつかある。まず第一にユダヤ人としての絆・同胞意識が育くまれてゆく過程。著者の父は移住したアルゼンチンでスペイン語を流暢に操ることもできず、ひとり貧窮を忍んでいたという。だが父の死後、アルゼンチンのユダヤ人団体が残された母子家庭に対する援助を与え、著者は父の生前より恵まれた生活基盤を与えられることになったという。年金、学費、共同旅行リクレーション等への参加を通じて、かの地で著者のユダヤ同胞意識は育まれ、ホロコーストの意識までも共有したという。第二に軍政批判を通じて道義心の高かい著者の筈であるが、殊イスラエルに関してはその同胞意識がなせる技か、レバノン侵攻までの4次に及ぶ中東戦争とその中でのさまざまな加虐行為そのものは正当化されて認識されているという点。著者を以ってしてもそれほどまでに同胞民族に対する批判精神は近視眼的帰属の中に埋もれるものなのか。そしてその意識が楽観主義的にその後のイスラエル国家国民の目覚めに寄せられている期待のうちに垣間見られる。だがイスラエルはいまだその征服支配を諦めてなどいない。興味深く、貴重な考察であるが結果としては一抹の空しさが漂うのも如何仕方ない。だがイスラエル国内においてこそイスラエル国民に対して本書は現在でも読まれ続けるべきものであろう。

11/11 『レバノン危機のモザイク国家』(廃刊) 荒田茂夫 歴史 ★★

 読み始めて気が付いたが、どれも≪レバノン内戦≫に関するものではない。これもレバノン内戦が分断という形で一応の停戦状態が確立された80年以降から、83年イスラエルの軍事侵攻を経てPLOがレバノンから国外退去処分となるまでの3年間を現地で過ごした朝日新聞記者の手になるルポルタージュである。前半にはレバノンの歴史が簡単にわかり易くまとめてあるが、簡単である分、当然のように複雑なレバノン社会とその歴史を十全に説明できてはいないのは仕方ない。比較的バランスの採れたルポだとは思うが、通常の発信記事以上のものが書けている訳でもない。ルポルタージュというものはどうしても「レバノンの物語」ではなく「荒田茂夫の物語」で終わってしまう。レバノンを知りたいのに、前半を過ぎればあとは動乱のレバノンを舞台にした荒田茂夫物語を読む羽目に陥るのだ。ルポを歴史的考察にするのか、告発の書とするのか、それともドキュメント・ドラマとするのか、またジャーナリスト諸氏にその認識が個々にどの程度まで備わっているのか。。。本書は決して悪書ではないが、入門書の域を出ない。内容的には82年9月のシャディーラ難民キャンプの虐殺がメインであろうが、その後2年の歳月を経て出版されたにも関わらずその後の調査が何ひとつなされていないのが他にも多々散見される。やはり次の現場、次の仕事に追われてゆくジャーナリストの限界を感じずにおれない。まとめればそこで終わる仕事として片付けられ、想い出とキャリアに化けてゆくのだとすれば如何にも虚しい。

11/9 『レバノンの歴史』(廃刊) P・K・ヒッティ 歴史 ★★

 1965年、いまだレバノンが国際貿易・金融・リゾート都市国家として栄華と安定を誇り、多民族・多宗教国家として類稀な平和をアピールしながら、多民族国家故のアイデンティティを構築せんとしていた時代にレバノン人によって描かれた「レバノン賛歌」といってもいい。だがその背後に見え隠れする背景は複雑極まりない。そこには単一民族ならぬが故に、レバノンという岐阜県ほどしかない小さな国家の地域史を、古代から現代へと続く歴史の中から拾い出し、統一国家国民としてのアイデンティティとナショナリズムを創りだろうという祈りが込められいるようだ。古代から綿々と続く侵入する者たちと、放逐される者たちの流れは近代に至って、流入する者と流出する者たちへと引き継がれてゆく。アラブ世界の中心に位置しながらもマロン派キリスト教徒を多数派とし、ドゥルーズ派やスンニー派、シーア派、そしてユダヤ教徒をも包含する多民族・多文化社会であり、フランス委任統治の歴史に多くを担ったその小さな国家は、イスラエルとシリアに挟まれ、中東随一の繁栄を誇っていた(当時)。だがその十数年後にはまさか今更、この経済的繁栄を捨ててまで歴史を遡るかのようなマグマの噴出にも似た内戦を招き入れ、この地をバルカン化させてしまうに至るとは・・・。しかしレバノン賛歌に込められた著者の祈りもむなしく、その幻影のような安定を覆す萌芽は、むしろ捜す必要もないくらいにそこかしこに散りばめられている。著者の「まえがき」と訳者の「あとがき」にある”民族融和の手本としてのレバノン”という言葉がその後の歴史を知る者には痛ましくてならない。この国は現在、一応内戦の終結をみたとは云え、いまだ傷跡も癒えぬまま暫定的な和平の試行錯誤の中に喘いでいる。それは八方塞の末に選択された止むに止まれぬ状態の中における停戦的終結でしかない。誰ひとりとして満足などしていないのだ。。。
 公認の公平な歴史教科書を作ろうとするかのような意図にも関わらず、途中さまざまな障害に出会うたびに論調さえ変わらざるを得ない複雑な民族事情を背景に持つこの本はそれに相応しく煩雑で理解しにくくもあり、歴史書としての評価は残念ながら★2つ程度にならざるを得ないが極めて貴重な本であることは間違いない。

11/6 『ベトナム戦争全史』 ガブリエル・コルコ 歴史 ★★

 1986年に米国で発表された本書はベトナム戦争の年代記ではなく、その構造分析を行い、再構築を試みることによってベトナム戦争の総括と既存の歴史的観念を解体することにある。したがってここではニクソン・ショックやウォーター・ゲート事件を取ってもある側面が語られるだけで、その全体像は詳述されない。そういう意味でも巻末にある年表を参照しながら読まれることをお薦めする。また前半の構造分析・再構築はなかなかのものと思われるが後半に至ってはやや冗長に過ぎ、繰り返しが多い上、やや結果論主義的な記述が目につく。ここは前半の分析を踏まえた上で後半は年代記的要素を加えてその結末へと導いてゆく定石に従うべきだったのではとも思われる。だがここで再構築された中から浮かび上がってくるものは現下のアフガニスタン問題と恐ろしいほどに類似している。人民の支持なくして―――大衆の望む政治なくして、闘争に勝利することなく、政権の安定を図る術はないということであり、当事者でないものが、駒のように一方の当事者を動かして行う戦争の理不尽さであろう。それが狂的犯罪者のテロに伴う米国一般市民の多数の犠牲によって触発されたものであるにせよ、アフガニスタン国民の理解と認知なくしては如何な勝利と安定も得られることはないであろう。大衆への軽視が齎らす警告と強者であり、より優位である者こそが本来学ぶべき「愚かな人類の歴史」はにも拘わらず止むことなく繰り返されるしかない。米軍は地上のどんな軍隊に対しても無敵の強さを誇るだろう、だが一般民衆を敵に廻したとき米軍にできることは災禍を振り撒くことでしかない。
 惜しむらくはやはり著者が米国人であり、西洋から見たアジア民族の民族的本質に疎く、それを論理的に分析を図ろうとするあまり当時の党指導陣(北ベトナム)に対し理想化し過ぎる面が見られるところだろう。アメリカの決定的敗北を招いた「ベトナム戦争ベトナム人民闘争の神話化」と表現してもいいかも知れない。例えば北ベトナムの当時の手詰まり感やアジア民族にまま見られることの多い忍従性や自己犠牲、等質性=団結性についても、沈着冷静さや崇高な理念を当て嵌めて神聖化し過ぎるなどの点が気にならない訳ではない。
 それにしてものちの国際民衆法廷に繋がるラッセル(バートランド・ラッセル)法廷において日本がタイ・フィリピン政府とともにアメリカの共犯として有罪判決を受けており、世界からそれだけの非難を浴びていたのだと知る人は今日、いったいどれだけいるのだろうか?
 
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 10月少し手軽な本をいくつか読んで勢いをつけようという戦略が当りました(爆)7冊を越えます。パチパチパチ。でその勢いを駆って大著『ベトナム戦争全史』(710頁、上下二段組)に突入。。。このあとは『マクナマラ回想録』も予定してます。『旧約聖書』シリーズはⅢ巻が今月中に出ると聞いていたのですがまだ。。。やっぱり順番に読まないとね。古書検索システムで10冊以上廃刊本見つけてしまった。。。どないしょ?アガンーーーーーーーーーッ!欲しいーーーーーーーっ!お金使い過ぎーーーーーっ!!取り敢えず、「レバノンもの」4冊注文。。。はぁ~。。。
 
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10/22 『概説メキシコ史』(廃刊) 国本伊代他 歴史 ★★

 おそらく薄っぺらい新書版を除いては現在入手可能なメキシコ史は一冊もない。これまででも唯一といってもいい本書さえ84年に出版され、89年の第3版を以って現在廃刊となっている。米国の既得権を要因とする投機に不向きな経済的状況と派手な時事問題のなさに加え、中途半端な日本との貿易規模などがそういう結果を産むのだろうか。三名の著者からなる本書は政治・経済・文化の各方面を捉え、それでも大変に判りやすい入門書となっているが、第三世界と呼ばれる国々の中でも19世紀に建国を果たしたメキシコは飛び抜けて長い国家史を持ち、数次に渡る動乱のメキシコ革命を経てきた独自の歴史と、つい先頃まで独占的に長期政権を担っていたPRIを中軸とする複雑な政治構造を持っており、この程度の紙枚数で語り尽くせるものではない。その後の経過をも踏まえたぜひ本格的なメキシコ史の研究・翻訳が待たれる。

10/19 『モロ事件 国家とテロ 』(廃刊) レオナルド・シャーシャ 文芸・思想 ★★

 本書は、1978年3月に「赤い旅団」によって誘拐され見殺しにされたキリスト教民主党の党首アルド・モロが、殺害されるまでの2ヶ月間に自制心を失わずに党幹部や知己の友人議員、家族らに宛てて書き送った手紙を読み解く作業を通じて、この事件の持つ意味と本質、そしてそこから結果として齎らされるものを考察した作品。従って事件の真相を解説してゆく類の本ではない。自らが築いてきた国家によって見捨てられ、自らがテロ不交渉を掲げる強き政府のスケープゴートにされてゆくのを自覚しながら、「赤い旅団」の監視・検閲の下で、辛抱強く冷静に書き綴った彼の書簡の行間(!)を読み解く作業でもある。本作は事件直後に出版されたものであり、その後この事件を決定的な最終章としてイタリアの「赤い旅団」、ドイツの「バーダー=マインホフ」らが革命家(ゲリラ)から犯罪者(テロリスト)へと転落し、もはや協調者を見出すことなく、勢いを取り戻すことが出来なかったのは象徴的ですらある。この後イタリア政府はアントニオ・ネグリら大学関係者ら共産主義的思想者・知識人への弾圧を加え、その犠牲の下に政権の強化・安定を図ることになる。

10/16 『収奪された大地』 エドゥアルド・ガレアーノ 思想 ★★★★

 1971年に発表され、1991年に翻訳出版された本書にいままで手をつけなかった理由は私が「ジャーナリストの書いた歴史(科学)ものを評価しない」からでもあった。だがこれは歴史書ではなかった。これはエメ・セゼールの『植民地主義論/帰郷ノート』と並ぶラテン・アメリカからの告発の書であり、思想と文芸の中間に位置する本である。それは著者自らが序文で「本書は元来、人々の話し合いのために書かれた。専門家でない著者が、官製の歴史、勝利者によって語られる歴史が隠蔽したり偽造したりしているある種の事実を広く知らせるという意図のもとに、専門家でない大衆向けに書いたものだった」、「略奪の歴史を提供するとともに、現在の略奪のメカニズムがどのように機能しているかを明らかにすることを目的とした本書・・・」と述べている。新大陸発見の契機ともなった金銀採取、砂糖きびとゴム、バナナ、コーヒーなどのプランテーション、石油・鉱物資源、そして労働力という搾取、自由主義と保護貿易の罠、IMFや金融資本、コングロマリット企業・・・延々と続いてゆくのは、搾取の多様な形態の暴露。「キャラメルを輸入するために砂糖を輸出している」「カカオを生産しながらもチョコレートを口にしたことのない人々」すべてはそこへと集約されてゆく。本HPの『反骨の扉』で時折、私が示唆しようとしながらも素人であり過ぎるが故に、明白さを欠く抑圧と搾取の形態がここで詳細に信用に足る論拠を基に述べられている。今日の南北問題やアラブ・アフリカ問題を理解するためにも十分に役立つものとしてお奨めしたい。

10/10 『変身 ほか』  カフカ小説全集④ フランツ・カフカ 文芸 ★★★★

 カフカの『変身』といえばまさに高校1年生の春に受験勉強から解放されてあらたな宿題地獄で自らも閉塞感に押し潰されそうになっていた時期だったに違いない。だがなんという強烈さでいまだに読む者に迫ってくることか。この巻には生前カフカが発表したすべての作品である短篇と小品が収められている。カフカといえば『審判』こそ最高傑作だと長年思ってきたが、なる程完成度(厳密には未完作であるが・・・)においては『審判』に部があるだろう。だがそれもこれもやはり『変身』やこういった短篇などがあっての延長線上であるようだ。グロテスクで残虐で、ときに滑稽でもあるこれらの作品の集大成が『審判』であるとすれば原石としての秘められた輝きはまさしくこれらの中にこそある。↓で『城』と『審判』の相似性について少し触れたが、カフカは違ったアプローチを示す2人の主人公をモデルにしてひとつのテーマの完成を夢見たのだろうか。だからこそ彼にとって両作品とも未完で放棄することとなったのも、彼にとってはそのどちらか一方だけでよかったからなのに違いあるまいという思いが擡げてくる。両作品が一応の完成を見たとき彼はそのどちらかを永遠に火にくべてしまおうとしたのではないだろうか。
 それはともかくこの巻に収められている『観察』や『田舎医者』『判決』『流刑地にて』『断食芸人』はどれもが一読の価値ある作品群であるのは確かであろう。だが勿論、文学は所詮、個人の趣味の問題でしかない。。。

10/5 『リラダン=マラルメ往復書簡集』(廃刊) リラダン=マラルメ 書簡

 マニアのわたしですら聞いたこともない森開社という出版社が限定900部で75年に出版したのが本書。『アクセル』で知られる耽美派作家ヴェリエ・ド・リラダンと『半獣神の午後』の詩人ステファヌ・マラルメの往復書簡およそ50通余りが収められているがさほど長文に渡るやりとりはなく、よほどのマニア・研究家にしか向くまい。前半は敬愛に充ちた詩論に関する高尚とも言えるもの、リラダンの死に至るまでの後半は友愛に満ちたもの。彼らの僅かなながらの相互の浮き沈みと共に、その変遷を辿れるが故にこそ貴重なドキュメントであるのは確か。実際にはもっと多量の書簡が交換された筈だと思われるが、それらが現存しないのだとすれば残念でもある。

10/4 『城』  カフカ小説全集③ フランツ・カフカ 文芸 ★★

 なんども云うようだが、23年振りのカフカ再読である。今回はカフカの手稿をそのまま補正せず、順序を入れ替えたりせずに翻訳したもの。改めて『城』を読んでみて「えっ、こんな話だっけ?」と思わずにいなかった。かつて夢中になったカフカを再読しつつ、この23年の間に感受性を変化させ、さまざまな知識(それが余計なものであるのも事実だろう)を詰め込み、自分以外の他人というものを想定し、操作を謀る術をも身に付けた。それがどういうことなのか、本書を読み返しながら朧気にではあるが、少し垣間見えたかのような気がした。それはともかく、『城』は『審判』というまったく瓜二つといっていいこの2作品は、けれどもその実、対称的な物語の様相を示しもする。『審判』で主人公ヨーゼフ・Kは謂れもない告訴を受けて、彼を寄せ付けないその裁判所という機構を求めて奔走する。だが『城』の主人公Kは自ら仕事の依頼に応じて、とある村を訪れたというのに暗示と憶測の罠に陥り、細事にばかり足をとられて、一見奔走しているように見せかけながらも決して城の門を直接叩こうとはしない。この作品は完全に中断されてしまっているので結論は無論闇の中と云わざるを得ないが、同じカフカの『掟の問題』に終着するものだと思って間違いなさそうだ。それにしてもかつての編者ブロートはこの中断された小説を恰もほぼ(!)完結したもの(ヨーロッパ映画によくある結末寸前をエンディングとするかのように)であるかのように見せつけることに掛けては天才的なマジックを弄したものだと思わずにいない。本作も未完の度合いが高すぎて正当な評価には至らない。

10/2 『オーストリア 〈統合その夢と現実〉』 東海大学平和戦略国際研究所編 歴史

 2000年から2001年初頭に掛けてEU諸国を紛糾させたハイダー連立政権問題を取り上げた時事問題。元来のシンポジウムは〈EU統合とオーストリア〉を想定していたようだが、時の話題を独占したハイダー現象に集中してしまった感さえある。その所為か、さまざまな分野からの参加者(12名)によって元来多角的に捉えるべきシンポジウムであるにもかかわらず、ハイダー現象に留まるジャーナリスティックな一面的考察に終始している。残念ながらニュースの表面をなぞるだけの深みを欠く結果と言えよう。
 『冷戦下・ソ連の対中東戦略』と『フロイト フリースへの手紙』が退屈だった所為もあるのだろうが、予想通り読書ペースが落ちてきた。大体、〈読書の秋〉というよりは体調不良の秋であったり、睡眠の秋であったりする。食欲の秋という線が一番か?新刊も以外に貧弱なシーズンであったりする。わたしのような活字中毒派ですらそうなのだから、普段から本に縁遠いひとがたまに「読書の秋」なんぞの言葉につられて本を手にしても最後まで到達せず、「やっぱり読書は向いてないわ。」などと考えるのも無理はないかも。「読書の秋」。。。なんとも余計な言葉である。
 
9/29 『旧約聖書 Ⅱ 〈出エジプト記・レビ記〉』 旧約聖書翻訳委員会 聖書 評価対称外
 
 大抵の方が聖書を読破しようと試みても一巻本ならこの〈出エジプト記〉くらいで挫折することになる。モーセの十戒に続く、契約の書辺りから先は禁忌、聖所の造り方、などがこと細かに延々と、しかも神からモーセへ、モーセから民へ、民の執り行いの描写として、ほぼ同じ文言が3度も4度も繰り返される。〈レビ記〉に至ってもことは同様であり、儀式、法、禁忌が延々と続いてゆく。ここでの再発見は〈レビ記〉終盤に至ってヤハウェ(神)が述べる禍の言葉(神の命に背くならば・・・)を読みつつ、アウシュヴィッツにあったユダヤ人たちの頭の中にあったのはこの章句であったのでは。。。という一考の手掛かりであろうか。

9/25 『フロイト フリースへの手紙』 ジークムント・フロイト 書簡

 本邦初訳になる本書はフロイトが鼻腔専門医であるヴィルヘルム・フリースに宛てて1887-1904年までの17年間に287通にも及ぶ膨大な量の書簡を収めたものである。ドイツでは1950年に『精神分析の起源』としてタイトル通りのドキュメントに相応しく(?)編纂されて出版されていたようだ。今回はその全書簡を網羅している。だが正直に言ってまったくおもしろくはなかった。自他と共に認めるフロイト・マニアであるがここ10年間我が家の本棚に眠っている『フロイト=ユング往復書簡(上・下)』も同様であろうか。同書は以前何度か読もうと試みたのだが、頓挫してしまった珍しい本である。世間からだけでなく神経医ブロイアーからも不理解と拒絶を味わされたフロイトが少し畑の異なる年下のフリースにその精神的理解者を求めながら、精神分析の基礎に目覚めてゆく過程のドキュメントではあるのだが・・・。ほぼ一ヶ月掛かって読破したものの特に感銘を受けることはなかった。フロイトの凄まじいばかりのエネルギーには頭が下がりはするが。

8/31 『旧約聖書 Ⅰ 〈創世記〉』 旧約聖書翻訳委員会 聖書 評価対称外

 いったいどこから誤謬が紛れ込んでいたのだろう。25年くらい前に一度は読んだ筈の聖書だが、改めて読み直してみるとあちこちに記憶違いが散見される。まず〈生命の樹〉と〈知恵の樹〉が別のものであるとは思っていなかったこと。二つ目はバベルの塔が雷により打ち崩されたのではなく、ただ単に言語をバラバラにされた為に未完成に終わってしまったのだということ。またヨセフが大天使ミカエルと一騎打ちを行ったという記憶も、どこにもミカエルの名など見当たらない点などが挙げられる。いろんな絵画や映画、本などで我々の記憶は塗り替えられ、或いは先入観が訂正を受け付けないのだろうか。
 さて、今更ながらに『聖書』の再読を試みようと思う。中学時代に家に転がっていた(クリスチャンなんぞではありません。)聖書を1年がかりでチマチマ読んだ読んだ記憶があるが、中身となると読む前と同じくらいしか残ってはいない。一方、『コーラン』を読んだのは4~5年前であり、そこそこ明確に消化できているつもりではある。西欧・中東史に若干なりとも造詣を深めた今、改めて記憶を整理しながら読んでゆきたい。丁度、数年前から『新・旧約聖書』を20冊に分冊して発行する試みが岩波書店で行われており近日完結予定となった。敢えて高価なものにはつくが、章毎に記憶を整理し、嫌気が差さずに読み進める為にはむしろ都合がよいのではと考えている。キリスト教会発行ではないので教条主義的ではない、詳細な学術的注釈も下覧に附されており、一層の理解に役立つと思われる。それでも全巻読み終えるのは来年の春以降になるのではないか。

8/28 『現代アフリカの民族関係』 和田正平編著 歴史・人類学 ★★★★

 本書は1994.4から1998.3まで国立民族学博物館の共同研究として発表されたものの成果の中から20名の各研究者たちの論が選ばれている。主にサハラ以南の黒アフリカを題材に、各論毎にひとつの具体的テーマを取り上げて編纂された本書の価値は高い。特に第一部「紛争と多様化する民族間関係」は各地で複合的でさまざまな理由から起こる紛争をそれぞれ一因ずつを取り上げて分析するもので、民族と紛争の構造的理解を深めてゆくのに役立とう。したがって時事問題として一国を論じるのではなく、各地・各民族紛争の中で際立って主因とされる事情を積み上げてゆくことによって個別ではない普遍的なアフリカにおける紛争の遠因と構造を説明しようとしている。第二部「共存と伝統を超えた民族関係」・第三部「儀礼と越境する民族関係」は人類学・文化論の側面からそれらを考察しようとしたもので、中には2~3、学生の夏季レポートかと疑わせるような稚拙で不適切な論考(こんな連中が大学教授、助教授だというのが嘆かわしい。。。)もあるが、大半は民族意識の生成と民族文化・民族史の生成過程を踏まえて第一部を下支えしている。従って順序としては寧ろ、第一部を最後にもってくるべきではなかったかとさえ思えてくる。これらはアフリカ特有の問題ではない。我々がとっくに過去の遺産として不問に附してしまっている民族であるとか、国家であるとか、土地の所有や権力の生成、宗教が齎らすものから始まり、民主主義や政治権力の前提について。。。原始の社会と権力の生成、ナショナリズムの幻影について・・・現在、アフリカの抱えている問題を当たり前のように高所から見下した近代主義の立場からではなく、我々自身の、歴史の幼年期の生成の過程として見直さねばならない。自分たち西欧社会が2000年も戦争を繰り返した挙句、学び取った(つもりでいる)モラルを既成のものとして彼らに押し付け、彼ら自身の実験を(喩えそれが不幸な結果しか招かないとしても)抑えつけても彼らもそこから何も学ぶまいし、我々自身もそこから何ひとつ導くことは出来ないだろう。下の『冷戦下・ソ連・・・』と同じくらいの大分の書物であるが、読書日数を見れば如何に本書が総じておもしろいかがお判り頂けるだろう。

8/25 『冷戦下・ソ連の対中東戦略』 ガリア・ゴラン 歴史

 いやぁ、実に梃子摺ってしまった。。。なにしろ文章が読みにくい。前半を担当する翻訳者の責任も大きいが、原著者の表現も相当に微妙なものであるのだろう。ヘブライ大学のソ連外交政策研究の権威とされる著者らしいが、文章力に問題なしとは云えない。おまけに「-らしい」「-だと思われる」「-かも知れない」などの表現に終始する為、たとえそれが適切な表現であるにせよ、読み進める上では大変しんどい。。。というのが正直な感想だ。また著者はソ連研究家でありながらも反ソ色濃く、一方でアメリカの外交政策にはまったく触れないなど論点にかなりの偏りが見られる。1990年ソ連崩壊前の出版でもあり、訳者補遺や訳者あとがきが比較的きちんとまとまっているだけに残念でもある。それはともかくここで浮かび上がってくるのは冷戦の危機を演出したのがソ連ではなく、一方的なアメリカ側の煽りであり、圧力によるものでしかなかったという事実だ。なにかにつけて核戦争の危機を声高に叫び自由世界の防衛を口にしていたアメリカが先陣を切って演出を続けていたことがはっきりと印象づけられる。そして中東で特に顕著となるソビエト・ジレンマ。反米としての同盟や結束を固めようとしても、無神論としての共産主義がイスラームの共感を得ることが不可能である点、反イスラエル=反米闘争の為にアラブ諸国を支援しようとするが、米ソを両天秤に掛けられてしまう始末。よしんば政府と同盟を結託しようともソ連の主導する共産党が野党であるどころか、大半の国々では非合法でしかなく、国家を支援することでイデオロギーに反する役割を担わざるを得ない。また非合法活動とされた共産主義ゲリラや少数民族闘争(クルド人等)を支援しようとも政権が不安定でいつ転覆するか予断を赦さない点。また喩えクーデターにより政権を担当しようとも、イスラームの教義上民衆の支持を得ることが不可能であるのは確実でしかないこと。文章はイライラさせられるが、貴重な論点であるのは確か。

8/1 『自らに手をくだし 自死について』(廃刊) ジャン・アメリー 思想 ★★

 アウシュヴィッツの”生き残り”である思想家アメリーが自殺未遂(失敗からの生還)を経てこの著書を出版したのが1976年、そして78年10月彼は『自らに手をくだし』た。アウシュヴィッツの”生き残り組み”が自殺をするのは何も珍しいことではない。レーヴィ然り、ツェラン然り。だが自殺について書き残した者はいない。だからアメリーも、もし未遂がなければ何も書き残さなかったかも知れない。だからと言ってこれは想像されるようなアメリーの遺言書ではない。ここで彼は社会学や生態学としての自殺学を拒否し、心理学からも距離を取って、さらに通常の哲学的思索をも撥ねつけ、体現としての自死する者とせざる者の境界に踏み入ろうと試みている。それは自死=自由な死としての自殺観の提起であり、社会的敗北感や精神疾患ノイローゼの結果として扱われ、忌避されることに対する彼の抗弁でもあり、自殺者に対する哀れみや蔑みを拒否する態度の表明でもある。だが自らのレトリックにこだわるあまりすべての議論は死の一点で消失せざるを得ない。自死の淵で生者の論理では死者の論理は語れないのだと語りつつ、死者の論理が”無”でしかないが故に、自死を基底することの不可能に直面さざるを得ないのだろう。社会と人々に対して何ものをも求めるものではないのだという姿勢を維持しつつ、自死の論理を突き詰めることで彼はアポリアと向き合い苦渋するしかなく・・・。

7/27 『アインシュタイン、神を語る』 ウィリアム・ヘルマンス 思想 ★★

 ドイツ生まれの亡命ユダヤ人の詩人である著者が、ナチス政権下の1930年から戦後の1954年までの24年間、計4回に渡って行ったアインシュタインとのインタビュー記録である。だが面妖なことに(!)なんと著者はクリスチャン・サイエンスに属する神秘主義者であり、神と奇跡を信じる詩人であることが明らかになる。しかもアインシュタインを改宗させんばかりの情熱の持ち主であり、その詩といっても大時代掛かった凡庸なものでしかない。だがさすがは神秘主義者!我々ならアインシュタインを相手に畏れ多いと引き下がってしまうところを執拗にそして情熱を持って自論を展開してみせる。ちくはぐなインタビューだ。だが狂信の徒は不理解の故に(自らの思い込みの故に)アインシュタインの言葉をおそらくは寧ろ正確に綴っているのではないかと思わせる節すらある。(だが彼の頭の中では違うように響いているのだ。)それでもユダヤ人としての友愛と礼儀を失することのないアインシュタインは哀れみをもって、押し掛けインタビューを繰り返す著者と対話を続けている。相対性理論などモチロン到底わたしにも理解の外にあるがここでの会話は明確なものだ。繰り広げられるのは4幕もののコメディ。しかも主人公(著者)がアインシュタインの名声を利用して自身の詩と自身の福音を広めようとしている茶番だ。お笑いだ。だがこんな著者でなければアインシュタイン相手にここまで執拗に『彼の世界観(宇宙観)』について語らせることは出来なかったのではないだろうか。貴重な可笑しなドキュメントである。

7/23 『エルネスト・チェ・ゲバラ伝(下)』 パコ・イグナシオ・タイボⅡ 歴史・伝記 ★★

 結論から言えば脱神話化には依然成功しているとは思えない。というよりいつ如何なるときも(死の当日以外)ペンとノートを手放さなかったゲバラ自身の執拗な分析と自己批判の記録をなぞることしか出来ないでいる。脱神話化のポイントはチェのオンナ癖、キューバ革命参加時点での曖昧さ、社会主義理論の未熟さ、完璧主義と自己他者を問わぬ批判精神、キューバ革命勝利後の政治手腕の稚拙さ、コンゴ、ボリビア選択の当否・・・そして彼の見果てぬ夢が秘めたもの・・・だが、著者は入手可能な限りの資料を集めてその軌跡をなぞることしか出来ていない。入門篇としては適書ではあるが・・・。下巻では米帝国主義勢力の強大さを前に自らの政治手腕に対する限界と、党・セクト・権力に彩られざるを得ない政治に対する幻滅、自らを律することへの執拗なまでの欲求によってキューバを離れ、遠くコンゴのジャングルへ・・・アフリカ反政府勢力の政治的権力闘争に過ぎない抵抗運動に裏切られ、迷信の深さと部族対立の持つ溝、指導力を奪われた状態での無力感・・・そして強制された撤退。ボリビアではゼロから己れで始めることへの拘りと用意せざる者への過酷なまでの性急さがすべてを終結点へと導いたのではないだろうか?だが、ゲバラ自身の潔白さと平等主義、理想とモラルの実行主義については病的であるという以外は批判・否定のしようがないことを確認させてくれる。39才で早逝したゲバラはやはり神話なのだ。カストロが結局のところ死後も神話にはなり得ないのとは好対照である。長らく絶版となっている『ゲバラ選集』の復刊が望まれる。

7/18 『エルネスト・チェ・ゲバラ伝(上)』 パコ・イグナシオ・タイボⅡ 歴史・伝記 ★★

 1996年、相次いで出版されたゲバラ評伝のうちの一冊だ。著者は前書きに寄せて『神話を打ち砕いたが、無意識のうちにまた神話化してしまった。』と述べている。伝記には大きく分けて2種類のものが存在する。ひとつは神話化を図るもの、もうひとつは脱神話を目指すもの。歴史上の人物の評価はそれが書かれた時代によって大きく変動する。そして歴史的な重要さと個人としての人格・品性とは無関係ですらあり得る。上巻ではアルゼンチンでの幼少期から彼がキューバ革命に参加し、革命に勝利してゆく過程が語られる。まさしく神話の中の神話である。そしてバチスタ政権打倒後の分裂と混乱、実験と失策の過程が綴られる。ゲバラは農民に対するシンパシーとヒューマニズムから革命に参加する。そしてその過程で彼は社会主義に希望を寄せ、だが現実には幻滅しつつ、答えの見出せないまま失策に終わる実験を続けてゆく。理想主義者であり、且つ実行主義(行動の人)であるが故に政治家足り得ないゲバラ。総評は下巻を待つとして、だがこれまでのところでは脱神話化とは言えない。

7/7 中学社会〈歴史的分野〉 大阪書籍 歴史 評価せず

 ようやく現行の中学歴史教科書を読み終えた。詳細についてはまた別稿で述べたい(ここをクリック)が、大雑把に言えばどちらの教科書も記述内容については簡略化の中で誤りや錯誤を誘発するものに満ちている。所詮、ページ数に制限のある教科書の中に歴史的な真実など求めようがないのだということを新たに発見した気持だ。以下、『作る会』と『現行』と略記する。大きな違いは四つ、一、西洋史・西洋文化に対する記述が『作る会』には完全に欠落している。二、『現行』は同じ制限枚数の中に西洋史を入れる(量的には僅かだが)為に、記述が羅列的であり、2行40字の中に学習すべき単語(歴史用語)が4~5つも出てくるという仕上がりであり、副読本なしでは意味をなさない。三、『作る会』は日本史上の出来事・人物をヒーロー物語のように(歴史絵巻)展開しているに過ぎない。四、『作る会』は共産主義・社会主義思想を過去の誤った遺物として唾棄しており、思想としての価値を認めていない上、その論拠はソ連の崩壊一言によって実証されたとしている。
 『作る会』側は『現行』を屈辱的だというが、取り立ててどこにもそんな表現は見当たらない。寧ろ『作る会』では「日本は・・・を中国から学びましたが、そのまま受け入れたのではなく、独自の視点から日本固有の文化を築きました。」「日本に・・・が西洋から齎されましたが、日本でも独自の立派な研究がなされました。」と記述しただけで、彼らの主張する〈日本人と日本文化に対する誇り〉が養われるとは思えない。さらに屈辱的と彼らが評する日本の戦争犯罪については「日本は南京で多数の市民を巻き込んで被害を与えました(その数8万人)が、ナチス・ドイツは100万人のユダヤ人を虐殺し、スターリンのソ連は国内で数百万人規模の粛清・死刑を行いました。そして日本は世界で唯一アメリカによって原爆を投下され、百万人にも上る人々が、未だにその深刻な被害の下で生きることを余儀なくされています。(正確な引用ではないが。)」式で日本の罪を薄めて認識させようとしている。そして戦争は軍部に支配された時の政府が起こしたもので、天皇に責任はないのだ・・・と。
 読み物としてはどちらも最低のレベルであり、退屈で害悪しか齎さないなんの啓発もない両教科書はともにその在り方を根本から変えなければならない。どちらにせよ、こんな教科書で学習を強要される子供たちに同情を禁じ得ない。

7/1 『南アジア現代史 Ⅱ ~パキスタン・バングラディッシュ~』 加賀谷寛・浜口恒夫 歴史 ★★★

 前回のインドに比べて遥かに理解し易いのは何故なのか?モチロン、インド地域として古代からの連綿と続く歴史の深さは近代国家としてのパキスタン、バングラディッシュには求めようがないのは事実であるが、それだけではない。わたしのイスラームに関する一応の予備知識の所為か?それともやはりわたしのアジア嫌いの興味度に勝るからなのか?ここにも分裂の分断の歴史が刻まれている。これほどまでにパキスタンとバングラディッシュの国家体制に差があったとは知らなかった。だが本書は24年前の刊行なので、その後の政変については語られてはいない。改めてアジア地域に関する無知と感心の低さを痛感させられる。今後の課題となろう。

6/19 『南アジア現代史 Ⅰ ~インド~』 中村平治 歴史 ★★

 ずっと、ずぅ~っと40年間避けつづけてきたアジア。山川出版社「世界現代史」シリーズはとてもお気に入りなので取り敢えずこれだけは・・・と思って、いよいよインド現代史を読みました。甘かった!さすがインド史は深い、とてつもなく深い・・・これ一冊では足りません。植民以降のインド史だけでは残念ながらおいそれと理解出来る国ではないようです。この後『Ⅱ ~パキスタン・バングラディッシュ~』を読む予定ですが、いずれヴェーダやバラモンを含む古代からの通史としてインドを読まねばなるまい。ただガンジーはやはり神話でしかないという確信に似たものを感じとったのだが。多民族・多宗教言語国家であり、植民地最先進国として独立を果たしたインド、さらに払拭されざるカースト制度によって更に縦の分断構造を持つ国。IT革命の最先端をゆきながら未だ識字率の低迷すら克服せざる国。ヒンドゥーを否定した仏教によって立ちながら、尚且つ仏教を捨ててヒンドゥーを掲げた国と人々。大衆の顔が見えそうで見えない国。この国はこれまで学んだどこ国ともまた違う顔を持っているようだ。
6/17 市販本『新しい歴史教科書』 〈教科書を作る会〉 歴史 評価せず

 話題の中学教科書が市販された。いまさらわたしなんぞが指摘するまでもなく、批判はあちこちで列挙されている。さらに27年前自分が中学でどう歴史を学んだかを思い出せないでいる。学校関係の知り合いに頼んで現行の教科書を分けて頂ける予定なので、それからわたしなりの見解を述べてみたい。だが記憶にある限りでは我々の世代は世界史と日本史を一緒に学んだ筈だが、ここにはほとんど世界は登場しない。日本史の教科書といっていい。無論、日本礼賛であり、歴史上の人物はどれもこれもヒーローとして描かれている。そして洋の東西を問わず、歴史に一般市民が登場するのは近代以降なのだが、ここでは常に古代から『満足していました。』式に付記され、為政者を支持していた姿として配されている。
だが中身とは裏腹に彼らの主張そのものには一理も二理もある。教科書は8種類の中から選ばれるようなものではなく、数十種の候補があっていい。歴史から政治をろ過して無味乾燥なものを学ばせてはいけない。歴史教育は議論の場であるべきだ。だが彼らの作り上げたものは結局なんの関係もないものだ。子供をバカにしたような歴史ヒーロー物語だ。しかも1000ページの大著であろうとスラスラと読むわたしをしても眠くてページが進まないような仕上がりである。なぜ教科書はこんなにもオモシロクないのだろう。この続きはまた現行の教科書を読んだ後にしよう・・・。第一次大戦以降の記述はそれにしても・・・神経を疑う・・・。
  To be continued

6/10 『新しい世界史 ~世界で子供たちに歴史はどう語られているか~』 マルク・フェロー 歴史・教育 ★★

 この本が初版された1981年といえば未だ世界は冷戦構造の最中にあり、南アフリカではアパルトヘイトが実施されており、EUの統合など夢幻でしかなかった。だがあとがき程度の付記のみで新版とされた本書の中身は、その後の歴史の急展開を受けて新たな視点のもとでその意義をまた別の形で顕わにすることとなった。本書は副題が示す内容との間に多少のズレがある。それはこの本が「各国の現代教科書にみる歴史像」を扱ったものではなく、むしろ「筆者の同時代人は子供の頃どのように各国で歴史を学んだか」という戦前・戦後の教科書変遷を辿りながら、各国の歴史教科書が政治とどう関わってきたか、隣国との争点がどのように教育されてきたかを問うものとなっている。従って、日本の教科書についても戦前のものを取り上げた上で、戦後の急旋回(家永教書)については簡単に触れるだけに留まっている。南アフリカから中米、インド、ソ連、ポーランド、中国からアメリカ、オセアニアに至る16ヶ国以上について述べられているが白眉はなんといっても〈アルメニア史〉であろう。各国史では語られることのないアルメニア史がここにある。現在、ヨーロッパではEU統合にあわせて、隣国との争点を踏まえて各国のコンセンサスのもとに共通した歴史教科書の作成が希求されつつある。そんな中時代に逆行するかのような現下の国内を騒がせている日本の歴史修正主義についても考えさせずにはいない。歴史教育とは如何にあるべきか、単に無味乾燥な事実だけを列挙し学習させるのか、各国のナショナル・アイデンティティと誇りをもたせる為に自国史を学ばせるのか、体制による歴史教育の政治的利用は避けられないのか、また現在を理解する為に過去の歴史を学ぶのか、過去を理解する為に過去の歴史と文化・価値観を学ぶのか?洋の東西を問わず、侵略国と植民地に間に橋渡しを可能とする歴史教育の可能性は?教科書以上に影響を及ぼすに至った映画産業の功罪は・・・。しかしながら残念なのは教書について拠典の明示がないこと、そして歴史の全体的な流れではなく、スポット単位での記述を取り上げてそれを論評してゆく為に、注意深く読解しなければ読者を混乱させてしまうような記述が散見されることだろう。本書を踏まえた上で今日、また新たな著作が著わされるべきだろう。

6/3 『うつ病治療の最前線』 こころの科学別冊・宮岡等編 精神病理学 ★★

 最近、わたしの周りでも〈うつ症〉の人が異常に目立つ。モチロン、性格障害である=うつ状態と精神疾患である=うつ病を混同することは出来ない。だが、素人診断で言えば一人は即刻通院治療要、ふたりはカウンセリング要、一人は様子見、もうひとりは多分に一過性のものと思われるのだが。だが本書でも触れらている通り、日本のうつ病治療は8割方以上が薬物療法である。しかも我が国は薬物に対しての取り組みが大幅に遅くれており、それが導入にも忌避にも双方向に現れる。新薬導入には異常に慎重であるのに、その後の対応はエイズでも、脳硬膜でも不幸な形で例証された通りである。実情はただの保守主義でしかない。ここでは薬物以外の様々な治療も紹介されるが、そういった療法はむしろ治療者を捜し出すことにさえ困難がある。そしてここでも、フロイトの齎したものは片隅に追いやられてゆく。それは精神病者を知的に劣等者だと思い込む偏見が治療者の側に根深いのではないかという疑念にさえ繋がる。一方で昨今の〈うつ症状〉を見るにつけ思うことは、性を除く思春期的思索=ライフ・アイデンティティを大人になるまで先送りにしてきたツケが多くの現代社会人の中に〈うつ〉を蔓延させているのではないかという想いでもある。

5/30 『私の戦争日記』 カタリーナ・ブガルスキー インターネット日記 ★★★

 昨年8月にNHKドキュメンタリーで紹介され、当HPでも話題に取り上げたことのあるセルビア人大学生がインターネットを通してNATO空爆下で書き綴ったWAR.DAIRYが翻訳出版された。ここでの少女(21才)の声に素直に耳を傾けるのもいいし、彼女の見解を拒否し、セルビア人=悪側の一般生活風景として読もうと自由だ。だが、わたしが彼女の行為に惹かれたのは、これがインターネットというものの本来のあり方を示していると思うからだ。インターネットとは情報誌や百科事典でもないし、出会い系お見合いサイトでもない。世界を繋ぐものであり、それはインターネット言語である英語を通じてなされるのだということ。わたしのこんなHPなど児戯でしかない。非力で独りよがりな自分と対面させられる。本としては彼女がそれこそ世界中から受け取ったメールによる反響(反論)などが網羅出来ていないのが残念でならない。無論、著作権の問題でひとりひとりと連絡を取ってゆくのは困難なことだろう、だが是非この本の出版(現時点では日本のみ)がきっかけとなっていつの日か〈完全版〉が出ることを気長に待ちたい。それともうひとつ残念なのは文中の用語に対する脚注があまりにも簡略過ぎて、バカにしてるとしか思えないことだ。小学生向きのつもりなのだろうか?数時間で読み終えることの出来る本です。ぜひご一読を。

5/29 『神なきユダヤ人』 ピーター・ゲイ 思想

 本書はフロイトの伝記でも有名な自身ユダヤ人でもあるP・ゲイが、精神分析学を如何なる信仰心とも敵対関係に置き、終生無神論を貫ぬいたユダヤ人、フロイトの目指した科学とその闘いを時代背景やダーウィニズムとも比較しながら分析したものであるが、残念ながらフロイト自身によるよりも深く踏み入ったとは思えない。入り口を開示し、そしてそこに止まった感さえある。寧ろここで垣間見せられるのは、フロイトを理解することの困難さであり、人が如何に理解するという行為に置いても、都合よく捻じ曲げ、或いはレディメイドするしかないという〈理解の不可能性〉だといっていい。フロイトの闘いはいまだに終わってはいない。勿論、それは無神論との闘いなどではなく、社会的現実との闘いである。〈医師でない分析家=レイ・アナリスト〉〈色盲としての科学〉〈モラルなき論理=科学〉等など、理解されざる、実践されざる、或いは誤解に蝕まれ過ぎた多くの課題を我々は引き継ぐことさえ出来てはいない。フロイトの論理や方法論を古いとか、修正・改良するとか云う以前にその真髄となる精神を理解することこそが現存する最大の課題ではないだろうか。蛇足だが、同じ著者による前掲の『フロイト(伝)1』は下巻を残したまま早や5年近く翻訳出版が滞ったままだ。そちらの方がすこぶるおもしろい。上下巻が出揃えばぜひお読み頂きたい。

5/28 『木造船』(廃刊) ハンス・ヘニー・ヤーン 文芸 ★★

 未完の長編三部作、『岸辺なき流れ』の第一作として1938年頃に執筆されたと思われるこの作品は、日本では1969年に本作によって初めて紹介されて以降、絶版となり今日までその全貌は未紹介となっている。ここでもヤーンは自らに囚われつつ、抗うことの出来ない流れに押し出されてゆく青年を主人公に不条理な世界を不条理ならざるものとして描いてゆく。だが、ここでは前出の2作品に比べて冷徹な視線はやや翳を薄め、むしろ幻惑的な視点を交えながら物語を展開してゆく。こちらの方がが原点だったのか?出航に始まり、沈没に終わるとは云え、やはりカフカの『城』や『アメリカ』を思わせる展開といっていい。残り2部と合わせてぜひとも紹介さるべき作家であることを改めて提議したい。

5/25 『思考の腐食について』(廃刊) アントナン・アルトー 文芸 ★★★★

 26年前に出版され、そのまま廃刊となっていた本書をようやくインターネットで手に入れることが出来た。だが実際にはすでに別タイトルで出版されたものと同一内容であり、20年も前に既読済みのものだった。とは云え20年も前である。せっかくだから再読を試みた。本書の副題は「アルトー=リヴィエール往復書簡 附アルトー詩集」。若干27才詩人を目指すアルトーが37才の『NRF』誌・編集長リヴィエールに宛てて詩を同封して自らを売り込んだことから始まる往復書簡の記録である。ともに明晰な精神と混沌としたカオスを併せ持つふたりは初めての書簡から惹きつけ合う。だが、リヴィエールはアルトーの詩そのものには当初興味を示さず、むしろアルトーの精神に魅せられてゆく。そして彼は詩ではなく、この無名詩人との往復書簡そのものをまず最初に公の作品として出すことを決意する。それだけのことあってドキュメントとしてだけではなく、一個の作品としても十二分な鑑賞に堪えるものとなっている。現在さらに様々な初期作品を合わせたものが、『神経の秤、冥府の臍』として現代思潮社で入手可能。ぜひそちらをお読み頂きたい。

5/24 『マラルメ全集 Ⅴ -書簡Ⅱ-』 ステファヌ・マラルメ 文芸

 全5巻中の第4回配本。既に11年に渡る刊行状況であり、例に漏れず18000円という価格を誇る(?)。本書も書簡集として文学的評価の対象外とならざるを得ないが、詩人の書簡としては他に比してマラルメの詩論・詩観がところどころで語られており、興味を惹くものではある。印字から紙質・装丁・挿絵に至るまで自身の出版物に関する偏執的なまでの拘りに加え、妥協なき意志と行動のひとであったことがあちこちに散見される。だが、自身の死後その書簡が公にされるなどということを受け入れる気持ちにはならない。手紙にも公私の区分はある。そしてどちらにも嘘は混ざる。本当の真実など誰にも話さないものだと思うのだが・・・。さて、いよいよ最終配本は数少ない作品を一同に会したものとなる。来春を予定というが・・・刊行された折にはどんなに興味のない方にもぜひ購入をお奨めしたい。きっと高価ですが。

5/19 『十三の不気味な物語』 ハンス・ヘニー・ヤーン 文芸 ★★★

 タイトルの『・・・不気味な物語』から連想されるのは幻想小説だろうか?だがここに繰り広げられる幻想に曖昧さは一切ない。冷徹な視線がこれらを支え成り立たせている。魅せられた魂の物語。ひとは様々なものに魅せられる。愚劣なもの、下品なもの、高貴なもの、自分より強いもの、自分より弱いもの、貧しいもの、エロティックなもの、若さ、頭脳、逞しい、或いは弱々しい肉体、悪の存在・・・。ここで語られる十三の物語は冷徹な視線の下で、魅せられた魂を紐解いてゆく。だがここに答えなどない。明晰さは語られる物語の中にこそあり、現実の中では否定されるしかない。本書はまだカフカが世界的に知られざる以前に書かれていると思われる。だがここにはカフカの『流刑地にて』と同じ筆致が認められもする。ヤーンの全貌をますます知りたくなった。本書はヤーンの著書の中で唯一、現在書店で入手可能。薄くみえるがどうして呑み下し介いのある濃厚な文学だ。晩年の『鉛の夜』ほど絵画的ではない。

5/17 『鉛の夜』(廃刊) ハンス・ヘニー・ヤーン 文芸 ★★★

 1894年生まれの彼が56年、62才の時に発表した最期の作品であるこの『鉛の夜』をどう云えばいいのだろうか?なぜこの作家に限って年代に拘ろうとするのかと言われればカフカとの関連を考えずにはおれないからだ。カフカが発掘されたのは戦後まさに50年代半ばのことである。果たして彼はカフカを読んでいたのだろうか?ジャンル分類などに意味がないのは判っているつもりだが、幻想文学・シュルリアリスム・実存主義・不条理文学、その垣根を跨ぎつつ、独自性を発揮したこの作品は一方で、読む者に対して「お前はどう受け止めたのだ!」と嫌が応でもその回答を迫るなにかがある。自らの闇に囚われた青年の物語。どこかピカソを想わせる絵画的な文学要素がある。20世紀、映像文学と化した小説によって言語としての文学は死に体となってしまった。その過渡期に位置するものとしても興味深いかも知れぬ。どちらにせよ、もっと紹介されていい作家であることだけは間違いあるまい。
 気分を変えて、ハンス・ヘニー・ヤーンの2作品に手をつける。3年ぶりにマラルメ全集のⅤ巻も出版されたことだし、再び文芸月間としゃれ込むか。今年は近年では珍しいくらいに文学作品に手をつけている。これだけ集中して文芸作品を読破するのは、ほとんど15年ぶりくらいだと言ってもいいかも知れない。15年振りの文学青年(中年?)になった気分だ。ここ数年、歴史・時事・政治問題ばかり追いかけていたので新鮮でもあるが読み方が非常に雑になっていることに気づかされる。反省。

5/14 『ダーク・ネイチャー』 ライアル・ワトソン 自然科学 ×

 こんなものは科学ではない。もちろん副題『悪の博物誌』が示しているように著者すら科学書として提示している訳ではないのだろう。だが、それ以前の問題としてやはりサイエンス・ライターなどという人種が似非科学者でしかないことをこの本は露呈している。冒頭で、一匹で発見した好物の蜂蜜を仲間に分け与えるチンパンジーの挿話があるが、この人は果たして『匂いの科学』を書いた人なのだろうか?と首をひねりたくなる。その行動を遺伝子の利他的な働き(こんな控えめな表現すら用いないが・・・)としてのみ解析する。その後、さんざんコロニー(集団)を営む動物について述べるにも拘わらずだ。チンパンジーはコロニーを営んで生活している。それは即ち、仲間同士で助け合い、ひとりでは生きてゆけないというジレンマと共にある。人間より敏感な嗅覚を持つ、チンパンジーが蜂蜜を独り占めした仲間の発する匂いを見逃す訳がない。助け合わない者は仲間外れにされ、集団から暴行を受けるか、群れから放逐される・・・十分に知的である彼がそれを認識していない筈などなく、それを遺伝子に組み込まれた利他本能によって行動しているとしか解析しない著者の方がよほど知的ではない。同様にコロニー内の利他的行動を取り扱いについても、アウシュヴィッツで既にレーヴィ氏が語っているではないか『もっとも自分に近しい者にまで拡大したエゴイズム・・・我々主義』と。コロニー内の行動は多分において我々主義的であって、それは拡大された私利に沿ったものであり、敢えて利他的遺伝子による働きかけでプログラムが作動したと考えるまでもなかろう。その他レンブラントに関する記述など、これらだけでなくあちこちでこの程度の論破は可能であるように思える。なんでもかんでも一緒くたにして、それらを論理の飛躍やこじつけ、思いつきによって結び付け非科学的に述べてゆく後半はもはや愚劣と言ってよく、こんなものは読むだけでも害悪だ。

5/8 『匂いの記憶』 ライアル・ワトソン 自然科学

 匂いとはどこか性のイメージを喚起させ、或いは日常的には食と直結する部分でもあり、本書のタイトルに興味をそそられる方も多いことだろう。我々は性に関わる匂いを決して快とは見なさないことが多いにも拘わらず、〈匂い〉にはどこか猥褻なイメージがないとは言い切れない。確かに興味ある話題としておもしろく、読書中から妙に周囲の匂いに気を取られるようにすらなる程である。ただ著者の見解に対して、進化論における自然淘汰の概念に歪みを指摘せざるを得ない。それは「効率的進化」という道筋に現れている。自然淘汰は効率主義的に起こるものではなく(況してや効率主義的に個体が進化の方向を定めて体を変化させることなどあり得ない。)、様々な方向性を持つ(その時点における劣等性=類人猿における足の指の不器用さや、体毛の喪失等・・・をも含む)変化の中で、偶然によってたまたま適応していた種が繁殖の効率を得るということである。さらに進化に関してプログラミング指向を指摘してもいいかも知れない。また当然のこととして人間は動物でしかないが、教育=禁制・禁忌と、文化=慣習によって本能から隔たった社会を構築している。それは性に関するタブーであったり、どの程度の辛さまで快とするか、納豆やチーズ等の匂いを快・不快とするか、という問題に直結する。思うに南アフリカのフィールド・ワーカーであり、どちらかというと動物行動学者の立場に近いワトソン氏においては軽視されがちな点であるのだろうか?社会文化が主題となってくる後半になるとあちこちで論理の矛盾というか、表現の矛盾というべきものが散見されるようになる。そして結論とでも呼ぶべきものは空想の中に霧散してゆく・・・。
 そういったことに留意しながら、著者の主張に距離を置いてちょっとしたエッセイ気分で読まれる向きにはおもしろいかも知れないが・・・私としてはお奨めしにくい。
 進化論を誤解せずに認識したい向きにはスティーブン・J・グールド氏の連作エッセイを通読されることをむしろお奨めする。(勿論、匂いに関するものではないが・・・。)
  序章部分を立ち読みして同姓の科学者と混同したのだが、これは科学者ではなく、むしろ科学ジャーナリストであるワトソン氏の手になる「ヤコブソン器官」についての考察と〈本能の暗部=悪の本能〉についての2著。勿論、博士号のひとつや、ふたつは持っていらっしゃるのだろうが、学会の最前線に身をおく研究者ではない。「ジャーナリストの書いたものを読みたくない訳」は別稿『反骨の扉』で述べ、こき下ろしておいたので、そちらを参照されたい。

5/4 『ヨーロッパ政治ハンドブック』 馬場康雄・平島健司編 政治 ★★

 イギリスから北欧、東欧に至る16ヶ国の政治について、「歴史的文脈」を踏まえた上での「政治の現勢」を憲法や選挙制度・政党趨勢・議会・外交姿勢に至るまで簡略に比較出来るようまとめた書物である。普段我々は、議会制民主主義云々に限らず、西欧のごく親しみある国といえば深く考えもせず、自国(日本)やその延長線上にその政体や憲法などがあると何気なく考え違いしているのではないだろうか?大統領権限の強さや多党制の種類、国民投票のあり方など、ひとつひとつがその国々によって異なるのは自明のことであるにも拘わらずだ。大統領権限の弱い国々については首相の名前が判っていても大統領の名前などほとんど新聞紙上にも出て来ない現状である。政治的無関心の支配する我が国ではあるが、ぜひ海外へ旅行される際にはこういった知識もまた心に止めて置いてもよいのではなかろうか?

4/28 『マルクス以後のマルクス主義』 ピエール&モニク・ファーブル 思想史 ★★★

 真正マルクス=レーニン主義を標榜する著者らがこの書物を著したのは70年、今まさに社会主義の理想と理念が凋落の烙印を押されたその瞬間と云ってもいい。だがまだその理念を信じ、再生を信じようとする著者らに対しては好感と悲哀を同時に感じずにはいない。本書は前掲の立場に立つ彼らがスターリン主義やトロッキズム、ルクセンブルグやグラムシ、毛沢東や修正主義などそれぞれの思想を紹介しつつ、批判し、社会主義史を追うことで真正マルクス=レーニン主義の再生へ向けて未来を切り開こうという目論見の下で、社会主義者による社会主義内部の分裂の歴史を語ってゆく。歴史が誰を評価したか、誰の理論がその後の歴史を鑑みる時正当であったのか、そこに歴史そのものの悲哀をも感ずる。マルクスの死後2年を起点として始められる本書、であるならば本書の書かれた70年を起点として新たな本書の続編があっていいと思う。敗北の歴史という向きもあるだろうが、社会主義という敵対者を無くした今、まさにここから資本主義は問い直されねばならない。その為には社会主義の歴史・思想というものをこそ尚更、有用であるに違いない。【文庫クセジュ】版なので薄く簡単に読める。右だ左だと大して知りもしないのに、ガタカダいう連中こそは是非一度、読むべき書であろう。

4/26 『法思想史』 田中成明他 法思想史 評価せず

 ふぅ~っ。本当に苦手である。ギリシアから中世くらいまでならいざ知らず、ヘーゲル以降になるとチンプンカンプンな箇所があちこちで思考の集中の邪魔をする。この言語の細分化と再定義によるオリジナリティ観念主義的レトリックが大嫌いだ。しかもここでは法思想史だけが語られ、司法制度の変遷が語られることはない。『法思想事典』ではなく『・・・史』と題する以上、司法の形態と思想の目指すものは切り離せないのではないかと思うのだが・・・。やはり特にドイツ思想界がわたしには鬼門。大学生用のテキストとして編纂されたものなので授業による参考文献等の補充がもともと介在することを前提としている所為もあろうが・・・。この程度のものが理解出来ないのを実感させられるのは辛い。だがいずれ再び、この種のものがわたしの前に立ちはだかることは避け得ない。ふぅ~っ・・・。誰か~、「哲学講座」受講させて~!!
  苦手なもの。哲学・思想、理工系全般・・・。だがいつまでも避けてばかりもいられない。簡単な入門書『法思想史』から・・・なんとか手をつけてみる。続いて『マルクス以後のマルクス主義』、『ヨーロッパ政治ハンドブック』、一息といってはなんだが、P・ゲイの『神なきユダヤ人』と続けてゆきたい。ひょっとしたらアーレントの『全体主義の起源1~3』まで手を伸ばしてみるかも?(何年もずっと本棚で眠っているままなので・・・。)

4/21 『カタルーニャ現代詩15人集』 澤田尚編訳 文芸 ★★

 我々がスペイン語というのはカスティリャ語のことであり、同国にはバスク語、カタルーニャ語、ガリシア語など4別される言語があり、それぞれは寧ろ隣国のポルトガル語を等位にする程に相違があるという。中世より、分裂したままのスペインがここにある。さらに内戦とその後の地方自治・分化政策によって分断を決定づけられたスペインの姿である。経済や文化のグローバル化が叫ばれる中、その反動化も複雑化し、ナショナリズムという一言で片付けられるものではなくなってしまった。カタルーニャ語で書くとはどういうことなのか、無論、詩人ひとりひとりにとってその意味は違うのだろう。だがカタルーニャ語もスペイン語も解さないわたし達にとってそれらが翻訳された時、カタルーニャ語で書かれたそれらに何が残るのか。だが所詮、浅読みではそこまで辿り着けない。寧ろ、本文ではないが、訳者の「ポリシーも節操もなくカタカナを増殖させている日本語がその量的な豊富さにもかかわらず、必ずしも豊かになった訳ではない」という現況を鑑みて捉えなおす必要を感じる。作品的には配列に、バラバラなアンソロジーという印象が残る。『イスパニア現代詩選』の方に軍配は上がるか。

4/19 『焚かれた詩人たち』 ユルゲン・ゼルゲ 文芸 ★★★★

 副題『ナチスが焚書・粛清した文学者たちの肖像』が示す通り、ヒトラー政権によって抹殺されたユダヤ人だけでなく、アーリア系ドイツ人たちをも含む文学者たちの生涯と作品を紹介したもの。だが、彼らの多くはその民族・生死に関わらず、戦後も復権されることなく現在に至っている。まだまだ翻訳文学というものがほんの一部の作品をしか対象とせず、外国文学に親しむにはその言語に精通するしかなかった時代、国内に閉じ込められそして破棄された蔵書類の多くは埋もれたまま忘れ去られてしまった。またそれは戦後の冷戦構造とドイツ復興によって齎された結果でもある。ヒトラー政権によって悪書とされ、非難された作家の多くは反体制運動としての社会主義運動に関わりを持つことが必然ですらあった。戦後、各地へ亡命していた彼等は冷戦構造の真っ只中で社会主義文学者として西側の多くの国で無視され、拒否されたままとなる。また芸術の根底でもある自由を畏れ毛嫌いする社会主義国家では、政権やマルクスをも非難する彼らの文学や芸術は受け入れざるものでしかなく、そこでもプチブル似非社会主義者などとしてスターリンとその後継者たちから寧ろ弾圧を受けることとなった。そしてドイツ国内では同じアーリア系同時代人としてヒトラー政権に挑んだ人々の存在は「わたしたちは何も知らなかった、反対することなど思いもよらなかった」と無垢の無実を主張する市民にとっては、彼等の存在そのものが自身の有罪を立証するが故に、永く拒否し、忘却の彼方に埋もれさせておくのが一番だったのだ。さらに本書を読んで感じることがもうひとつ。政治的行動力や抵抗や自由を求めた闘いにおける雄弁さや姿勢と文学的才能が必ずしも一致するものではないのを改めて認知させられる。人生の強者と敗者を分ける区分は決して芸術的才能などではないのである。云わずもがなのことではあるが或る種哀れみに近い感情を抱かざるを得ない。文芸発掘としての側面ではなく、歴史と個人の記録(記憶)としても有用である。そして素晴らしい作家を見つけた。ハンス・ヘニー・ヤーン(『鉛の夜』『十三の不気味な物語』2冊とも廃刊絶版だが、インターネットで意外にも容易に入手可)・・・これからのお愉しみです。

4/14 『ネルヴァル全集 Ⅰ 〈文壇への登場〉』 ジェラール・ド・ネルヴァル 文芸

 2年振り、第一回配本から数えると計4年にも渡る刊行状況である。本巻は19世紀フランス、街路で首を括った縊死体となって発見された小ロマン派の詩人ネルヴァルの初期の活動を収めたもので、本邦初訳のものが多数ある。文学的にはナポレオン礼賛を中心とする時代精神にとらわれた十代の試作の域に留まるものと思われるが、狂気に憑かれる以前、彼の青春時代を形成していたバックボーンを知ることが出来るドキュメントとしては貴重である。文学的評価を云々する範疇のものではありません。ついでに云えばこの本は定価14000円。今日の出版情勢を考えるならば如何仕方ないのかも知れないと思っているが、大方の見方ではやはり驚きだろう。だがそれだけ売れないということなのだ。最終Ⅵ巻は20000円とみて間違いなかろう。それでも早期刊行を願うのみである。

4/10 『アルバム ∥ ジャコメッティ』 矢内原伊作 芸術 ★★★★

 ほとんどが写真からなる小冊子である。ジャコメッティ自身の『エクリ/自己を語る』、矢内原の『ジャコメッティ』に続くものだ。一昨年、書店で手に入れた時に、読もうと思えば30分でも読めたのだが、どうしてもじっくりと眺めたかったので本棚に飾って、ちょくちょく手にとってはパラパラ捲るだけにして置いた。わざと・・・。写真が雄弁に語っている。ここまで写真が語れるのはこれがジャコメッティのアトリエだからだ。そしてジャコメッティが矢内原を意識せずに仕事に没頭しているからだ。何度でも、そして何時間でも眺めていられる本だ。こんなもので一冊とかいうのも可笑しな話だが、そんなことはともかくどうしても紹介して置きたい。もしこれが気に入られれば是非とも前掲の2冊も読んで頂きたい。ジャコメッティ、彼は20世紀最後の芸術家だったのかも知れない・・・。

4/9 『アントナン・アルトーと精神分裂病』 森島章仁 精神病理学

 アントナン・アルトー、このシュルリアリスト最大の詩人として扱われることの多い鬼才は、これまでジャック・ガタリやドゥルーズ、宇野邦一といった現代哲学・思想家による解析の試みがほとんどだった。が、本書は精神病理学の立場に身を置く筆者の手になるものである。だが、結局は哲学用語によってアルトーの基底を語り、片や分裂病患者の症例を挙げて、各章毎にそれらを統合し解析と同時に診断しようとする試みでしかなく、それが成功する筈がない。考察をまとめる程度ならいざ知らず、そもそもアルトーと面識がある筈もない、同時代人ですらない筆者にそんなことが可能な訳がない。アルトーは思考の実体化を目指して自身を追い詰め、まさに衝動そのもの足らんとしたのではないのか?鋭敏な知性と感覚の果てに自らの分裂を突き進んだアルトー、時代故の麻薬治療と電気ショック療法に明晰さを奪われつつも最後まで闘いをやめなかったアルトー、を一般の症例を基に解析する試みなど信じがたい。せめて、ガタリやドゥルーズなど先燵の遺産に因りかからず、もっと独善的な解釈の試みであった方が好感を抱けたかも知れぬ。フロイト派の私としては彼がそうしたように何故もっと直感的に、自然なアプローチが出来ないのだろうかと思わずにいられない。芸術に対する姿勢の差を見て取るのは私だけだろうか?では何故こんな著書を読んだのか?ただアルトーだからだ。それ程までに彼の存在はわたしを惹きつけて止まない。

4/6 『アラブから見た十字軍』 アミン・マアルーフ 歴史 ★★

 本書のタイトルが端的に示すようにこれはキリスト教社会によって征服され、蹂躙されるアラブから見た中世史である。残されたアラブ側資料の中に十字軍という言葉は出て来ない「フランクども」「ルーム(ビザンチン)」といった具合である。だが、ここでもアラブ側の分裂が描かれている。現在に至るまでアラブは一度足りともひとつであったことがなく、常に分裂の中にあるのが見てとれる。そして国家の形成が否応なく近代化の基底となったことを思い知らされる。アラブに残る様々な資料を引きながら歴史絵巻的に筆者は語ってゆくが、果たしてアラブ世界は本書を受け入れるのであろうか?

3/26 『ゴッホ 自画像の告白』 ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ 木下長広編・訳 芸術 ★★

 ゴッホの全自画像とゴッホの手記・書簡からの抜粋で構成されている薄い詩画集といったところか?本というようなものでもないが、書店で見つけるや否や買ってしまった。読書嫌いの方てにはGoo!って??何度でも繰り返しページを捲れるのがこのタイプの本のいいところ。ただ、若干色合いに不具合が観られるのが残念ではある。

3/25 『パレスチナへ帰る』 エドワード・サイード 文芸 ★★

 パレスチナ生まれのキリスト教徒であり、裕福な家庭に育ちながらも亡命を余儀なくされ、その後米国で比較文学の教授となったサイードが、自責の念に引き摺られるようにしてパレスチナ問題に参画しはじめたのは第三次中東戦争からだという。そして92年、パレスチナの大地を踏みしめた時の印象から本編は始まる。だが、ここで語られるのはパレスチナ内部の分裂。病を機としながらも彼に政治活動から身を引かせたのはアラファトの専制に対する幻滅と、パレスチナ内部の未成熟さだろう。自身も含めてアラファトや外部の者ではなく、内部からの指導者誕生を願いつつ、そこに諦めを感じているのが見てとれる。同じように内部の分裂や未成熟さと闘うハナン・アシュラウィの『パレスチナ報道官 わが大地への愛』の方がより力強く感じられるのはその所為か。どうも絶望は女より男に巣食う方が多いようだ。

3/23 『第一次文明戦争』 マフディ・エルマンジェラ 政治

 湾岸戦争勃発直前からその一年以内に書かれた論考を集めた本書のタイトルは湾岸戦争を欧米の文明とイスラーム文明間の世界戦争として捉えたものである。だが残念ながら読前に期待したような批判と自責のバランスの上に立ったものではない。マニュフェストといっても差し支えのない短い論説やインタビューの中で半ばヒステリックに繰り返し述べられるそれは学問ではなく、政治的批判でしかない。よしんば反米論考の大半が的を得ているにせよ、対アラブに目を向けると彼の視点は当て所なく彷徨うばかりである。寧ろ書き下ろし論考を出版すべきではなかったのか?東大に客員教授として招聘された理由が不可解ですらある。
 これからの予定。『第一次文明戦争』、『パレスチナへ帰る』、『アラブから見た十字軍』の3冊を続けて読もうと思う。最初の2冊はある意味で西欧化された知性を併せ持つ、アラブ人知識階級の著作。言わばイスラームのアイデンティティを西欧的価値観に翻訳することで世界の理解を求める最近の試みであり、批判と自責のバランスの上に成り立つもの。もう一冊は言うまでもなく、西欧中心の世界史観に対するアラブ側からの異議申し立て。

3/19 『遍歴時代』 ジャン・アメリー 思想

 ここで語られたことが、哲学に造詣のないわたしが十全に理解出来たなどとは言わない。まったく以ってわたしの知性は文系を名乗る割には〈哲学的思考回路〉を共有しない。掲げられた人名も哲学論もほとほと不如知である。だが、ここでアメリーが試みたことは過去の自己と同時代人の断罪であり、だが『過去の断罪=現在の美化』に陥ることを拒否した〈自己との訣別〉であろう。そしてこの7年後1978年、彼は自殺をする。だが冒頭に述べたように哲学に造詣のない向きにはとてもお奨めできるものではない。また同時代的ドイツ文学史観も要求される。
 
3/17 『アンゴラ内戦と国際政治の力学』 青木一能 歴史・政治 ★★
 
 これは珍しいアンゴラの一国史。これまでアフリカの各国史といえば南アフリカやエジプト、エチオピア等に限られていたのだが。だがタイトルの『・・・国際政治の力学』というのも現実には独立後延々と続く内戦の中で、一度たりとも安定した政府を戴いたことのないアンゴラにおいて、多少なりとも公正な内部資料などというものが存在しない為、外交・支援の脈絡からしか語れないのが本音。いわば外堀を埋めるような形での一国史とならざるを得ない。特にサハラ以南のアフリカ諸国と関係の薄い我が国の学者が扱うには荷が重いか?旧宗主国のポルトガルや、CIAをつかって反政府ゲリラの支援を行い、今日の泥沼化を招いた最大の元凶であるアメリカ外交サイドや南アフリカサイドからの研究が待たれる。

3/8 『キューバ革命』(廃刊) 加茂雄三編 歴史・政治 ★★★

 この本は最初にキューバ革命についてのおそろしく簡単な概史があり。その後は1920年代から71年までの様々な資料(ドキュメントやマニュフェスト)を編纂したものからなっている。そこに取り上げられるのはジャーナリストの報告、国際会議の報告書、大学論文や宣言文書、そしてカストロやチェ・ゲバラ自身の演説論考などである。当時のカストロ以下の革命を非難することなど誰にも出来ない。彼らの闘いは正義の闘いであったし、その後彼らを社会主義に追いやったのはまさしく米国の国益重視の外交政策でしかない。キューバについても正鵠を得た歴史書はほとんどなく、こういったものに頼らざるを得ない。それは右だの左だのといった偏狭な偏見が生み出した結果でもある。

2/28 『グアテマラ 虐殺の記憶』 記憶の回復プロジェクト編 歴史・政治 ★★

 グァテマラ内戦の一応の終結を受けて分断された国民の和解を求めて結成された和平プロジェクト『歴史的記憶の回復委員会』が虐殺の被害者の家族や拷問の被害者、さらに加害者たちとの聞き取り調査をまとめて発刊した膨大な量の報告書の一部抜粋。日本版解説もついているが、なんだか内戦と和平問題に関する考察に終始している為、事情に明るくない人には判り辛いかも。その上、あくまでも報告書なので味気ないっていうと失礼か?一般の人には同じ聞き取り調査でもジェニファー・ハーバリーの『勇気の架け橋 グァテマラ・・・内戦の記録』の方が読みやすいだろう。ただし、だからといってこの資料の価値が下がる訳ではない。

2/22 『中米ゲリラ戦争』(廃刊) 滝本道生 歴史 ★★★

 ジャーナリストのルポものは底が浅く、偏りがちなので本来は読まないようにしているのですが、残念ながら中南米に関する書籍が数少ない現状ではこういったものに頼らざるを得ない。ただ筆者が在中南米歴も比較的長く、言葉にも堪能なのでまだマシか?パナマのノリエガ将軍逮捕直前、グラアテマラ和平直前の時代に書かれたもの。貴重な本であるのは確か。
ここから3冊はラテン・アメリカの歴史と政治に関わるものを読もうと思う。タイミング的にはただ求めていた絶版本が2冊、インターネットを通じて入手出来たことによるだけなのだが・・・。

2/16 『審判』カフカ小説全集② フランツ・カフカ 文芸 ★★★★

 カフカの熱狂的ファンとしてはこれまで2種類の全集をもっているのでこれで3種類目。いや、高校生時代に買った文庫本を入れると4種類か?23年ぶりに読んでみたが、未定稿のまま断片を最後に集めて・・・ということで寧ろ、カフカが目指した全体像が掴めてきた。勿論、ブロートが悪い訳ではない。彼は当時の最大級の貢献者でもあるし、その編集も望む限りの状態であったことさえもはっきりした。だが現時点としては未完の書としての魅力もまたひとしおでもある。本来5つ星の作品だが、所詮、芸術や文学は個人の趣味の問題でしかないと考えるのでお奨め度としては星1ケ控えておいた。

2/2 『失踪者』カフカ小説全集① フランツ・カフカ 文芸 ★★

 昨年11月からあらたに『カフカ小説全集』としてカフカが未整理のまま残した遺稿を手を加えず、そのまま翻訳したもの。これまではカフカの友人であり、原稿の管理者として絶対的権限を握ってきたブロートが編纂したものであったが、その彼の死後未定稿のまま公開することが課題となっていた。旧題『アメリカ』で知られる本作もより未完の書としてイメージのふくらみを持つに至った。だが、本作は未完の度合いが強すぎて評価に至らない。
 昨年末から刊行の始まった『カフカ小説全集』が2冊になったので続けて読むことにする。久し振りのカフカではあるが、ちょうど一昨年末には伝記『フランツ・カフカの生涯』、昨年は証言集『回想の中のカフカ』と翻訳出版されたものを読んでいたのでそれほど懐かしくも思えないが・・・。

1/28 『罪と罰の彼岸』 ジャン・アメリー 思想 ★★★★

 哲学者嫌いのわたしとしてはアウシュビッツからの生還者である思想家アメリーはこれまで避けて通ってきたのですが、まぁ取り敢えず一冊という気持ちで読んでみました。他の本はいざ知らず本作は哲学的思考に囚われ過ぎることなく、彼の記憶の整理を目指したもので、特に経験者として拷問の齎すものの記述が圧巻といえる。次回、他の著作にも挑戦したい。

1/26 『脳の時計、ゲノムの時計』 ロバート・ポラック 自然科学 ★★★

 前作『DNAとの対話』路線を期待したが、これは自身の死に直面し、同時に医療や科学のあり方について疑問を抱き始めた科学者ポラック氏の医療科学に寄せた警告の書。その意味では専門外の方でも十分に理解できる内容か。彼は『不死を目標とする』科学ではなく、『老化を防止する』科学であるべきだと説く。それはエコロジストとしての側面を越えて医療と人類に対する警告となる。

1/23 『干し草の中の恐竜(下)』 スティーブン・J・グールド 自然科学 エッセイ ★★
1/19 『干し草の中の恐竜(上)』 スティーブン・J・グールド 自然科学 エッセイ ★★

 科学誌『ネイチャー』に連載されているグールドの進化論を中心とする自然科学エッセイ本作ですでに12冊を数え、生物進化論という比較的狭い?領域の第一人者である彼にも、さすがにネタ切れの観は否めない。『ダーウィン以来』のような新奇さはもはやないが、当初は言外に匂わせていた出自(ユダヤ民族)をますます声高に口にするようになってきており、彼の人生観が全面に見えてきた。
  自然科学のエッセイと遺伝子学についての著書を2~3冊。本当はネイチャー誌編纂による科学論文集『知の創造1・2』も読み切ってしまいたいところだが、今ひとつ手が出ない。本棚でいま暫らく埃を被っていてもらうしかあるまい。

1/11 『ヒトはなぜ戦争をするのか』 アインシュタイン=フロイト往復書簡 公開書簡

 第一次世界大戦終結後、国連の要請に応じてアインシュタインがもっとも感心のある話題(表題)をもっとも意見交換をしたい人物(フロイト)に宛てて送った往復書簡。だが、この往復書簡とは云え一往復で終了したのは、全体として討論が成り立たなかったから。その意味で興味深くも失敗したドキュメントである。アインシュタインからこの問題を科学者として提起されずにモラリストとして提起されたことに、『モラルの破壊者』であるフロイトは戸惑いを隠せないでいる。

1/10 『ベルリン日記』(廃刊) ウィリアム・シャイラー 歴史 ★★★★

 第二次世界大戦下、独で取材活動を続けた米記者の日記。スペイン内戦からヒットラー独裁政権の誕生、そしてフランスの敗北・・・。歴史の細部を綿々と綴ると同時に、当時その後の展開をここまで予見できる知性に驚かされもする。戦争の足音、そしてヒトラー政権に対する欧米の怠慢。その舞台裏がリアルタイムに記述されている貴重なドキュメント。すこぶるおもしろいが、日記である為に歴史書にありがちな解説要素なく、ヨーロッパ史全般に対するそれ相応の知識を要するのが難点か?





====================読書日記以前の感想========================



『近代ギリシア史』 C・M・ウッドハウス 歴史 ★★★★

 日本人の多くにとってはやはりピラミッドのあるエジプトやパルテノンの神殿や古代ギリシアの彫刻などは憧れの地。だが学校の歴史の教科書で習うのはアテネ対スパルタ、そしてローマ帝国に支配されて・・・。とまるでそれ以降ギリシアという国は滅びてなくなってしまったかのような感さえある。東西ローマ帝国の分裂以降から現在に至るまでギリシアは様々な困難に幾多の紛争を乗り越えてだが敢然とその存在を世界に示してきた。内戦、侵略、独立、そしてクーデターに次ぐクーデター。トルコとのキプロスを巡る争い。それらを無視してこの国を理解することは出来ない。まさに教科書から抜け落ちた部分を補うに相応しい必読の書!古代からの簡単な概略もあるので理想的な本となっています。ぜひギリシアへ旅行しようとお考えの方は渡航前に読んでみてください。

『現代トルコの政治と外交』 松谷浩尚 歴史 ★★★

 エジプトでの観光客襲撃事件以降、一時エジプトへの渡航が制限されていた所為もあってその間トルコへの旅行がブームとなった観さえあった。現在ではエジプトへのツアーも再開されてはいるが依然トルコへの旅行が人気を集めているのも事実だ。だがトルコという国は西欧主義(民主主義)とイスラーム主義の間で揺れ動き、軍部(俗化)と政府(イスラーム主義)の対立、南東部クルド人問題、ギリシアとのキプロス島を巡る問題等で分断された不安定な国家である。コンスタンチノープルの正教会や古代カッパドキアの遺跡を観光するだけでなく、その国の現状を理解せずに人々と触れ合うことは出来ない。『現代トルコの・・・』とあるが無論、古代からの流れを押さえながら記述した本書は貴重な概説書である。以前わたしの知り合いの女性がギリシアからトルコへ旅行しようとして現地の人にたしなめられたという話がありましたが、そういったことは是非理解しつつ海外旅行を愉しんで欲しいと思うのです。

『アフリカ現代史Ⅰ~Ⅴ』 小田英郎他 歴史 ★★★★

 数十ヶ国に及ぶアフリカ史を一冊にまとめるなど到底無理。むろん中にはそんな無謀なことを試みた本も何種類かでていますが、碌なもんではない。やはりここは地域別にアフリカを東西南北中央と区分し、植民地支配からその脱却史とその後をきっちりと描いたこの5冊の出番。出版がもう十年近く前になりますが、そんなことは関係ない。問題は遙か昔から提議され続けているのですから。中でもまずどれか一冊をという向きには中央アフリカのコンゴ、旧ザイールを中心に叙述した第Ⅲ巻がお奨め。植民地支配の後遺症がどのような形で現代アフリカの病める社会に影響を与えたのか、その構図がもっとも集約された地域でもあります。第Ⅴ巻北部マグレブ諸国はイスラーム・アラブ圏との兼ね合いで読むべし。南アフリカについては『南アフリカの歴史』がアパルトヘイト体制崩壊後を増補した新版がありますのでそちらでも良し。

『パレスチナ報道官 わが大地への愛』 ハナン・アシュラウィ 文芸思想 ★★★★

 正確にはこれは歴史書ではありません。一種の回顧録とでも云うものでしょうか。だが実に素晴らしい出来栄えです。著者はなんとパレスチナ人でありながらも敬虔なキリスト教徒の家庭に育ち、しかも云えば上流階級の出身でアメリカ留学経験のある英文学の博士号取得者。だが一方でパレスチナ難民として解放運動員でもあり、またイスラーム教徒の夫を持ちながらも改宗せず、アラファト議長の片腕としてパレスチナ報道官を務めた女性。パレスチナ問題については様々な書物があるにも関わらず歴史書というのはほとんど見当たらない。これは第三次中東戦争の最中に育った著者が見、関わってきた中東和平への歴史と個人的闘いの記録でもある。なんという知性だろうか、その生い立ちにおいてすでに中東和平への掛け橋となるべくして生まれたかのような分裂と融合の中にある。西洋を十分に理解し体験しつつもパレスチナを愛し、その解放に努力する姿勢というか、その知性とバランスに感動すら覚える。

『バルカン ユーゴ悲劇の深層』 加藤雅彦   歴史 ★★★

 あまりにも複雑な民族構成とそれぞれの史的展開を持つユーゴスラビア情勢を一冊の本で理解するのは不可能。(わたしは20冊ほど読みましたがそれでも漸くってとこですかね。)だがだからと云って何冊も紹介するのはこのコーナーの趣旨に反する。という事で今回ご紹介するのは概説書の類を免れない初心者向けのもの。ユーゴスラビアの歴史を概観し、旧ユーゴ内戦の発端から一応の停戦までを扱うものであるが、複雑奇怪なユーゴ情勢を簡略化すればするほど実はややこしくならざるを得ない部分をある程度は緩和することに成功している。だがその分面白味が追求出来ていないのは已む無しとして欲しい。とにもかくにも一読後、他のユーゴ情勢本に挑戦して頂くしかない。その時はメールください。個人的に紹介しましょう。(こんなんでええんかなぁ。まぁ、どうせ誰も読んでくれへんし・・・。)締め切り間際に『バルカン世界』東欧叢書 ジョルジュ・カステラン 彩流社 が出版された。恒文社からユーゴ成立までを記した著書『バルカン史』を出している著者が新しく抄史としてまたユーゴ紛争を書き加えた最新のバルカン史。ユーゴだけでなく、ブルガリアやルーマニア、アルバニアまでを網羅した一冊。必読。

『I.R.A アイルランド共和国軍』 鈴木良平 歴史 ★★★★

 本書は過激派の代名詞のようなI.R.Aをタイトルにしている所為もあって敬遠する向きもあるかも知れないが、南部アイルランド分離独立以前の大英帝国による征服からエール共和国(アイルランド共和国)の分離独立、そこから現在に至るまでの北アイルランドをめぐる闘争・紛争の全史が丹念に追われている。複雑、理解不能と思われがちな民族紛争だが、I.R.Aの闘争はその中で原点と云えるくらい判り易い構造であり、初心者には最適。日本では独立派I.R.Aが過激派として知られているが、実際には反対派にもアルスター防衛軍などという過激派組織がいくつもある。しかもI.R.Aは予告爆破を原則としたり、ハンガーストライキを指導したりと新聞で見る印象とは随分異なる面も多い。要はイギリスという先進国に対して独立を叫ぶ北アイルランドはテロリストであり、途上国のユーゴスラビアに対して独立を叫ぶコソボはNATO空爆をもってしても支援すべきだという構図が浮かび上がってくる。昨年、増補新版として第三版が発刊されているので最近の情報まで網羅されている。

『中東軍事紛争史(Ⅰ~Ⅳ、、Ⅴ巻は未刊)』 鳥井順 歴史 ★★★★

 中東と云っても数十ヶ国に及ぶ国々がありますが、中東全体の構図という奴を理解するには最適の本です。《軍事》というのが「ん?!何じゃぁ~!」と思われるでしょうが、最初の2巻に限って云えば『中東紛争史』として読める優れもの。だがこの著者がなんとも怪しい。1932年生まれで55年陸上自衛隊入隊。幹部学校副校長などを歴任後、87年陸上自衛隊、陸将捕で退職。防衛庁防衛研究第2研究部第3研究室長(アジア地域および第三世界)元防衛研究図書館長。専門は中東地域の政治・軍事。日本中東学会会員。98年逝去、という略歴。ですが、特に変な偏りや、ユダヤ縒り、アラブ縒りといった偏向も感じられないのは基本的に巻末に記載させている膨大な図書資料を編纂して一巻の書物にすることを重点に置いているから。各巻の内容はⅠ巻が古代~1945、Ⅱ巻1945~1956、Ⅲ巻1956~1967、Ⅳ巻1967~1973となっており、特にⅠ、Ⅱ巻は我々が学校教育で受けたヨーロッパ中心の歴史観を文明の発祥地とも云える中近東地域から眺めたまさに『目からウロコ』もの。我々の歴史観こそが偏り過ぎであるとはっきり自覚させてくれます。Ⅲ巻からはいわゆる戦後のアラブ・イスラエル紛争が中心となりますが、以降はそれこそ軍事評論部分が圧倒的な量を占めはじめる為、普通の人にはお奨め出来かねます。

『インタヴューズ』(上・下) クリストファー・シルヴェスター編 文芸思想 ★★★

えー、『20世紀を振り返ろう!』にも、もう少し軽い読み物はないのか、とお叱りを受けましてこの本をご紹介申し上げますじゃ。マルクスからヒトラーそしてカポネから、エディソン、ヒチコック、M・モンロー、ジョン・レノンまで。20世紀のインタヴューを総編集。どこの馬の骨かわからん人物もちゃんと解説と当時の状況説明つきなので意外と愉しめます。おもしろいと思ったものを幾つか紹介しましょう。 -ウィラ・キャザー『何ならやってごらんになれば?日曜学校とか、身寄りのない子どもの学級なんてところで、一席ぶつんです。大人物になったような気がしますから。』 -フロイト『たぶん、神々はわれわれに優しいのです。(中略)老いてゆくに連れて、生きづらくなるようにしてあるのですから。』  -メイ・ウエスト(80才を過ぎた元ハリウッド女優)『服を着るのは女のため、服を脱ぐのは男性のため。』 -ピカソ『私がハンマーと鎌を描いたら、ひとは共産主義を描いたと思うだろうが、私にとってはたんに、ものとしてのハンマーと鎌でしかない。』 -サミー・ディヴィスJr『上品で、考え方がひらけていて、たぶん教養もあるアメリカ人。公民権には100パーセント賛成で、その理念を擁護するつもりはあっても、その現実を受け入れる用意はない連中。(後略)』 -レスター・ビゴット(騎手)『人の顔は馬より表情が豊かだが、馬ほど当てにならない。』

『〈表現の自由〉を求めて アメリカにおける権利獲得の軌跡』 奥平康弘 法思想 ★★★

 著者は1929年生まれ、東大名誉教授というが、今年71才。だが一般人を対象として書かれたこの本にはそんな老いや権威者ぶった気負いはみじんも感じられない。日本で表現の自由を語るとなるとポルノ解禁論争と未成年犯罪者の写真報道、せいぜい被害者保護ぐらいしかおよそ話題とはならないのが実に恥ずかしいが(上記のうち後者の2点などは表現の自由としての観点から争われることは滅多にない。)、まず何故アメリカなのか、冒頭にその断りからきちんとはじめてくれるその姿勢が心地よく、また全編にさまざまな留保や断りを入れる中にも一貫してその姿勢を感じることが出来る。アメリカ礼賛などではなく、、日本のように臭いものには蓋をする式でなく、何でも議論し、とにかく決着をつけてゆこうとするアメリカの、その議論そのものが果たして自由に許されるのか否か、というその点に実は表現の自由という主題そのものが隠されている訳なのだが・・・。判例主義による司法制度の中で大英帝国のコモンローの呪縛、州対合衆国政府の確執、大戦期の統制、マッカーシズムの嵐、公民権運動、ベトナム反戦運動、国家機密とジャーナリズム、コマーシャル効果をめぐる相克、プライバシー保護との衝突、わいせつ表現と性差別、ヘイトスピーチetc、etc。表現の自由は確固として確立したものでもなく、また日進月歩、確実に進展して来たものでもなく、三歩進んで二歩下がる・・・式に、紆余曲折を経てしかも尚、現在ますます混迷を深めてドロ沼化する中で、歴史的ターニング・ポイントを例証しながら概観したこの本は343ページをもってしても無論、ガイドラインを記しただけで終わらざるを得ない。法思想論や司法論、そのドラマはここに上げられた数十の事件とその背後に隠れている無数の事件・判例ひとつひとつのうちにこそある。可能な限り平易な文章で書かれていると思われるので苦手意識さえなければ誰でも読める本です。それにしてもどんなことでも合衆国最高裁まで持ち込んで争おうとするこれらアメリカ人たちの姿勢というか、その自己主張・権利要求の強さはすさまじい。(モチロン、その影には無数の泣き寝入りがあるにしても。)闘わずして与えられた箱庭の自由に飼い慣らされ、時々ちらつかされる抑圧の影にすら諦め顔を決め込んでしまう傾向のある我々日本人のなんとチンケなことか。いやぁ、反省だけならサルでも出来るってか?!参ったのぉ~。

『アウシュヴィツは終わらない』 プリーモ・レーヴィ 文芸思想 ★★★★★

 いわゆるホロコーストもの。声高にナチスのユダヤ人虐殺・虐待を非難する本はいっぱい書かれていますが、これはちょっと違います!学者でも思想家でもない、大学出たてのユダヤ系イタリア人の強制収容所での経験をヒステリックにならず、誰かを告発するのでもなく、生きる為にとった自分の行動を、自分自身をひたすら見つめることで、何が起こったのかを逆に鮮明に浮かび上がらせた傑作です。非常に読み易い文体で、小難しくなく、あっという間に読めてしまうからチョーお奨めなり。前言を翻すようでなんやけどこれはジェンダーを越えて人類的。この作品の言わば続編となる『休戦』は3年ほど前に『遥かなる帰郷』(フランチェスコ・ロージ監督、ジョン・タトゥーロ主演)として映画化されているが、まずこの本を読んでからにしなさい。

『生きつづける』 R・クリューガー  文芸思想 ★★★★

 前出と比較するのは何ですが、これもまたホロコーストものの一種?ただしタイトル通りここでは強制収容所での出来事を語るより、その後〈生きつづける〉とはどういうことなのか、を女性特有の癇癪を交えながらそして皮肉たっぷりに大変痛快に!書き上げたエッセイ。女ってのは逞しいよなぁ、とつくづく感じさせられます。余談ですが、前出のレーヴィ氏と後述のツヴァイク氏が(もっと云えばジャン・アメリーや詩人のパウル・ツェラン等生き残り組で執筆活動に携わった男性の多くが。)結局は自殺してしまったのに比べてなんとまぁ・・・でも切実な叫びも聞こえてくるんよ、ほんま、この本。

『昨日の世界 Ⅰ・Ⅱ』 シュテファン・ツヴァイク 文芸思想 ★★★★

 ついでと云えばそれまでやけど、本格的な読書家がいれば是非とも読んで頂きたい一冊。こちらは強制収容所へ行くこともなく、亡命生活を送りながらも第二次世界大戦の終結をみぬままに亡命先で自殺したユダヤ系オーストリア人の老紳士の想い出。タイトルの〈昨日の世界〉とは二度の大戦を経験する前のヨーロッパ上流階級の記憶。ふたつの大戦を体験し、世界が、人々が変わってゆくのを目の当たりにしながら、死の前に自らの青春時代を書き残した遺書?ちょっと年配ムキかも・・・でもホントにすんばらしい本です!まぁ、トーマス・マンの『魔の山』の世界からアウシュヴィッツへという歴史の流れ。だがこの人はアウシュヴィッツの真の姿が明らかにされるその前にもはやこの世界を見限ってしまうことになる。

『バルカン・ブルース』 ドゥブラヴカ・ウグレシィチ 文芸思想 ★★

 つい先頃?の旧ユーゴ内戦で亡命を余儀なくされた女性の比較的ライトなエッセイ。民族なんて、戦争なんて、まさか考えたこともなかったのに・・・祖国と友人を失ってしまった女性が語るユーゴスラビアで起こった様々なこと、想い出。子供たちに語るかのように平易に、ぼんやりと色々なことを提起してくれます。薄い本やし、すぐ読める。

『ヒトラー独裁下のジャーナリストたち』 ノベルト・フライ、ヨハネス・シュミット 歴史 ★★★★

 こらっ、そこのおっさん!会社の命令やからとか、昔からの慣習やからって、そんなことしててええと思とんのか!って叱ってくれる本です、ハイ。雪印や、どこぞの原発、ポリ公から、自動車メーカーの人達にも読んでいただきたい有難い本なんです。ヒトラー独裁下でジャーナリストたちに何ができたのか、どうすべきだったのか?亡命して非難の声を上げた者がエライのか?ドイツに残って少しでも真実を伝えようとした者、使命を果たそうと思いつつも妥協の中で生き延びた者が非難されるべきなのか?それとも愚直に逆らい処刑された者が一番正しい選択をしたと云えるのか?言い訳と決意、欺瞞と信念が交錯する現実。サラリーマン時代に巡り会いたかった一冊。皆さ~ん、ところでアナタな~らどうする♪

『ダーウィン以来』ほか スティーブン・J・グールド 自然科学 エッセイ ★★★★

 ワタシみたいに『数Ⅱa』で音を上げた自他とともに認める文系ドタマの人々に贈る進化論ほか自然科学エッセイ。シリーズは全部で12冊以上。著者は自然科学、進化生物論の学者サン。でもこれは気軽に読める生物学のエッセイ。重箱の隅をつつくような厭らしい性格の著者がケンカ腰の議論なら俺は譲らん!とばかりにその種の見本を見せてくれます。殊更知らんことばかりではないんやけど、あぁ、やっぱり・・・と気付けば納得、ふぅーん、なるほど。全シリーズ中には同じような話が何度も何度も出てくるのですがそれはそれで理解を深めてくれるもんです。いゃぁ、数学はどうしょうもないけどちょっとは理系にも近づかんとね。ついでに大リーグ・マニアのこの人、4割打者の消滅についても考察してます。

『空想自然科学入門』ほか アイザック・アシモフ 自然科学 エッセイ ★★★★

 上記よりももっと理系に近づきたいアナタ。そんな無謀なアンタにはこれっ!シリーズは文庫だけで15冊。天文学から、物理、数学、化学、生物学までありとあらゆる科学分野を分かりやすく?計算式抜きで(ウソ!)解説してくれるチョーありがたい本。そやけど分からんとこは全然わかりましぇーん。チョー恥ずかしいけど、そこは流し読みするしか手がないっちゅうねん!著者はSF小説でも有名だがこのシリーズはSFではありません。とにかくめっちゃオモロイことは請負ます!科学史としても立派な読み物です。 高校の教科書がこんな感じの出だしだったら、ワタシだって物理・化学嫌いにならずに済んだかも・・・???ちなみに上記グールド氏とふたりともユダヤ人とは偶然の偶然?

『私の戦争日記 インターネットでのよびかけ』 カタリーナ・ブガルスキー 日記エッセイ ★★★

 2000年秋くらいにNHKで再放送もされていたのですが、「空爆の下の対話、~インターネットが記録した戦争~」という番組のお話ですじゃ。ユーゴスラビアに住むカタリーナという21歳のセルビア人の女子大生がNATOのコソボ・ベオグラード空爆下でインターネット上に戦争日記というホームページを作りました。それに対して世界中から(英語圏だけでなく、中国、フランス、ドイツやアラブ諸国etc)空爆の最中さまざまなメール(25ヶ国、延べ5万人から)が送られて・・・・。というドキュメントの原本。

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政治・歴史図書一覧 [政治・歴史図書一覧]




                         各国別世界史 ・・・読書一覧 2006年6月まで。   
 


地域 国名 書名 著者 お奨め度

世界史 全般・図鑑

世界歴史地図 ピエール・ナケ ★★
世界の民族紛争 テロ事典 エコノミスト別冊 ★★★
世界現勢 1997~1999 平凡社 事典
第二次世界大戦後 戦争全史 韓国人2名 ★★★
ジェノサイド論 前田朗 ★★
戦争のプロパガンダ10の法則 アンヌ・モレリ
世界年鑑 ’98 事典
世界の国旗と国歌
世界の国旗-全図鑑- ★★
アトラス現代史 6 戦後世界 ブライアン・キャッチボール
法思想史 田中成明他 評価せず
ヨーロッパ政治ハンドブック 馬場康雄他 ★★
地図で知るヨーロッパ ★★
世界報道写真展 97~’04 写真
戦後50年 毎日新聞社 写真
1945年 20世紀の記憶(毎日新聞社) 写真
1968年 20世紀の記憶シリーズ 写真
第二次世界大戦1935-1945 20世紀の記憶シリーズ 写真
第三帝国の野望1920-1939 20世紀の記憶シリーズ 写真
HOLOCAUST 20世紀の記憶シリーズ 写真
世界危険情報大地図図鑑 恵谷治 ×
新しい世界史~子供たちはどう歴史を学んでいるのか~ マルク・フェロー ★★
<市販本>新しい歴史教科書 〈教科書を作る会〉 ×
中学社会〈歴史的分野〉 大阪書籍 ×
歴史のための弁明 マルク・ブロック ★★
東アジアの歴史教科書はどう書かれているか  中村哲 編著 ★★★
グローバリゼーションとはなにか ウェイン・エルウッド ★★★
変容する民主主義 A・マッグルー編著 ★★
歴史の影 アーナ・パリス

宗教 原典

新旧約聖書 ★★★★
旧約聖書 Ⅰ 創世記 評価対象外
旧約聖書 Ⅱ 出エジプト記・レビ記
旧約聖書 Ⅲ 民数記・申命記
旧約聖書 Ⅳ ヨシュア記・士師記
旧約聖書 Ⅴ サムエル記
旧約聖書 Ⅵ 列王記
旧約聖書 Ⅶ イザヤ書
旧約聖書 Ⅷ エレミヤ書
旧約聖書 Ⅸ エゼキエル書
旧約聖書 Ⅹ 十二小預言書
旧約聖書 ⅩⅠ 詩篇
旧約聖書 ⅩⅡ ヨブ記・箴言
旧約聖書 ⅩⅢ ルツ記・雅歌・コーヘレト記・哀歌・エステル記
旧約聖書 ⅩⅣ ダニエル記・エズラ記・ネヘミヤ記
旧約聖書 ⅩⅤ 歴代誌
旧約聖書外典(上・下) 評価対象外
ユダヤ教史 石田友雄
新約聖書 Ⅰ マタイによる福音書・マルコによる福音書
新約聖書Ⅱ ルカ文書
新約聖書Ⅲ ヨハネ文書
新約聖書Ⅳ パウロ書簡
新約聖書Ⅴ 公同書簡・ヨハネの黙示碌・パウロの名による書簡
ナグ・ハマディ文書Ⅱ 福音書
コーラン ★★★★
ヒンドゥー教と仏教 ★★
図説 世界の宗教と民族紛争 ひろ さちや
世界宗教史 1巻〈石器時代からエレウシス密儀まで〉 ミルチア・エリアーデ
世界宗教史 2巻〈ゴーダマ・ブッダからキリスト教興隆まで〉 ミルチア・エリアーデ
世界宗教史 3巻〈ムハマンドから宗教改革まで〉 ミルチア・エリアーデ
キリスト教史 Ⅰ 半田元夫・今野國雄 ★★★★★
原始キリスト教 マルセル・シモン ★★★
西洋教会 小嶋潤 ★★


ヨーロッパ

イギリス・アイルランド

北アイルランド紛争の歴史 堀越智 ★★★★
恐ろしい美が生まれている ユーリック・オコナー
I.R.A アイルランド共和国軍 鈴木良平 ★★★★
アイルランド民族のロマンと反逆 松尾太郎 ★★
アトラス現代史 4 イギリス ブライアン・キャッチボール
アイルランド史 労働と階級(上・下)
アイルランド紛争
ドイツ

ドイツ史 Ⅰ巻  (先史~1648) 木村靖二他 ★★
ドイツ史 Ⅱ巻  (1648~1890) 木村靖二他 ★★
ドイツ史 Ⅲ巻  (1890~現在) 木村靖二他 ★★
いま、なぜネオナチか? ベルント・ジーグラー ★★
ネオナチのドイツを読む 望田幸男 ★★
ドイツ問題と民族問題 大野英二 ★★★
統一ドイツの苦悩 田村光彰 ★★★
ニュールンベルグ裁判(上・下) ジュセフ・E・パシーコ ★★
ゾーリンゲンの悲劇 野中恵子
回想の第三帝国(上・下) アレクサンダー・シュタールベルク
白バラ抵抗運動の記録 クリスチャン・ペトリ ★★
ヒトラーの長き影 ウヴェ・リヒタ ★★★
ジプシー 小川悟 ★★
ヒトラー独裁下のジャーナリストたち N・フライ&J・シュミッツ ★★★★
ベルリン日記 ウィリアム・シャイラー ★★★★
ドイツを変えた68年運動  <シリーズ・ドイツ現代史 Ⅱ> 井関正久 ★
戦後ドイツのユダヤ人 <シリーズ・ドイツ現代史 Ⅲ>   武井彩佳  ★★★
ドイツの歴史教育 <シリーズ・ドイツ現代史 Ⅳ> 川喜田敦子  ★★
ヒトラーを読む3000冊 阿部良男 編 事典


フランス史 Ⅰ巻  (先史~15世紀) 柴田三千雄他 ★★★★
フランス史 Ⅱ巻  (16世紀~19世紀半ば) 柴田三千雄他 ★★★
フランス史 Ⅲ巻  (19世紀半ば~現在) 柴田三千雄他 ★★★
フランス現代史 河野健二 ★★
歓迎されない人々フランスのアラブ人 タハール・ベン・ジェルーン ★★
仏レジスタンスの真実 アルベール・シャボン ★★
サハラの砂・オーレスの石 * アステリア・ホーン ★★★
ドレーフェス事件 ピエール・ミケル ★★
ドレフュス家の一世紀 平野新介
パリ68年5月 江口幹 ★★
ホロコーストのフランス 渡辺和行 ★★
現代フランス アリック・G・ハーグリーヴス ★★
フランス植民地主義の歴史 平野千果子 ★★★

オーストリア

スイス・オーストリア現代史 田口晃他 ★★
オーストリア現代史の教訓 矢田俊隆 ★★★
「負の遺産」との取り組み W・ベルグマン&R・エルプ ×
オーストリア 統合、その夢と現実 東海大学国際平和研
狂王ルートヴィヒ ジャン・デ・カール
ルートヴィヒ 村田経和

北欧

北欧現代史 百瀬宏 ★★
ベネルクス3国 ベネルクス現代史 栗原福也 ★★

地中海

イタリア

イタリア現代史 重岡保郎 ★★
イタリア史 森田哲郎編 ★★
モロ事件 国家とテロ レオナルド・シャーシャ ★★

ギリシア

近代ギリシア史 C・M・ウッドハウス ★★★★
ルネッサンスと地中海(世界の歴史16) 樺山紘一 ×

イベリア半島

スペイン・ポルトガル

スペイン・ポルトガル現代史 斎藤孝 ★★
ポルトガルの歴史 デビッド・バーミンガム ★★★
イベリアへの道 伊高浩昭 ★★
バスク もう一つのスペイン 渡辺哲郎 ★★
スペイン革命 -全歴史- バーナード・ボロテン ★★★
スペイン静かなる革命 碇順治 ★★★
スペインのユダヤ人 エリー・ケドゥリー ★★
スペイン現代史 ラモン・タマメス他
カタロニア賛歌 ジョージ・オーウェル ★★
スペインのジプシー 近藤仁之 ★★
コルドバの殉教者たち K・B・ウルフ ★★
レコンキスタ D・W・ローマックス ★★
ファランヘ党 S・G・ペイン ★★
スペインにおける国家と地域 立石博高編 ★★★★
スペイン・ユダヤ民族史 近藤仁史 ×
現代スペインの歴史 碇順治

中東


西アジア ユダヤ史
 
中東軍事紛争史 Ⅰ巻(古代~1945) 鳥井順 ★★★★
中東軍事紛争史 Ⅱ巻(1945~1956) 鳥井順 ★★★★
中東軍事紛争史 Ⅲ巻(1956~1967) 鳥井順 ★★★
中東軍事紛争史 Ⅳ巻(1967~1973) 鳥井順 ★★
社会主義シオニズムとアラブ問題 森まり子 ★★★
ユダヤ人問題の史的展開 アブラム・レオン ★★★
ユダヤ人の歴史 マックス・デッモンド ★★
ユダヤ人問題の原型・ゲットー ルイス・ワース ★★★
図説 中東戦争 ハイム・ヘルツォーグ ★★
ユダヤ人の歴史 シーセル・ロス
東方ユダヤ人の歴史 ハイコ・ハウマン ★★
イェルサレムのアイヒマン ハンナ・アーレント ★★
中東アナリシス 板垣雄三 ★★
中東現代史 Ⅰ〈トルコ・イラン・アフガニスタン〉 永田雄三他 ★★
全体主義の起源1 ハンナ・アーレント
イスラエルの政治文化とシチズンシップ 奥山眞知 ★★
アラブ・イスラエル和平交渉 I.Z.アイゼンバーグ、N.キャプラン ★★

パレスチナ

パレスチナ問題 PLO研究センター ★★
パレスチナ人の歴史 デヴィッド・ギルモア
パレスチナとイスラエル ダヴィド・マクダワル ★★
「私の旅」パレスチナの歴史 ファドワ・トゥカーン ★★
パレスチナ報道官 わが大地への愛 ハナン・アシュラウィ ★★★★
パレスチナへ帰る エドワード・サイード ★★
パレスチナ民衆蜂起とイスラエル 小田原紀雄・村上盛忠編 ★★
パレスチナ分割 木村申二 ★★
イスラエルからの証言 フェリシア・ランゲル ★★

アラブ

イラン・イラク戦争 鳥井順 ★★
イスラーム文化 井筒俊彦 ★★
イスラーム再構築の思想 アリー・シャリ・アーティー ★★
シリアとレバノン 小山茂樹 ★★
イスラーム・ドゥルーズ派 宇野昌樹 ★★
イスラーム・パワー 中東調査委員会 ★★★
アフガン戦争 鳥井順 ★★
イスラム原理主義 デリップ・ヒロ ★★★
軍事分析 湾岸戦争 鳥井順
アラブから見た湾岸戦争 モハメド・ヘイカル
革命イランの教科書メディア 桜井啓子 ★★
アラブ社会主義の危機と変容 清水学編 ★★
トルコの歴史 三橋富士男
現代トルコの政治と外交 松谷浩尚 ★★★
クルド民族 S・C・ペレティエ ★★
クルディスタン多国籍間民族 イスマエル・ベシクチ ★★
イスラームと民主主義 ジョン・ボル他 ★★
第一次文明戦争 マフディ・エルマンジュラ ×
アラブが見た十字軍 アミン・マアルーフ
冷戦下・ソ連の対中東戦略* ガリア・ゴラン ★★
冷戦下・アメリカの対中東戦略* ジョージ・レンツォウスキー ★★
レバノンの歴史 P・K・ヒッティ ★★
レバノン侵略とイスラエル 国際民衆法廷83 ★★★★
レバノン・危機のモザイク国家 荒田茂夫 ★★
レバノン侵攻の長い夏 ハコボ・ティママン ★★
レバノン現代史 夏目高男 ★★★
現代アラビア フレッド・ハリデー ★★★
近代イスラームの挑戦
東アラブの歴史と政治 小串敏郎 ★★★
イラン現代史 加賀谷寛 ★★★
中東石油利権と政治リスク 海野巨利 ★★★★
ヨーロッパとイスラム 梶田孝道編 ★★★
パレスチナの政治文化 浜中新吾 ×
現代中東の国家と地方(Ⅰ) 伊能武次・松本弘編 ★★
現代中東の国家と地方(Ⅱ) 伊能武次・松本弘編 ★★★
現代中東とイスラーム政治 小杉泰 ★★
アサドの中東外交 夏目高男 ★★

中東欧

旧ユーゴ バルカン 
 
ユーゴ悲劇の深層 加藤雅彦 ★★★
ユーゴスラヴィアの崩壊 ミーシャ・グレニィー ★★
バルカン史 C&B・ジェラヴィッチ ★★★★
ユーゴスラヴィア史 スティーブン・クリソルド ★★★★
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史 R・ドーニャ&J・ファイン ★★
バルカン・ブルース ドゥブラヴカ・ウグレシィチ ★★
ユーゴスラヴィア 岩田昌征 ★★
ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 千田善 ★★★★
サラエボ観光案内 F.A.M.A編 ★★
モザイク国家ユーゴスラヴィアの悲劇 徳永彰作 ★★
解体ユーゴスラヴィア 山崎佳代子 ★★
多民族戦争の情報像 岩田昌征 ★★★
私の戦争日記 カタリーナ・ブガルスキー ★★★
アメリカの「人道的」軍事主義* ノーム・チョムスキー ★★
戦争広告代理店 高木彰 ★★★
クロアチア=セルビア社会史断章
チトー独自の道 ズボンコ・シタウブリンゲル
東欧各国

ハンガリー・チェコスロバキア現代史 矢田俊隆 ★★
東欧史 矢田俊隆編 ★★
ポーランド現代史 伊東孝之 ★★
ポーランド「連帯」消えた革命 水谷駆 ★★
アルバニア現代史 中津孝司 ×
新生アルバニアの混乱と再生 中津孝司 ×
東欧革命 Ⅰ〈チェコスロバキア・東欧のエコロジー〉 東欧革命編集委員会 ★★★
東欧革命 Ⅱ〈ハンガリー・民族問題・ブルガリア〉 東欧革命編集委員会 ★★★
旧東欧世界 プレドラグ・マトヴェイェーヴィチ ★★
過去と闘う国々 T・ローゼンバーグ ★★
ルーマニア史 ジョルジュ・カステラン ★★
ルーマニア・二つの革命 シルビュ・ブルカン
立ったまま埋めてくれ イザベル・フォンセーカ ★★
ジプシー ジュール・ブロック ★★
ジプシーの歴史 デーヴィッド・クローウェ ★★
現代東欧史 ジョセフ・ロスチャイルド
異端の宗派ボゴミール
冷戦期のハンガリー外交 萩野晃

CIS ソビエト

ソ連現代史 Ⅰ巻〈ヨーロッパ地域〉 倉持俊一他 ★★
ソ連現代史 Ⅱ巻〈中央アジア・シベリア〉 倉持俊一他 ★★
七人の首領(上・下) ドミトリー・ヴォルゴーノフ ×
ロシア・ナショナリズムと隠されていた諸民族 N・デューク&E・カラトニツキー ★★
冷戦下・ソ連の対中東戦略* ガリア・ゴラン ★★
ソ連崩壊 1991 石郷岡健 ★★★
葛藤の一世紀 ロシアユダヤ人の運命 ツヴィ・ギテルマン ★★
さまざまな生の断片 ジャック・ロッシ ★★
収容所群島 Ⅰ A・ソルジェニーツィン ★★
ソ連邦・民族と言語問題の全史

アフリカ 全般

アフリカ現代史 Ⅰ巻〈南部アフリカ〉 小田哲郎他 ★★★★
アフリカ現代史 Ⅱ巻〈東アフリカ〉 小田哲郎他 ★★★
アフリカ現代史 Ⅲ巻〈中部アフリカ〉 小田哲郎他 ★★★★
アフリカ現代史 Ⅳ巻〈西アフリカ〉 小田哲郎他 ★★★
アフリカ現代史 Ⅴ巻〈北アフリカ〉 小田哲郎他 ★★★
アフリカ 小田哲郎編 ★★
現代アフリカの悲劇 片山正人 ×
現代アフリカの紛争 武内進一編 ★★★
現代アフリカの民族関係 和田正平編著 ★★★★
マグレブ諸国 エジプトの現代政治 伊能武次 ★★
帰郷ノート・植民地主義論 エメ・セゼール ★★★★
サハラの砂・オーレスの石 * アステリア・ホーン ★★★
嵐の中のアルジェリア ファン・ティゴソーロ
アルジェリア危機の10年 渡辺伸 ★★
アルジェリアのためのもうひとつの声 ルイザ・ハヌン ★★★
西アフリカ ビアフラ物語 フレデリック・フォーサイス
ビアフラ戦争 室井義雄
東アフリカ エチオピアの歴史 岡倉登志
スーダン 富田正史 ★★
南アフリカ アンゴラ内戦と国際政治の力学 青木一能 ★★
南アフリカの歴史 レナード・トンプソン ★★
南部アフリカ諸国の民主化 林晃史編 ★★★
南部アフリカ民主化後の課題 林晃史編 ★★★
ゲバラ日記 エルネスト・チェ・ゲバラ ★★★
ゲバラ コンゴ戦記 F・エスコバル編 ★★
ジンバブエの政治力学 井上一明 ★★

北米 アメリカ

表現の自由を求めて 奥平康弘 ★★★★
ベトナム戦争全史* ガブリエル・コルコ ★★★
マクナマラ回顧録* ロバート・S・マクナマラ
宗教に揺れるアメリカ 蓮見博昭 ★★
冷戦下・アメリカの対中東戦略* ジョージ・レンツォウスキー ★★
アメリカの「人道的」軍事主義* ノーム・チョムスキー ★★
アメリカが本当に望んでいること ノーム・チョムスキー ★★
アメリカ市民の法律入門 ジェイ・M・ファインマン ★★★
嘘つき大統領のデタラメ経済 ポール・クルーグマン ★★

中南米 全般

ラテンアメリカ現代 Ⅰ巻〈ブラジル〉 中川文雄他 ★★
ラテンアメリカ現代 Ⅱ巻〈アンデス・ラプラタ地域〉 中川文雄他 ★★
ラテンアメリカ研究への招待 中川文雄編 ★★
地中海からカリブ海へ 加茂雄三 ★★
ラテンアメリカ史 Ⅰ〈メキシコ・中央アメリカ・カリブ海〉 増田義郎他 ★★
ラテンアメリカ 加茂雄三他 ★★
変動するラテンアメリカ社会 グスタボ・アンドラーデ ★★
宗教と政治変動 ラテンアメリカのキリスト教 乗浩子 ★★★★
中米ゲリラ戦争 滝本道生 ★★
カリブからの問い 浜忠雄
ラテンアメリカ変革の歴史 巣山靖司
現代ラテンアメリカ思想の先駆者たち レオポルド・セア

メキシコ

エル・チチョンの怒り 清水透 ★★
概説メキシコ史 国本伊代ほか ★★
メキシコ現代史 鈴木康久

キューバ

キューバ革命 加茂雄三編 ★★★
チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行 エルネスト・チェ・ゲバラ ★★★
トラベリング・ウィズ・ゲバラ アルベルト・グラナード ★★
エルネスト・チェ・ゲバラ伝(上・下) パコ・イグナシオ・タイボⅡ ★★
チェ・ゲバラ AMERICA放浪書簡集 エルネスト・ゲバラ・リンチ編
チェ・ゲバラ 第2回AMERICA放浪日記 エルネスト・チェ・ゲバラ
チェ・ゲバラの声 革命戦争の日々・ボリビア日記 エルネスト・チェ・ゲバラ
カストロ レイセスター・コルトマン

ニカラグア

サンディーノ戦記 高橋均 ★★
革命のニカラグア A・ヒーリー&S・ラミレス ★★★

グァテマラ

グァテマラ現代史 近藤敦子 ★★★
勇気の架け橋 虐殺の記録 ジェニファー・ハーバリー ★★★
グァテマラ虐殺の記憶 プロシェクト委員会編 ★★

コロンビア

コロンビア内戦 伊高浩昭

チリ

チリの民主化 吉田秀穂 ★★★
アジェンデの実験 バート・モス

東南アジア

インド・パキスタン
 
南アジア現代史 Ⅰ〈インド〉 ★★
南アジア現代史 Ⅱ〈パキスタン・バングラディッシュ〉 ★★
古代インド社会と文明 山崎元一 ★★★
不可触民とカースト制度の歴史 小谷汪之 ★★★
インド現代政治史 堀本武功 ★★
インド民主政治の転換 ラジニ・コタリ ★★
ネール=ガンジー王朝の崩壊 マーク・タリー&サティッシュ・ジェイコブ ★★★
パキスタン独立 アイーシャ・ジャラール ★★★
ベトナム ベトナム戦争全史* ガブリエル・コルコ ★★★
マクナマラ回顧録* ロバート・S・マクナマラ
 
インドネシア
 
東南アジア現代史Ⅰ〈インドネシア〉
 
フィリピン・マレーシア・シンガポール
 
東南アジア現代史Ⅱ〈フィリピン・マレーシア・シンガポール〉
 
ベトナム・カンボジア・ラオス
 
東南アジア現代史Ⅲ〈ヴェトナム・カンボジア・ラオス〉
 
ビルマ・タイ
 
東南アジア現代史Ⅳ〈ビルマ・タイ〉
 
日本
 
日本がアルゼンチンタンゴを踊る日 ベンジャミン・フルフォード ★★★
泥棒国家の完成 ベンジャミン・フルフォード
ヤクザ・リセッション ベンジャミン・フルフォード

ファシズム 思想

ファシズム 山口定 ★★★★
ファシズム -昨日・今日・明日- ワルター・ラカー ★★

マルクス主義 思想

マルクス以後のマルクス主義 ピエール&モニク・ファーブル ★★★★
資本論(上)マルクス・コレクション カール・マルクス ★★★★
資本論(下)マルクス・コレクション カール・マルクス ★★★★
ネグリ生政治的自伝 アントニオ・ネグリ

その他 思想

奴隷の国家 ヒレア・ベレック ★★
アイアンマウンテン報告書 レナード・C・リュイン

アウシュヴィッツ 記憶と記録

アウシュヴィッツは終わらない プリーモ・レーヴィ ★★★★★
休戦 プリーモ・レーヴィ ★★
溺れる者と救われる者 プリーモ・レーヴィ ★★
今でなければいつ プリーモ・レーヴィ ★★
周期律 プリーモ・レーヴィ ★★
プリーモ・レーヴィは語る プリーモ・レーヴィ ★★
断片 B・ヴィルコミルスキー ★★★
ワルシャワ・ゲットー日記(上・下) ハイム・A・カプラン ★★
生きつづける ルート・クリューガー ★★★★
アウシュヴィッツの子供たち アルヴィン・マイヤー
なんと美しい日曜日(Ⅰ・Ⅱ) ホルヘ・センプルン ★★
ブーヘンヴァルトの日曜日 ホルヘ・センプルン
人類 ロベール・アンテルム
昨日の世界(Ⅰ・Ⅱ) シュテファン・ツヴァイク ★★★★
エリ・ヴィーゼル ★★
罪と罰の彼岸 ジャン・アメリー ★★★
焚かれた詩人たち ユルゲン・ゼルゲ ★★★★
アウシュヴィッツと知識人 E・トラヴェルソ ★★★
ユダヤ人とドイツ E・トラヴェルソ ★★
マルクス主義者とユダヤ問題 E・トラヴェルソ ★★
ドイツ精神医学の歴史 小俣和一郎 ★★
アンネの日記 アンネ・フランク ★★


古代史・考古学

エジプト

世界歴史講座 Ⅰ〈古代史Ⅰ〉 岩波書店 ★★★
エジプト文化入門 E・オットー ★★
ネフェルティティ P・ファンデンベルグ ★★
古代エジプトの性 リーセ・マニケ
古代エジプト 笈川博一
古代エジプト J・ヴェルクテール
古代エジプト女王伝 吉村作治 ×
古代エジプトの魔術 ウォーリス・バッジ
神と墓の古代史 C・W・ツェーラム ×
古代エジプト美術手帳 松本弥 ★★
古代エジプト文字手帳 松本弥
古代エジプト美術 世界美術大全集 8 図鑑
ファラオの秘薬 リズ・マニカ(リーセ・マニケ)
古代エジプト人 ロザリー・ディヴィッド ★★
失われた文字の解読(全3巻) ドーブル・ホーファー ★★
古代アフリカ王国 マーガレット・シニー ★★
古代のエジプト 朝倉書店 事典
古代エジプト美術 図鑑
古代エジプト ファラオ歴代史
 
神話伝承
 
オリエント神話 古代オリエント集 筑摩世界文学大系 ★★★★★
エジプトの神々 フランソワ・ドマ ★★
エジプトの神々 J・チェルニー ★★
エジプト神イシスとオシリスの伝説について プルタコス

ギリシア神話

ギリシア悲劇全集(全4巻)アイスキュロス/ソホクレス/エウリピデス ★★★★★
ギリシア悲劇全集・断片(10~13巻) 群小詩人 ★★
ギリシア喜劇全集(全2巻) アリストファネス ★★★
サッフォー その人と作品 サッフォー ★★★
ピエリアの薔薇 拾遺詩篇 ★★
ムーサイの谷の蜜の泉から 拾遺詩篇 ★★
四つのギリシア神話 ホメロス ★★
イーリアス ホメロス ★★★
オデュッセイア ホメロス ★★★
ギリシア神話 アポロドーロス ★★★
古代のギリシア 朝倉書店 事典
仕事と日々 ヘシオドス ★★
神統記 ヘシオドス ★★
ギリシア笑話集 フィゲロス

ローマ史・神話

ローマ帝国衰亡史 Ⅰ&Ⅱ ギボン ★★★
ローマ十二皇帝伝(上・下) スエトニウス ★★
転身物語 オウィディゥス ★★★★
悲しみの歌/黒海からの手紙 オウィディゥス ★★★
祭歴 オウィディゥス ★★
アナバシス クセノポン ★★
夢判断の書 アルテミドス ★★
英雄伝 ネポス
黄金のろば(上・下) アプレイウス ★★
歌章 ホラティウス ★★
アエネイアス(上・下) ヴェルギリウス ★★★★
牧歌・農耕詩 ヴェルギリウス ★★
ローマ皇帝歴代史
ローマ教皇歴代史
トロイア戦記 クイントゥス ★★
ディクテュスとダーレスのトロイア戦争物語 ディクテュス、ダーレス ★★★
アルゴナウティカ アポロニウス ★★

その他神話

インカ・ペルーの神話 H・オズボーン ★★
北欧の神話 エリス・デヴィッドソン ★★
エッダ ★★★
アフリカの神話 ジェフリー・バリンダー ★★
マヤ・アステカの神話 アイリーン・ニコルソン ★★
マヤ神話 チラム・バラムの予言 ル・クレジオ ★★★
マヤとインカ 世界の大遺跡 13 図鑑
ケルトの神話 プロインシャス・マッカーナ ★★
ケルト幻想物語 ウィリアム・B・イェイツ ★★
ケルトの薄明 ウィリアム・B・イェイツ ★★
ケルト妖精物語 ウィリアム・B・イェイツ ★★
オリエント神話
ペルシア神話
アメリカ・インディアン神話
アメリカ・インディアンHowブック
アボリジニー神話
中世・ルネッサンス 神話

失楽園 ジョン・ミルトン ★★★
楽園の回復・闘技士サムソン ジョン・ミルトン ★★
神曲 ダンテ ★★★
ニーベルンゲンの歌(上・下) ★★★
奇書 象徴哲学体系(全4巻) マンリー・P・ホール ×
ヘルメス文書 ★★★
ヘルメス叢書(全7巻) ニコラ・フラメル他
高等魔術の教理と祭儀 エリファス・レヴィ ×

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文芸(フランス)図書・・・読書一覧 [文芸図書一覧]

      

              文芸(フランス)図書・・・読書一覧 2006年6月まで。   


※末尾に挙げた〈神話伝承文学〉や〈社会・思想〉の一部については『歴史図書一覧』のうち文芸作品と見なしたものについてだぶります。多少の漏れはあると思われます。

著者 タイトル 主な収録作品 装丁

文芸/フランス

ステファヌ・マラルメ
 
マラルメ全集Ⅰ 詩・散文  貼箱入  ... ※2011年3月 
マラルメ全集Ⅱ ヴァガシオン 貼箱入
マラルメ全集Ⅲ 言語・書物・最新流行 貼箱入
マラルメ全集Ⅳ 書簡Ⅰ 貼箱入
マラルメ全集Ⅴ 書簡Ⅱ 貼箱入
骰子一擲 単行本
イジチュールまたはエルベノンの狂気 単行本
マラルメ・ヴェルレーヌ・ランボー 筑摩世界文学大系48 箱入
マラルメ詩集 文庫
マラルメ・ヴァレリー詩集 世界詩人全集10 箱入
マラルメ詩集 昭森社 箱入
マラルメ詩集 フランス詩人選 ほるぷ出版 箱入
ユリイカ増刊〈ステファヌ・マラルメ特集〉 雑誌
Stephane Mallarme Poesies Euvres Completes 1 仏語原典
関連評論
ジャン・ポール・サルトル マラルメ論 単行本
ポール・ヴァレリー ヴァレリー全集Ⅶ マラルメ論考 貼箱入
モーリス・ブランショ マラルメ論 単行本
菅野昭正 ステファヌ・マラルメ 貼箱入
野内良三 マラルメ序説 箱入
ジャン=リュック・ナンシー マラルメ伝 単行本
リラダン=マラルメ往復書簡集* 貼箱入

アントナン・アルトー

アントナン・アルトー著作集Ⅰ 演劇とその分身 単行本
アントナン・アルトー著作集Ⅱ ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト 単行本
アントナン・アルトー著作集Ⅲ 貝殻と牧師 単行本
アントナン・アルトー著作集Ⅳ 革命のメッセージ 単行本
アントナン・アルトー著作集Ⅴ ロデーズからの手紙 単行本
神経の秤・冥府の臍 アントナン・アルトー全集Ⅰ 単行本
思考の腐食について 単行本
ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト 小説のシュルレアリスム 箱入
演劇とその形而上学 箱入
ブルトンへの手紙 変形
タラユマラ 変形
神の裁きと訣別するために 箱入
ヴァン・ゴッホ 単行本
夜想〈アルトー特集〉 雑誌
肉体言語〈アントナン・アルトー特集〉 雑誌
ユリイカ88/2〈アントナン・アルトー特集〉 雑誌
ユリイカ96/12〈アントナン・アルトー特集〉 雑誌
アルトー/デリダ デッサンと肖像 貼箱入
関連評論
J・ルイ・ブロー アントナン・アルトー 単行本
スティーブン・バーバー アントナン・アルトー伝 単行本
森島章仁 アントナン・アルトーと精神分析 単行本
スーザン・ソンタグ アントナン・アルトー論 単行本

ジェラール・ド・ネルヴァル

ネルヴァル全集Ⅰ*旧版 詩篇 貼箱入
ネルヴァル全集Ⅱ*旧版 火の娘たち・カリフ・ハケムの物語他 貼箱入
ネルヴァル全集Ⅲ*旧版 オーレリア他・書簡(抄) 貼箱入
ネルヴァル全集Ⅰ〈文壇への登場〉 初期詩篇・書簡 貼箱入
ネルヴァル全集Ⅱ〈歴史への旅〉 レオ・ビュカール・ファイユール侯爵・書簡 貼箱入
ネルヴァル全集Ⅲ〈東方の幻〉 東方紀行・書簡 貼箱入
ネルヴァル全集Ⅳ〈幻想と綺想〉 幻視者・書簡 貼箱入
ネルヴァル全集Ⅴ〈土地の精霊〉 幻想詩篇・ローレライ・火の娘たち・書簡 貼箱入
ネルヴァル全集Ⅵ〈夢と狂気〉 パンドラ・サンジェルマン伯爵・オーレリア・散策と回想・書簡 貼箱入
東方の旅(上・下) 世界幻想文学大系31a・31b 貼箱入
幻視者(上・下) 単行本
ローレライ 単行本
阿呆の王 単行本
カイエ〈ネルヴァル特集〉 雑誌
関連評論
ピエール・ガスカール ネルヴァルとその時代 単行本
レーモン・ジャン ネルヴァル 単行本

ジョルジュ・バタイユ

文学と悪 単行本
聖なる神 バタイユ著作集 貼箱入
聖なる神-無削除版- バタイユ著作集 貼箱入
言葉とエロス バタイユ著作集 貼箱入
ラスコーの壁画 バタイユ著作集 貼箱入
ジル・ド・レ論 バタイユ著作集 貼箱入
遺稿 聖女たち 単行本
エロティシズム バタイユ著作集 貼箱入
宗教の論理 単行本
眼球章 バタイユ著作集 貼箱入
眼球章〈初稿〉 貼箱入
無神学大全 内的体験 単行本
淫らの塔 単行本
C神父 バタイユ著作集 貼箱入
大天使のように 貼箱入
不可能なもの バタイユ著作集 貼箱入
死者・空の青み バタイユ著作集 貼箱入
詩と聖性 バタイユ著作集
ドキュマン バタイユ著作集
無頭人 アセファル バタイユ著作集
エロスの涙 単行本
ユリイカ86/2〈ジョルジュ・バタイユ特集〉 雑誌
ユリイカ97/7〈バタイユ特集〉 雑誌
関連評論
ロール バタイユの黒い天使 単行本
ミッシェル・シュリア G・バタイユ伝(上・下) 単行本

シャルル・ボードレール

ボードレール全集Ⅰ*旧版 悪の華・パリの憂愁 箱入
ボードレール全集Ⅱ*旧版 人口天国他 箱入
ボードレール全集Ⅰ 悪の華・パリの憂愁 貼箱入
ボードレール全集Ⅱ 文芸批評 貼箱入
ボードレール全集Ⅲ 美術批評(上) 貼箱入
ボードレール全集Ⅳ 美術批評(下)・散文詩 貼箱入
ボードレール全集Ⅴ 人口天国・小説他 貼箱入
ボードレール全集Ⅵ 内面の日記・書簡 貼箱入

ヴェリエ・ド・リラダン

ヴェリエ・ド・リラダン全集Ⅰ 残酷物語・新残酷物語・他 貼箱入
ヴェリエ・ド・リラダン全集Ⅱ 未来のイブ・至上の愛・他 貼箱入
ヴェリエ・ド・リラダン全集Ⅲ アクセル・彼岸世界の話・他 貼箱入
ヴェリエ・ド・リラダン全集Ⅳ 奇談集・エレン・他 貼箱入
ヴェリエ・ド・リラダン全集Ⅴ イシス・処女詩集・他 貼箱入
リラダン=マラルメ往復書簡集* 貼箱入

アンドレ・ブルトン

ブルトン集成1 ナジャ・通底器 貼箱入
ブルトン集成3 詩篇Ⅰ 貼箱入
ブルトン集成4 詩篇Ⅱ 貼箱入
ブルトン集成6 失われた足跡・黎明 貼箱入
秘法十七番 単行本
狂気の愛 単行本
関連評論
ジュリアン・グラック アンドレ・ブルトン
アルベール・カミュ

最初の人間 単行本
カミュの手帖(全) 貼箱入
カミュ全集1 アストゥリアスの反乱・裏と表・結婚 貼箱入
カミュ全集2 異邦人・シューシポスの神話 貼箱入
カミュ全集3 カリギュラ・誤解・ドイツ人の友人への手紙 貼箱入
カミュ全集4 ペスト 貼箱入
カミュ全集5 戒厳令・正義の人々 貼箱入
カミュ全集6 反抗的人間 貼箱入
カミュ全集7 十字架への献身・精霊たち・夏 貼箱入
カミュ全集8 ある臨床例・転落 貼箱入
カミュ全集9 尼僧への鎮魂歌・オルメドの騎士・ギロチン 貼箱入
カミュ全集10 追放と王国・悪霊 貼箱入
カミュ=グルニエ往復書簡 貼箱入
幸福な死 単行本
カリギュラ・誤解 文庫
転落・追放と王国 文庫
幸福な死 文庫
シーシュポスの神話 文庫
ペスト 文庫
異邦人 文庫
関連評論
オリヴィエ・トッド アルベール・カミュ ≪ある一生≫(上・下) 単行本

ジュリアン・グラッグ

異国の女に捧げる散文 単行本
アルゴールの城 小説のシュルレアリスム 貼箱入
森のバルコニー/狭い水路 単行本
シルトの岸辺 単行本
半島 単行本
大いなる自由 単行本
ひとつの町のかたち 単行本
アンドレ・ブルトン 単行本
関連評論
現代詩手帖〈特集ジュリアン・グラック〉 雑誌

アルチュール・ランボー

ランボー全集(青土社) 貼箱入
ランボー全作品集 貼箱入
地獄の季節 文庫
マラルメ・ヴェルレーヌ・ランボー 筑摩世界文学大系48 貼箱入

ロートレアモン

ロートレアモン全集 貼箱入

アンリ・ミショー

アンリ・ミショー全集Ⅰ わが領土・夜動く・他 貼箱入
アンリ・ミショー全集Ⅱ 閂に向き合って・様々の瞬間・他 貼箱入
アンリ・ミショー全集Ⅲ エクアドル・グランド・ガラバーニュの旅・他 貼箱入
アンリ・ミショー全集Ⅳ みじめな奇蹟・深淵による認識・他 貼箱入

ギョーム・アポリネール

アポリネール全集Ⅰ 詩篇 貼箱入
アポリネール全集Ⅱ 腐ってゆく魔術師・虐殺された詩人・他 貼箱入
アポリネール全集Ⅲ 若きドン・ジュアンの手柄噺・ティレシアスの乳房・他 貼箱入
虐殺された詩人 小説のシュルレアリスム 貼箱入

アルフレッド・ジャリ

フォーストロール博士言行録 フランス世紀末叢書⑥ 貼箱入
ジャリ詩集 単行本
馬的思考 文庫
ユビュ王 単行本
超男性 小説のシュルレアリスム 箱入

テオフィル・ゴーチェ

スピリット 貼箱入
ゴーチェ幻想作品集 貼箱入
ミイラ物語 幻想文学大系7 貼箱入
斎藤磯雄著作集Ⅲ〈翻訳詩〉 〈七宝とカメオ〉 貼箱入

ペトリュス・ボレル

狂想賦 単行本
シャンパヴェール 貼箱入
解剖学者ドン・ベサリウス 貼箱入

ポール・エリュアール

愛 -後期恋愛詩集- 貼箱入
   ~マックス・エルンスト共作 神々の不幸 単行本
 
マックス・エルンスト
 
百頭女 貼箱入
慈善週間 貼箱入
カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢 貼箱入
~ポール・エリュアール共作 神々の不幸 単行本


ギュスターブ・フロベール

フロベール全集Ⅰ ボヴァリー夫人 貼箱入
フロベール全集Ⅱ サラムボー 貼箱入
フロベール全集Ⅲ 感情教育 貼箱入
フロベール全集Ⅳ 聖アントワーヌの誘惑・三つの物語他 貼箱入
フロベール全集Ⅴ プヴァールとペキュシュ・紋切り型辞典 貼箱入
フロベール全集Ⅵ 初期作品Ⅰ 貼箱入
フロベール全集Ⅶ 初期作品Ⅱ 貼箱入
フロベール全集Ⅷ 書簡Ⅰ 貼箱入
フロベール全集Ⅸ 書簡Ⅱ 貼箱入
フロベール全集Ⅹ 書簡Ⅲ 貼箱入
フロベール全集・別巻 フロベール研究 貼箱入
フロベール 新潮世界文学全集
ボヴァリー夫人・感情教育・他 貼箱入
ボヴァリー夫人(上・下) 文庫

プロスペル・メリメ

メリメ全集2 小説② 貼箱入
カルメン 文庫
コロンバ 文庫
エトルリヤの壷 文庫

ポール・ヴェルレーヌ

フランドル遊記/ヴェルレーヌ詩集 金子光晴篇訳・著 貼箱入
マラルメ・ヴェルレーヌ・ランボー 筑摩世界文学大系48 貼箱入

ピエール・ルイス

ピエール・ルイス作品集1 ビリティスの唄 貼箱入
ピエール・ルイス作品集3 女と人形 貼箱入
ピエール・ルイス作品集5 紅殻絵 貼箱入
妖精たちの黄昏 単行本

ポール・ヴァレリー

ヴァレリー全集Ⅰ 詩集 貼箱入
ヴァレリー全集Ⅶ マラルメ論考 貼箱入
マラルメ・ヴァレリー詩集 世界詩人全集10 箱入

ジャン・コクトー

ジャン・コクトー全集Ⅱ 貼箱入
ジャン・コクトー全集Ⅳ 評論 貼箱入
ジャン・コクトー全集Ⅶ 戯曲 貼箱入

ジャン・ポール・サルトル

マラルメ論 単行本
嘔吐 単行本

マルセル・プルースト

失われた時を求めて1 スワンの涙 貼箱入
失われた時を求めて2 花咲く乙女たち 貼箱入
失われた時を求めて3 グルマント公爵夫人 貼箱入
失われた時を求めて4 ソドムとゴモラ 貼箱入
失われた時を求めて5 囚われの女 貼箱入
失われた時を求めて6 消え去ったアルベルチーヌ 貼箱入
失われた時を求めて7 見出された時 貼箱入
関連評論
ジャック・リヴィエール フロイトとプルースト  単行本

アンドレ・P・マンディアルグ

黒い美術館 単行本
みだらな扉 単行本
ビアズレーの墓 変形
満潮 変形
一九一四年の夜 変形貼箱
海の百合 単行本
オートバイ 単行本
大理石 単行本
余白の街 単行本
城の中のイギリス 雑誌
狼の太陽 マンディアルグ短編集 箱入
黒い美術館 マンディアルグ短編集 箱入
燠火 マンディアルグ短編集 箱入
関連評論
夜想〈アンドレ・P・マンディアルグ特集〉 雑誌
ユリイカ〈マンディアルグ特集〉 雑誌

J・カール・ユイスマンス

黒ミサ異聞 単行本
さかしま 貼箱入
彼方 文庫


レーモン・クノー はまむぎ 小説のシュルレアリスム 箱入
アロイジウス・ベルトラン 夜のガスパール 貼箱入
エメ・セゼール 帰郷ノート・植民地主義論 単行本
マルセル・シュオブ 黄金仮面の王 フランス世紀末叢書② 貼箱入
ピエール・ガスカール ピエールガスカール作品集 貼箱入
ネルヴァルとその時代 単行本
オクターブ・ミルボー 責苦の庭 フランス世紀末叢書⑤ 貼箱入
ジョルジュ・ロダンバック 死都ブリュージュ/霧の紡車 フランス世紀末叢書⑧ 貼箱入
ジャン・ロラン 仮面物語集 フランス世紀末叢書⑦ 貼箱入
ルイ・アラゴン アニセまたはパノラマ 小説のシュルレアリスム 貼箱入
夢の波・イレーヌのコン 単行本
ジャン・ジュネ ジャン・ジュネ全集Ⅰ 葬儀・他 貼箱入
マルキ・ド・サド ガンジュ侯爵夫人 貼箱入
関連評論
J・J・ボーヴェール サド侯爵の生涯1 単行本
ロマン・ギャリ 白い犬 文庫

作品集
ヴェラーレン、グルーモン、レニエ他 詞華集 フランス世紀末叢書⑬ 貼箱入
ネルヴァル、マラルメ他 シテールの旅 単行本
メーテルランク、アルベール・サマン他 室内・ポリフェーム フランス世紀末叢書⑫ 貼箱入
エリュアール他 夜想13〈シュルレアリスム〉 雑誌
詩選 ミラボー橋の下をセーヌが流れ
詩選 フランス詩の散歩道
文藝評論 フィリップ・ジュリアン 世紀末の夢 単行本
シュールレアリスムの詩・読本Ⅰ 雑誌
シュールレアリスムの思想・読本Ⅲ 雑誌
シュールレアリスムの資料・読本Ⅳ 雑誌
ユリイカ別冊〈ダダ・シュルレアリスム〉 雑誌
ユリイカ別冊〈シュルレアリスム〉 雑誌
ユリイカ〈デカダンス〉 雑誌




※取り敢えずわたしが2006年6月までに読んだ本のうち少年期に読んだミステリーやSF、映画の原作本などの海外娯楽小説を除く、
ほぼすべてを列記しました。別項『歴史図書一覧』と併せてご覧ください。(なお、どうしても分類不可能なものは一部省きました。)

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文芸(独・英米・伊・西・その他)精神病理学・自然科学etc図書・・・読書一覧 [文芸図書一覧]

 
 
 
 
文芸(独・英米・伊・西・その他)精神病理学・自然科学etc図書・・・読書一覧 2006年6月まで 

※末尾に挙げた〈神話伝承文学〉や〈社会・思想〉の一部については『歴史図書一覧』のうち文芸作品と見なしたものについてだぶります。多少の漏れはあると思います。


著者 タイトル 主な収録作品 装丁

文芸/ドイツ語圏(ドイツ・オートスリア・チェコ・スロバキア)

フランツ・カフカ
 
カフカ全集Ⅰ*旧版 箱入
カフカ全集Ⅱ*旧版 審判・アメリカ 箱入
カフカ全集Ⅲ*旧版 変身・流刑地にて・支那の長城他 箱入
カフカ全集Ⅳ*旧版 田舎の婚礼準備・父への手紙 箱入
カフカ全集Ⅴ*旧版 ミレナへの手紙 箱入
カフカ全集Ⅰ 変身・流刑地にて 貼箱入
カフカ全集Ⅱ ある戦いの記録・シナの長城 貼箱入
カフカ全集Ⅲ 田舎の婚礼準備・父への手紙 貼箱入
カフカ全集Ⅳ アメリカ 貼箱入
カフカ全集Ⅴ 審判 貼箱入
カフカ全集Ⅵ 貼箱入
カフカ全集Ⅶ 日記 貼箱入
カフカ全集Ⅷ ミレナへの手紙 貼箱入
カフカ全集Ⅸ 手紙1902-1924 貼箱入
カフカ全集Ⅹ フェリーツェへの手紙(上) 貼箱入
カフカ全集ⅩⅠ フェリーツェへの手紙(下) 貼箱入
カフカ全集ⅩⅡ オットラと家族への手紙 貼箱入
カフカ小説全集1 失踪者 単行本
カフカ小説全集2 審判 単行本
カフカ小説全集3 単行本
カフカ小説全集4 変身・他 単行本
カフカ小説全集5 万里の長城ほか 単行本
カフカ小説全集6 掟の問題ほか 単行本
実存と人生 単行本
変身 文庫
審判 文庫
文庫
アメリカ 文庫
ある流刑地の話 文庫
カフカ最後の手紙 単行本
関連評論 グスタフ・ヤノーホ カフカとの対話 単行本
ハンスゲルト・コッホ 回想のなかのカフカ 単行本
アンソニー・ノーシー カフカ家の人々 単行本
エルンスト・パーヴェル フランツ・カフカの生涯 単行本
 
ハンス・ヘニー・ヤーン
 
木造船 岸辺なき流れ 第一部 単行本
十三の不気味な物語 単行本
鉛の夜 単行本
 
トーマス・マン
 
トーマス・マン全集Ⅰ ブデンブローグ家の人々 貼箱入
トーマス・マン全集Ⅱ 大公殿下・ワイマルのロッテ 貼箱入
トーマス・マン全集Ⅲ 魔の山 貼箱入
トーマス・マン全集Ⅳ ヨゼフとその兄弟たちⅠ 貼箱入
トーマス・マン全集Ⅴ ヨゼフとその兄弟たちⅡ 貼箱入
トーマス・マン全集Ⅵ ファウストス博士 貼箱入
トーマス・マン全集Ⅶ 選ばれし人/詐欺師フェリークス・クルルの告白 貼箱入
トーマス・マン全集Ⅷ 短編/戯曲/詩 貼箱入
トーマス・マン全集Ⅸ 評論Ⅰ 貼箱入
トーマス・マン全集Ⅹ 評論Ⅱ 貼箱入
トーマス・マン全集ⅩⅠ 評論Ⅲ 貼箱入
トーマス・マン全集ⅩⅡ 書簡 貼箱入
トーマス・マン全集・別巻 トーマス・マン研究 貼箱入
ヴェニスに死す 文庫
 
パウル・ツェラン
 
閾から閾へ 単行本
ことばの格子 単行本
誰のでもないものの薔薇 単行本
絲の太陽たち 単行本
パウル・ツェラン初期詩篇集成 単行本
ツェラン=ザックス往復書簡 単行本
関連評論
ユリイカ〈パウル・ツェラン特集〉 雑誌
 
ゲーテ
 
ゲーテ全集2 ファウストス博士 貼箱入
 
ニーチェ
 
ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ 貼箱入
ニーチェ全集16 書簡Ⅱ・詩集 貼箱入
 
T・A・ホフマン
 
ホフマン全集3 夜景作品集 貼箱入
ホフマン全集8 ちびのツァッヒュス・ブラムビルラ王女 貼箱入
 
A・フォン・アルニム
 
エジプトのイサベラ 世界幻想文学大系4 貼箱入
 
グスタフ・マイリンク
 
ゴーレム 単行本
 
リヒャルト・ワグナー
 
ラインの黄金 ニーベルンゲン)の指輪 単行本
ワルキューレ ニーベルンゲン)の指輪 単行本
ジークフリート ニーベルンゲン)の指輪 単行本
神々の黄昏 ニーベルンゲン)の指輪 単行本
ローエングリーン 単行本
 
パラルト・シュテンプケ
 
鼻行類 単行本
 
その他
初版 グリム童話集② 単行本

文芸/英語圏(イギリス・アイルランド・アメリカ)

ウィリアム・B・イェイツ
 
イェイツ詩集 箱入
W・B・イェイツ全詩集 箱入
イェイツ戯曲集 単行本
神秘の薔薇 世界幻想文学大系24 貼箱入
ヴィジョン 箱入
まだらの鳥 単行本
ケルトの薄明 文庫
イェイツ編 ケルト幻想物語 文庫
イェイツ編 ケルト妖精物語 文庫
 
オスカー・ワイルド
 
オスカー・ワイルド全集5*旧版 完本 獄中記 貼箱入
オスカー・ワイルド全集6*旧版 エッセイ、講演、時評、評論 貼箱入
オスカー・ワイルド全集Ⅱ 貼箱入
オスカー・ワイルド全集Ⅲ 詩・詩劇・童話・箴言 貼箱入
スフィンクス 貼箱入
サロメ 文庫
ドリアン・グレイの肖像 文庫
獄中記 文庫
アーサー卿の犯罪 文庫
関連評論
ユリイカ80/9〈オスカー・ワイルド特集〉 雑誌
カイエ78/10〈ビアズリー特集〉 雑誌
ユリイカ78/10〈デカダンス特集〉 雑誌
 
ジョン・キーツ
 
キーツ全詩集2 貼箱入
キーツ全詩集3 貼箱入
 
エドガー・A・ポー
 
ポオ全集3 詩・評論 貼箱入
詩人E・A・ポー 単行本
 
ジョン・ミルトン
 
失楽園 貼箱入
楽園の回復・闘技士サムソン 貼箱入
 
ウィリアム・ベックフォード
 
ヴァテック 貼箱入
 
アラン・シリトー
 
長距離走者の孤独 文庫
屑屋の娘 文庫
グスマン帰れ 文庫
土曜の夜と日曜の朝 単行本
 
ルイス・キャロル
 
不思議の国のアリス 文庫本
鏡の国のアリス 文庫本
  
J・D・サリンジャー
 
倒錯の森 文庫
若者たち 文庫
ライ麦畑でつかまえて 単行本
サリンジャー選集1 フラニーとズーイ 単行本
サリンジャー選集2 若者たち 単行本
サリンジャー選集3 倒錯の森 単行本
サリンジャー選集4 ナインストーリーズ・大工らよ、屋根の梁を高く上げよ 単行本
ハプワース16日 一九二四 単行本
 
ソール・ベロー
 
宙ぶらりんの男 文庫
この日をつかめ 文庫
犠牲者 文庫
ソール・ベロー短編集 文庫
サムラー氏の惑星 単行本
オーギー・マーチの冒険(上・下) 単行本
 
ジョージ・オーウェル
 
カタロニア賛歌 箱入
 
ピーター・シェーファー
 
エクウス 箱入
その他
イギリス名詩選 CDブック

文芸/イタリア

プーリモ・レーヴィ
 
アウシュヴィッツは終わらない 単行本
今でなければいつ 単行本
周期律 単行本
休戦 単行本
溺れる者と救われる者 単行本
関連評論
プリーモ・レーヴィへの旅 単行本
プリーモ・レーヴィは語る 単行本
 
カルロ・レーヴィ
 
キリストはエボリに止まりぬ 単行本
 
ウンベルト・サバ
 
ウンベルト・サバ詩集 単行本
 
ウンガレッティ
 
ウンガレッティ詩集 単行本
須賀敦子編 イタリアの詩人たち 単行本
 
アルベルト・モラヴィア
 
深層生活 単行本
倦怠 単行本
一九三四年 単行本
漬えた野心(上・下) 文庫
黒マントの女 単行本
孤独な青年 文庫
軽蔑 文庫
無関心な人々 文庫
誘惑者 文庫
二人の女 単行本
 
レオナルド・シャーシャ
 
権力の朝 単行本
モロ事件 国家とテロ 単行本

文芸/スペイン語圏(スペイン・ラテンアメリカ諸国)

ガルシア・ロルカ
 
ロルカ戯曲集1 蝶の呪い・マリアナ・ピネーダ他 単行本
ロルカ戯曲集2 血の婚礼・ドン・クリストバルの・・・他 単行本
ロルカ戯曲集3 イェルマ・老女ドニャ・ロシータ他 単行本
ロルカ全詩集 Ⅰ 詩の本、カンテホンド、最初の詩、歌集 貼箱入
ロルカ全詩集 Ⅱ ジプシー歌集、ニューヨークにおける詩人、イグナシオ・サンチェス・・・、ガリシア・タマリット・拾遺 貼箱入
組曲集 貼箱入
小海永二/ロルカ ロルカ像の探求 単行本
Federico Garcia Lorca Poesia Completa Ⅰ 西語原典
Poesia Completa Ⅱ 西語原典
Poesia Completa Ⅲ 西語原典
 
エドュアルド・ガレアーノ
 
火の記憶1 単行本
収奪された大地 単行本
 
ミゲル・セルバンテス
 
ドン・キホーテ 前編 貼箱入
ドン・キホーテ 後編 貼箱入
 
パブロ・ネルーダ
 
ネルーダ詩集 飯塚書店 単行本
ネルーダ詩集 海外詩文庫 箱入
ネルーダ最後の詩集 単行本
マチュ・ピチュの高み 箱入・カセット付
ネルーダ回想録 単行本
ネルーダ愛の手紙 箱入
ネルーダ/ミストラル 声よ、消された声よ、チリに リーフレット
 
ボルヘス
 
創造者 世界幻想文学大系15 貼箱入
 
ラモン・サンペドロ
 
海を飛ぶ夢 単行本
 
その他 イスパニア現代詩選 単行本
カタルーニャ現代詩15人集 単行本

文芸/その他の地域

イツハク・カツェネルソン
 
滅ぼされたユダヤの民の歌 単行本
その他 現代イスラエル詩選集 単行本

精神分析学、精神病理学関連

ジークムント・フロイト
 
フロイト著作集1 精神分析学入門(正・続) 貼箱入
フロイト著作集2 夢判断 貼箱入
フロイト著作集3 文化・芸術論 貼箱入
フロイト著作集4 日常生活の精神病理学 貼箱入
フロイト著作集5 性欲論・症例研究 貼箱入
フロイト著作集6 自我論・不安本能論 貼箱入
フロイト著作集7 ヒステリー研究 貼箱入
フロイト著作集8 書簡 貼箱入
フロイト著作集9 技法・症例論 貼箱入
フロイト著作集10 文学/思想篇Ⅰ 貼箱入
フロイト著作集11 文学/思想篇Ⅱ 貼箱入
フロイト/フリースへの手紙 単行本
フロイト=ユング往復書簡(上・下) 単行本
イェンセン/フロイト グラディーヴァ/妄想と夢 単行本
フロイト/アインシュタイン往復書簡 ヒトはなぜ戦争をするのか 単行本
関連評論
ピーター・ゲイ 神なきユダヤ人 単行本
ピーター・ゲイ フロイト1 単行本
ピーター・ゲイ フロイト2 単行本
 
P・マトゥセック 妄想知覚論とその周辺 単行本
G・フーバー 妄想 単行本
B・H・シャルマン 精神分裂病者への接近 単行本
エミール・クレペリン 精神分裂病 単行本
ロールシャッハ 精神医学研究 単行本
ビンスワンガー 精神分裂病Ⅰ 単行本
V・ヤンツァーリック 分裂病の経過 単行本
カール・ユング 変容の象徴 単行本
A・バートン カウンセリングと心理治療 単行本
友田不二男 カウンセリングの技術 単行本
高橋義孝 芸術と精神分析 単行本
小俣和一郎 ドイツ精神病理学の戦後史 単行本
中井久夫 西欧精神医学背景史 単行本
エドワード・ショーター 精神医学の歴史 単行本
T・ギロビッチ 人間・この信じやすきもの 単行本
 
その他全集・雑誌
現代のエスプリ別巻 自殺学1 自殺の精神病理 雑誌
現代のエスプリ別巻 自殺学2 自殺の心理学・精神医学 雑誌
現代のエスプリ別巻 自殺学3 自殺の社会学・生態学 雑誌
現代のエスプリ別巻 自殺学4 自殺と文化 雑誌
現代のエスプリ別巻 自殺学5 自殺の防止 雑誌
現代のエスプリ別巻 現代人の異常性1 日本人の精神病理 雑誌
現代のエスプリ別巻 現代人の異常性2 精神の異常とは 雑誌
現代のエスプリ別巻 現代人の異常性3 性と愛の異常 雑誌
現代のエスプリ別巻 現代人の異常性4 現代家族と異常 雑誌
現代のエスプリ別巻 現代人の異常性5 異常の心理治療 雑誌
現代のエスプリ別巻 現代人の異常性6 異常の発見 雑誌
岩波講座 異常心理学講座1 異常心理学Ⅰ 貼箱入
岩波講座 異常心理学講座3 心理治療 貼箱入
岩波講座 異常心理学講座4 異常心理学Ⅱ 貼箱入
岩波講座 異常心理学講座6 精神薬理と脳病理 貼箱入
岩波講座 異常心理学講座7 精神病理学Ⅰ 貼箱入
岩波講座 異常心理学講座8 精神病理学Ⅱ 貼箱入
岩波講座 異常心理学講座10 精神病理学Ⅳ 貼箱入
現代のエスプリ 現代人の攻撃性 雑誌
現代のエスプリ 絵画と精神病理 雑誌
うつ病治療の最前線 こころの科学・別冊 雑誌
心療内科 こころの科学・別冊 雑誌
初回面接と見立て 臨床心理学vol.1 no.3 雑誌
精神分裂病の薬物療法100のQ&A 別冊 雑誌
心理学事典 箱入

自然科学関連

アイザック・アシモフ
 
空想科学入門 アシモフの科学エッセイ① 文庫
地球から宇宙へ アシモフの科学エッセイ② 文庫
時間と宇宙について アシモフの科学エッセイ③ 文庫
生命と非生命のあいだ アシモフの科学エッセイ④ 文庫
わが惑星、そは汝のもの アシモフの科学エッセイ⑤ 文庫
発見また発見! アシモフの科学エッセイ⑥ 文庫
たった一兆 アシモフの科学エッセイ⑦ 文庫
次元がいっぱい アシモフの科学エッセイ⑧ 文庫
未知のX アシモフの科学エッセイ⑨ 文庫
存在しなかった惑星 アシモフの科学エッセイ⑩ 文庫
素粒子のモンスター アシモフの科学エッセイ⑪ 文庫
真空の海に帆をあげて アシモフの科学エッセイ⑫ 文庫
見果てぬ時空 アシモフの科学エッセイ⑬ 文庫
人間への長い道のり アシモフの科学エッセイ⑭ 文庫
アイザック・アシモフの科学と発見の年表 単行本
 
スティーブン・J・グールド
 
人間の測りまちがい 単行本
嵐のなかのハリネズミ 単行本
ワンダフル・ライフ 単行本
フルハウス 生命の全容 単行本
暦と数の話 単行本
ダーウィン以来 『ナチュラル・ヒストリー』掲載の科学エッセイ
パンダの親指(上・下) 『ナチュラル・ヒストリー』掲載の科学エッセイ
ニワトリの歯(上・下) 『ナチュラル・ヒストリー』掲載の科学エッセイ 単行本
フラミンゴの微笑(上・下) 『ナチュラル・ヒストリー』掲載の科学エッセイ 単行本
がんばれプロントザウルス(上・下) 『ナチュラル・ヒストリー』掲載の科学エッセイ 単行本
八匹の子豚(上・下) 『ナチュラル・ヒストリー』掲載の科学エッセイ 単行本
干し草の中の恐竜(上・下) 『ナチュラル・ヒストリー』掲載の科学エッセイ 単行本
ダ・ヴィンチの二枚貝(上・下) 『ナチュラル・ヒストリー』掲載の科学エッセイ 単行本
S・J・グールド、オリバー・サックス他 消えた科学史 単行本
 
フランソワ・クリック DNAに魂はあるか 単行本
ロバート・ポラック
DNAとの対話 単行本
脳の時計、ゲノムの時計 単行本
 
アルバート・アインシュタイン 相対性理論について 単行本
ライアル・ワトソン
匂いの記憶 単行本
ダークネイチャー 単行本
 
その他 知の創造1
ジョン・ホーガン 科学の終焉 単行本

数学関係書

ジョン・アレン・パウロス
 
数学とユーモア 単行本
数字オンチの諸君! 単行本
数学するヒント 単行本
数学者が新聞を読むと 単行本
確率で言えば 単行本
天才数学者、株にハマる 単行本

美術書関連(但し、美術図録集や展覧会カタログ、輸入書を除く)

アルベルト・ジャコメッティ
 
私の現実 単行本
エクリ 単行本
関連評論
矢内原伊作 ジャコメッティ 単行本
ジャコメッティ=矢内原伊作 アルバム/ジャコメッティ 単行本
ジェイムズ・ロード ジャコメッティの肖像  単行本
 
ケーテ・コルヴィッツ ケーテ・コルヴィッツの日記 単行本
オディロン・ルドン 私自身に 単行本
ヴァン・ゴッホ 自画像の告白 単行本
ジョルジュ・デ・キリコ エブドメロス 単行本
J・P・ホーディン  ムンク-北欧の天才- 単行本
澁澤龍彦編 エロチシズム 単行本

神話伝承文学/オリエント神話

古代オリエント集 筑摩世界文学大系1 貼箱入
プルタコス エジプト神イシスとオシリスの伝説について 文庫
 
神話伝承文学/ギリシア神話
 
アイスキュロス ギリシア悲劇全集Ⅰ*旧版 縛られたプロメテウス、アガメムノーン他 箱入
ソホクレス ギリシア悲劇全集Ⅱ*旧版 オイディウス、エレクトラ他 箱入
エウリピデス ギリシア悲劇全集Ⅲ*旧版 メディア、トロイアの女他 箱入
エウリピデス ギリシア悲劇全集Ⅳ*旧版 オレステス、バッコスの信女 箱入
ギリシア悲劇全集10 アイスキュロス断片 箱入
ギリシア悲劇全集11 ソホクレス断片 箱入
ギリシア悲劇全集12 エウリピデス断片 箱入
ギリシア悲劇全集13 群小詩人断片 箱入
アリストファネス ギリシア喜劇全集Ⅰ 鳥・平和他 箱入
アリストファネス・メナンドロス ギリシア喜劇全集Ⅱ 蛙・調停裁判他 箱入
サッフォー サッフォー その人と作品 貼箱入
拾遺詩篇 ピエリアの薔薇 貼箱入
拾遺詩篇 ムーサイの谷の蜜の泉から 単行本
ホメロス 四つのギリシア神話 文庫
ホメーロス 筑摩世界文学大系2 貼箱入
イーリアス(上・中・下) 文庫
オデュッセイア(上・下) 文庫
クイントゥス トロイア戦記 文庫
ディクテュス、ダーレス トロイア戦争物語 トロイア叢書1 単行本
アポロドーロス ギリシア神話 文庫
ソポクレス オイディプス王 文庫
アンティゴネー 文庫
コロノスのオイディプス 文庫
アポロニウス アルゴナウティカ 文庫
 
神話伝承文学/ローマ神話
 
スエトニウス ローマ十二皇帝伝(上・下) 貼箱入
オウィディゥス 転身物語 貼箱入
悲しみの歌/黒海からの手紙 単行本
祭歴 単行本
クセノポン アナバシス 単行本
アルテミドス 夢判断の書 単行本
ヘシオドス 仕事と日々 文庫
神統記 文庫
アプレイウス 黄金のろば(上・下) 文庫
ホラティウス 歌章 単行本
 
ヴェルギリウス
 
アエネイアス(上・下) 文庫
牧歌・農耕詩 単行本
ダンテ 筑摩世界文学大系3 貼箱入
トリスタンとイズー物語 文庫
ヘルメス文書 単行本
ニーベルンゲンの歌(上・下) 文庫
 
旧約聖書
 
創世記
単行本
出エジプト記・レビ記
民数記・申命記
ヨシュア記・士師記
サムエル記
列王記
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エゼキエル記
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ルツ記・雅歌・コーヘレト記・哀歌・エステル記
ダニエル記・エズラ記・ネヘミヤ記
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旧約聖書外典(上・下) 文庫
 
新約聖書
 
マタイによる福音書・マルコによる福音書 単行本
ルカ文書
ヨハネ文書
パウロ書簡
公同書簡・ヨハネの黙示碌・パウロの名による書簡 単行本
ナグ・ハマディ文書 ナグ・ハマディ文書Ⅱ福音書 単行本 
 
イスラーム コーラン 井筒俊彦全集 貼箱入

社会・思想

B・ヴィルコミルスキー 断片 単行本
ハイム・A・カプラン ワルシャワ・ゲットー日記(上・下) 単行本
ルート・クリューガー 生きつづける 単行本
アルヴィン・マイヤー アウシュヴィッツの子供たち 単行本
ホルヘ・センプルン
なんと美しい日曜日(Ⅰ・Ⅱ) 単行本
ブーヘンヴァルトの日曜日 単行本
ロベール・アンテルム 人類 単行本
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罪と罰の彼岸 単行本
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ジャック・ロッシ さまざまな生の断片 単行本
ユルゲン・ゼルゲ 焚かれた詩人たち 単行本
ウィリアム・ヘルマンス アインシュタイン、神を語る 単行本
ハンナ・アーレント イェルサレムのアイヒマン 単行本
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ハナン・アシュラウィ パレスチナ報道官 わが大地への愛 単行本
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ユダヤ人とドイツ 単行本
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マルクス主義者とユダヤ問題 単行本
 
アントニオ・ネグリ ネグリ≪生政治的≫自伝 単行本

その他犯罪関連

マージョリー・ウォレス 沈黙の闘い 単行本
佐川一政 狂気にあらず 単行本
ライオネル・ダーマー 息子ジェフリー・ダマーとの日々 単行本
バート・ロンメル 処刑の科学 単行本
ロバート・A・ケスラー FBI心理分析官 単行本
 
 

※取り敢えずわたしが2006年6月までに(渡航準備の為、読書を断念)読んだ本のうち少年期に読んだミステリーやSF、映画の原作本などの海外娯楽小説を除く、ほぼすべてを列記しました。別項『歴史図書一覧』と併せてご覧ください。(なお、どうしても分類不可能なものは一部省きました。)

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